deutzialaughing
2026-05-09 21:00:00
27634文字
Public 大穢
 

甌穴の海

大崎さんが人魚の青海さんと暮らす対話体SS集



5 |ラジオ

「大崎さん。ラジオを置いてはいただけませんか」
「ラジオですか?」
「はい」
「何か、聴きたいものでも」
「音楽です。……今の私に必要なのは開かれた音だと思ったので」
「開かれた音、ですか?」
「はい。ここに来てからは貴方と言葉を交わすのみでしたから」
「それは……退屈させていたならすみません。音楽を聴く方が好みでしたか、」
「退屈はしていません。ここにはあなたが来てくださいますから。ですが外から聞こえるんです。時折」
「何が聞こえるんですか?」
「鳥の囀りです」
……鳥」
「この閉じた世界を倦んでいる訳ではありません。ここにいるからこそ私は生きていられる。ただ。それでも想わずにはいられないのです。彼らの声を聞くと」
……外にいた頃のあなたを、ですか」
「いえ。外にいた頃の私に自由な歌はありませんでした。私が抱いているのは。有り得ざる空想です」
「青海さん……
「大崎さん——

「私にもどうか。音楽を」


6 |クラシック

「青海さんは、クラシックがお好きなんですか?」
「好ましくはあります。ジャズ。歌謡曲。民謡。オペラ。今日聴いているだけでも様々な音楽が流れてきましたが……最も気分が落ち着くのはクラシック音楽でした」
……自分の仕事場でも、たまにラジオを流します。ラジオ局の選定は上司がしていましたが……依頼者が来る時は、大抵クラシックに変えていました」
「人の心に馴染みやすい作用があるのかもしれません。クラシック音楽には」
……今、『立体放送』という言葉が聞こえたのですが。これは一体……?」
……説明を聞く限りですが。異なる放送チャンネルで同じ曲を流し。受信機であるラジオを聞き手の斜め前方にそれぞれ配置することにより。音楽が立体的に聞こえるそうです」
「今すぐもう一台を買うには、少々自分の懐が寂しいですね……
「別の局にしましょう。幸いラジオ局はここだけではありませんから」

……先ほどの曲、以前聴いたことがあるような」
「先ほどの。『美しい五月に』ですか」
「はい。曲自体をというよりは、その名前を」
「珍しいですね。曲名が記憶に残るというのは」
「というのも、この曲自体を聴いたのはこれが初めてなんです。確か……演劇の劇伴に使われていたと、後輩から聞いたことが」
……あの曲を」
「間違いなければ、ですが」

……気になります。脚本が」
「帰ったら、電話をして尋ねてみます」


7 |演劇

「後輩から脚本の複製を貰ってきました。どうぞ布教に使ってください、と」
……
「何か気になりますか?」
「随分と綴じ方が丁寧だと思いまして」
「それだけ思い入れがあるんだと思います。後輩も、この話が五本指に入るほどお気に入りだと」
「後輩の方にどうかお礼をお伝えください。……拝見します。捲っていただいても」
「分かりました」

……きっとここでしょう。曲が流れ始めたのは」
……確かに、後輩もそう言っていました。よく分かりましたね」
「あの曲は愛の曲ですから。流すのであればこの場面が相応しいと感じました」
「思い人への気持ちを吐露する場面ですね」
「大崎さん。この台詞を読んでみてください」
……自分がですか?」
「はい」

……大崎さん。もう少し語尾を落としてみてください。感情が先に露わにならないように」
「なるほど。……こうですか、」
「はい。ずっと近くなりました。続けてこちらを」
「なかなか難しいですね。……
……こちらは先ほどとは異なり。喉を詰めながら発声した方が良いかもしれません。切実な感情が言葉に乗ります。流暢さを意識する必要は無いかと」
「まるで見てきたかのように指示しますね」
「脚本家が優秀なんです。言葉を繊細に扱い。想いを確かに届けようとする」
……なるほど」
「さぞ人気なのでしょう。文字だけでこれほど惹き込まれるものを書けるのであれば。あなたの後輩が熱を上げるのも頷けます」
「次の公演が決まったら、自分も観に行ってみようと思います」
「その際はぜひ感想を」
「はい」

「「あ」」

「すみません。距離を誤りました」
「乾かせば問題ありません」
……ですが。滲みはそう簡単には消えません」
「この紙は好きに使って良いと、後輩から言われていますから。それに、むしろ自分としては嬉しいんです。青海さんと時間を共有できた証が増えて」


8 |間

「昨日の紙、無事に乾きました」
……跡は」
「少し残っています」
「そうですか」
「ですが、読めないほどではありません」
……そうであれば何よりです」
「気にされていたんですか、」
「昨日もあなたに慰めてはいただきましたが。……少しは」
「大丈夫です。傷んでいません。……少なくとも、自分にはそう見えます。少し跡が残っただけです」

……脚本について思ったことがあります」
「はい」
「今になって思い返すと。台詞より間の方が印象に残っている気がします」
「間、ですか」
「はい。言葉を置いた後の沈黙です」
……書かれていましたか?」
「台詞の間や。言葉が途切れる場所に」
……なるほど」
「ト書きに書かれずとも伝わる長さでした」

「昨日仰っていた、脚本家の優秀さでしょうか」
「そうかもしれません。何も言わないことで。却ってよく伝わるようになっていました」
……それは?」
「躊躇いや諦め。言葉にする前に一度飲み込むものです」

……
「大崎さん」
「はい」
「今のような間です」
……自分のですか」
「ええ。大崎さんは言葉を選ぶ前に少し黙るでしょう」
……そうでしょうか」
「はい。黙っている間も。話をやめているわけではない」
……
「そういった間は。言葉そのものより長く残ることがあります」


9 |声

「大崎さんの声は不思議です」
「不思議……ですか」
「はい。よく通る声でありながら強くは聞こえません。耳に残るのに押しつけられる感じがしない……と言えば良いでしょうか」

「朗読したからでしょうか」
「いいえ。それだけではないと思います」
「では、他に理由が……?」

「元々あなたの声には雑音が少ないんです」
「雑音?」
「はい。余計なものが混じらず真っ直ぐに届く」
……よく聞いていますね」
「意識せずともそう聞こえるんです」
……自覚はないんですが」
「人に聞き取りやすいよう言葉を選んでいるでしょう」
「それは……確かに、多少は意識しています」
「声の大きさではなく。届き方を整えているんです。あなたの声は」
……流石に、少し大袈裟では」
「そうでしょうか」
「ええ。……それに、言葉を選んでいるのは青海さんも同じでしょう。聞き手が迷わないよう丁寧に話されています」
……それは。そうあろうとしているのかもしれません」
「ですので、自分だけが特別というわけではないかと」

……私が言いたかったのは。大崎さんの声についてです」
……すみません。話を逸らしました」
「そう言ったところも含めて。……音楽とは別の意味で。聞いていて少し安心します」