【五章】
はっと、急速にカンジの意識が浮上する。視界いっぱいに広がるのは、天井ではなくヒロの顔。見たことのない笑顔を浮かべた彼が、自分を至近距離で覗き込んでいる。目を瞬かせ、彼を呼ぶ。
「ヒーロー
…?」
「そうや。『オレ』はオマエの『ヒーロー』やで」
独特な訛り口調、ヒロはこのような話し方をしない。この話し方は間違いなく
…自分自身のものだ。ヒクリと頬が引き攣り、未知の不気味さに動揺する。目の前のコレの正体が読めず、喉をごくりと鳴らす。
「なんや、オマエ
……?」
「──『オレ』はオマエの『ヒーロー』、
そしてオレは『オマエ』のヒーローじゃない。分からんか?」
ヒロの形をしたソレが、真っ黒な絵画をこちらに向ける。パックリと口を開いて、カンジが飛び込むのを今か今かと待ちわびているようにも見える。ぐるりと黒が歪み、闇が渦巻く。ヒロらしき者は、カンジの左手首を右手で握る。その手は、乾いた粘土のように冷たい。
理解する。理解してしまう。
この絵は抜け殻なのだ。在るべきモノがごっそり逃げた、開きっぱなしの空っぽな籠。光が溢れた闇だけの穴。そしてこの“ヒロの器に入った闇”は、自分の半身で置いてきた部分。
「あるべき姿に帰り、元の場所に戻るだけ。それの何が不満なんや」
そうだ。自分は逃げた。
最愛の〈作品〉である自分は、いつものように〈美術館〉の外を夢見ていた。創造主に愛される日々に満ちながら、外の世界に憧れていた。
そして創造主の友人だというヒロと名乗る人間に協力を得て、ヒロの“存在”の半分を貰って外へ出た。輝かしい未来と世界に、色彩豊かな視界に喜んだ。
…けれど、受け取った“存在”は半分だけ。自分も“半分”しか出ることが出来ず、自身がどういう存在だったかの自覚を置いてきたのだ。ヒロも半分だけ戻って、自分と共に過ごしてくれた。
今、そこに在るのは自分だった部分だ。ヒロの半分と、自分の半分。創造主を愛することしかできない、他を愛せない自分。
あの日記を疑うことはできない。カンジの根源が、あれは現実を綴ったものだと告げている。自分は“逃げた部分”なのだと、まっすぐに突きつけてくる。
脳が震える、視界が揺れる、身体が固まる、音が拾えない、呼吸がブレる。それでも時間は止まらない。
「さぁ、戻ろう。愛されるために」
深淵が手を引く。
自分と同じ微笑みを、親友の顔に貼り付けて嗤う。
ああ、嗤う。嗤う。
彼への愛が迫ってくる!
────そしてカンジの口から、言葉が紡がれた。
「嫌やっ!!」
パシンッ!
ヒロの面をした自分、その手を振り払う。カンジがヒロの中身
…自身の半身を睨みつければ、半身は呆れた顔で叩かれた手を振る。残念そうではあるが、完全に意表を突かれたというわけではなさそうだ。予想、予感はしていたのだろう。
「
…ホンマにアホやな」
鬱陶しそうにそう告げた半身は、持っていた額縁を改めてカンジへ向ける。途端に深淵から溢れ出るのは、極彩色をした大量の腕。大きさはバラバラだが、どれも乾いた音を鳴らしている。恐らくあれは、紙でできているのだろう。しかしどれだけ個々が脆くても、集まれば脅威であることに変わりはない。
「ま、ええわ。同意は必要ないんやし」
一歩、半身が前に出る。その瞬間から、安っぽい紙の腕がカンジを捕らえようと襲いかかる。カンジはその場から跳ねて捕縛を避けるが、空を切った腕は諦めることなく再びうねる。金色を逃さぬよう、周りを徐々に囲っていく。
このままでは袋のネズミだと、カンジは確立しつつあった包囲網をすり抜けて駆ける。ひとまず額縁の後ろ側へと飛び出せば、ちらりと目に入ったものがあった。
それは細い茨だ。ソウゲツと自分を分断したものより細いが、同じようなものだと感じる。無意識に目で追えば、その片方は自身の半身が持つ額縁に繋がっているらしい。もう片方は、先にある扉に伸びている。
考えている暇はない。カンジは止まることなく、茨が繋がる部屋に転がり込む。後ろ手に扉を閉めて、そして部屋の奥に鎮座する物に気付いた。
ガラスが粉々になったショーケースの中、四方八方に茨が生える異質な本。開いた場所から花が咲くように、あるいは心臓から血管が伸びるようにして茨が生えている。いくつかが壁に突き刺さっていることから察するに、最初に飛び出した茨もあれに繋がっているのだろう。
「(これをどないかすれば
……アイツを倒せる?)」
先程までの話が丸々全部真実であると仮定して、ソウゲツに再会するのは少し不安がある。しかし、このまま捕まってしまうのも問題だ。目の前の作品があの〈作品〉の本体、もしくは付属品なのだとしたら、この本に干渉すれば半身にも影響があるかもしれない。
やれる事項を、頭の中で考える。いくつも試している時間はない。やれることは一つだけ。ポシェットを開いて、手を突っ込む。今まで手に入れたもの、今まで培ってきたものを使って最善の選択肢を導き出す。
この本を、カンジは
……
燃やす
刻む
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