49 |真相 - 再開
「私は人魚ではありません」
……青海さんの、静かな声色が突き刺さる。
泣いているわけでも、怒っているわけでもない。ただ、自分の中でようやく辿り着いた結論を、確かめるように口にしているだけだった。
青海さんは聡明な人だ、だからいつかこうなるだろうと、どこかで分かっていた。見ないふりをしていたのは自分の方だった
——。
「思い出したんです。父のことも。大江島のことも。あなたのことも」
「」
「綺麗なままではありませんでした。何一つ」
「」
「あなたがどういう方かは十分に分かっています。この一ヶ月余りで」
あの日の全てがのし掛かって、喉はひどく狭くなったように動かなかった。
歯の裏に言葉だけが当たって、どれも形になってくれない。
声が出ない自分に気がついたのか、青海さんは真っ直ぐと自分を見つめた。
「
……あなたは優しい方です。
人魚とは。声も届かず。想いも報われぬまま。終には泡になるものでしょう。
あなたは私の声を聞いてくださいました。私が壊れずに済むよう嘘までついて。懸命に報いようとしてくださいました」
「ですが私の望みは。泡になることです」
……何も返せない。ただ青海さんを助けたい一心だったのだと、そう信じていたかった。それ以外の名前を、まだ与えたくなかった。
青海さんは、黙りこくったままの自分にほんの少しだけ眉根を寄せて、視線を伏せた。
「
……どうか最期まで。優しくいてください」
それ以上の言葉は、やはり出てこなかった。
返事の代わりのように、自分は青海さんの身体へ手を伸ばした。
抱き上げた瞬間、青海さんは抵抗しなかった。こちらの首筋に額を寄せるようにして、静かに身を預けてきた。
その重みが、許されたからなのか、委ねられたからなのか、自分には分からなかった。
本物の浴室までは、ほんの数歩だった。けれど、その数歩がやけに長かった。
……部屋を風呂場と呼んでいた間は、まだ何とでも言えた。水の中で暮らすのだと。あなたはそういう生き物なのだと。
だが、今から向かうのはただの浴室だ。ただ人が身体を洗い、湯を張るためだけに作られた、本物の浴室
——。
青海さんを浴槽の中に下ろす。
青海さんが栓をして、水を溜めた。
蛇口から落ちる水音だけがやけに大きく響いた。
青海さんは何も言わなかった。浴槽の縁に指をかけ、静かに水嵩が増えていくのを内側から見ていた。
水が溜まり切ったのを見て、自分も浴槽へ滑り込む。
水はすぐに縁まで押し上がり、冷たい滴が床へ溢れた。
浴槽は、大人二人で沈むにはあまりに狭かった。脚は収まりきらず、肩はすぐにぶつかった。
どう考えても、綺麗に終われる場所ではなかった。
それでも、やるしかないのだと思った。
「
……大崎さん」
久しぶりにそう呼ばれた気がした。
「はい」
やっとそれだけ返せた。
「ありがとうございます。最後があなたでよかった」
違う、と言いたかった。
感謝されるようなことは、何もしていないのだと。
助けたつもりで、ずっと閉じ込めていたのだと。
正しかったことなど一つもないのだと。
けれど、やはり何も言えなかった。
水に身体を沈める。
肩口から熱が奪われていく。
息が溢れていく。
耳の奥で、自分の鼓動だけが変にうるさかった。
このまま沈んでいけば終わるのだと、頭では分かっていた。
青海さんの心を、これ以上壊さないまま。人魚の物語の結末として。
泡になって消える方へ、連れて行ける。
——自分が、したいことは、青海さんの心を守ることだ。
彼が壊れずに済むよう、現実の方を少しずつ歪めてきた。
人魚の物語を与えたのも、そのためだった。
風呂場と呼べない部屋を風呂場と呼び、水のない場所に水の気配を足し、人ではない何かとして生きられるようにした。
ならば最後まで、そうするべきなんだろう。
水の中で、青海さんの身体を抱え込む。
腕の中の重みが、少しずつ曖昧になっていく。
自分の指先も、もううまく感覚を返してこなかった。
これでいいんだと、繰り返し思おうとした。
あの人が人魚のまま終われるなら。
最後に見ているものが絶望ではなく、物語の続きであるなら。
それでいいのだと。
耳の奥で鼓動が鈍くなる。
肺が苦しい。
喉の内側が焼けるように熱い。
それでも、腕は緩めなかった。
青海さんの額が、まだ自分の肩口にある。
口許から漏れていた微かな息が、自分の首を伝って上って消えていく。
その泡も、いつの間にか途切れていた。それきり、腕の中の気配は返ってこなかった。
ああ
——きっとこれでよかった。これで、青海さんの物語は終わったんだ。
その確認だけを最後に、自分の意識もそこで途切れた。
*
「あーあ、こんなにしちゃって。折角掃除を頼んだのに」
「まあ、気持ちは分かるよ大崎くん。ひとりぼっちは寂しいもんな」
【エンド:泡沫】
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