deutzialaughing
2026-05-09 21:00:00
27634文字
Public 大穢
 

甌穴の海

大崎さんが人魚の青海さんと暮らす対話体SS集



31 |使われない部屋

「この家には、他にどのようなお部屋があるんですか」
……他、ですか」
「はい。ここ以外にも部屋はあるのでしょう」

「台所と、寝室と、書斎のように使っている部屋が一つ」
「書斎」
「本や書類を置いています。仕事に使うこともあります」
「では。普段使っているのはそのあたりですか」
「そうなります。他にも部屋はありますが、開けるのは掃除の時くらいでしょうか」

……随分と広い家を借りたんですね」
「そうですね」
「持て余しませんか」
「持て余しています」
「では。何故この家を」
……事情がありまして」
「事情」
「はい」

「大家さんから借りているからですか」
「それもあります。自分で選んでいたら、もう少し狭いところにしたと思います」
「大崎さんらしいですね」
「そうでしょうか」
「はい。必要な分だけあれば足りると考えそうです」
……否定はしません」


32 |扉越し

「大崎さん。今。どちらにいらっしゃるんですか」
『隣の部屋です。昨日の話があったので、少し掃除をしようかと。声は届いていますか』
「はい。少し遠くは聞こえますが」
『扉を開けましょうか。埃が立つようならすぐ閉めます』
「いえ。このままで結構です」
『聞き取りにくくありませんか』
「聞き取りにくいというより。姿が見えない分。声だけになるんです」

『声だけ、ですか』
「はい。見えない場所にもあなたがいるのだと」
……不安ですか』
「いいえ。声が届いていますから」

「この家には、私からは見えない場所があるんですね」
……そうですね』
「昨日、お部屋の話を伺ったからかもしれません」
『気になりますか』
「少しだけ。ですが今は聞こえれば十分です」

『何かあれば呼んでください。すぐ戻ります』
「はい。問題ありません。このくらいの距離なら」


33 |届く高さ

「こちらは、棚に戻しておきます」
……大崎さん」
「はい」
「少し高いかもしれません」

「高い?」
「はい。手を伸ばせば届きますが。取りやすい高さではないと思います」
「すみません、背丈の感覚で置いていました。……この辺りはどうですか」
「はい。そのくらいなら無理なく取れます」

「青海さんなら届くだろうと。そう思ってしまったのかもしれません」
「いえ。以前の私も同じように思っていました。届けば足りると」
「今は違いますか」
「はい。届くまでに余計な力が要るものは。少し遠いのだと分かりました」
「遠い」
「距離ではなく。高さの話ですが」
「ええ、分かります」

「よく使うものは、この段にしましょう」
「よろしいんですか」
「ええ。使うものを、使える場所に置くだけです」
……
「どうかしましたか」
「いえ。そう言っていただけると。こちらからも言いやすくなります」
「自分も、その方が助かります。分からないまま置くよりずっと」

「使うものを、使える場所に置く」
「はい」
「それだけのことなんですね」
「そう思います」


34 |香

「今日は、少し匂いが違いますね」
「匂い、ですか」
「はい。いつもの水や石鹸の匂いではなく」
「どんな匂いですか?」
「甘くはないのに、柔らかいというか」
「随分と曖昧ですね」
「強いていえば。香木に近い気はします」
「香木……
「ええ。少し馴染みのある匂いです」
「以前にも嗅いだことが?」
「はい。どこで嗅いだのかまでは分かりませんが」

「そういえば、昨日の掃除中、以前いただいたものを少し出しました。湿気で香りが立ったのかもしれません」
「水場には似合わない匂いですね」
「そうですね」
「ですが。不思議と嫌ではありません」
「強すぎませんか」
「いいえ。この家が少し静かになるような匂いです」
「元から静かな家だと思いますが」
「ええ。ですが今日は。一層そのように思えます」
「それは……

……馴染みのある匂いだからでしょうか」
「何か思い出せそうですか」
「いいえ。ただ」
「はい」
「この匂いは。何かを静かに待つ時のものに近い気がします」


35 |裁き

「亡くなった方は。七日ごとに裁かれると聞きました」

「裁き、ですか」
「命日から七日ごとに。初七日。二七日。三七日と。そうして四十九日を迎えるまで」
「随分と細かいですね」
「大崎さんはそう思いますか」
「ええ。……丁寧というより、逃がしてもらえないような気がします」
「逃がしてもらえない」
「まるで、何度も呼び止められるようで」

……大崎さんは。呼び止められたくないんですか」
「人は誰しも、多少の後ろめたさを抱えているものだと思います。一度ならともかく、何度も繰り返し裁かれるとなれば、辟易する人は多いのではないかと」
「大崎さん自身は」
……あまり、想像したくありません」

「確かに。何度も呼び止められるのは苦しいことだと思います」
……
「ですが。呼び止められなければ。形にならないものもあるのではないでしょうか」
「形に……ですか、」
「はい。何が悪かったのか。何を悔いるべきなのか。誰に赦しを乞うべきなのか」
……
「何も裁かれないままでは。どこへ行けばよいのかも分からないでしょう」

「それは、亡くなった方の話ですか」
「はい。ですが。裁かれているのはむしろ残された者の方かもしれません」
「残された者……
「死者が裁かれるという形を借りて。生きてしまった者が自分の罪を数えているのではないでしょうか」

……その場合、赦しを与えるのは、誰なんですか」
「それもまた。生きている者ではないでしょうか」
「自分で、ですか」
「はい。ですがそれが一番難しいのでしょう。きっと」