deutzialaughing
2026-05-09 21:00:00
27634文字
Public 大穢
 

甌穴の海

大崎さんが人魚の青海さんと暮らす対話体SS集



26 |おまじない

「大崎さんは。夜の支度をいつも同じ順番でなさるんですね」
……そうですか?」
「はい。明かりを落とし。手拭いを置き。ラジオの音を小さくするところです」
「癖になっているのだと思います。昨日も、手が勝手にその順番で動いていました」
「昨日」
「はい。……少し話しにくいことを話した後でも」

「順番が変わらないと少し安心します」
「安心、ですか」
「はい。一日が恙無く終われば。どこかへ流されずに済む気がします。話したことも」
……流した方が良い話もあるかもしれません」
「そうでしょうか」
……流さない方が良いと、青海さんは思われますか」
「いえ。そうではなく」
「はい、」

「大崎さんが。流そうとしているようには見えなかったので」
……
「いつもの順番に戻しているように見えます。途切れないように。何事もなく夜が終わるように」

……そう見えますか」
「はい。何かを願っている手つきに見えます」
……
「おまじないのようですね」
……確かに、少し似ていると思います」

「効くのでしょうか」
……分かりません。ですが、効いてほしいとは思います」


27 |名前の呼び方

「青海さん」
「はい」
……そろそろ、名前で呼び合ってもよいのではないかと思いまして」
「名前で」
「はい。差し支えなければ、ですが」

「私の名をですか」
「ええ」
……今のままでは。不便が生じると」
「そういうわけではないので、無理にとは言いません。青海さんが嫌であれば止めます」

「大崎さんの名前を呼ぶことは。恐らくできます」
「自分が、青海さんの名前を呼ぶ方は」
……難しいかもしれません」

……そうですか」
……名を呼ばれる行為は嫌ではないんです。そうではなく。私の名前自体が」
「嫌、ですか」
「はい」

「では、今まで通りにしましょう」
「よろしいんですか」
「はい。嫌な呼ばれ方をする必要はありません」
……
「呼び方を変えなくても、近くなることはあると思います」

「大崎さん」
「はい」
「すみません」
「謝ることではありません」
……
「青海さんと呼ぶことも、自分にはもう十分近いので」
……そうですか」
「はい」


28 |葬祭

「少し、暗い話をしても」
「どうぞ」
「仕事場からここに向かう道中で、猫が死んでいるのを見かけました」
……猫が」
「ええ。見覚えのある野良でした。よく塀の上にいたものですから」

「事故ですか」
「出血があったので、恐らくそうでしょう。狭い道でしたし、運悪く轢かれてしまったんだと思います」
……その後は。どうなったんですか」
「近所の方が箱を持ってきて、布を掛けていました。野良とはいえ、そのままにはしておけないと」
……愛されていたんですね。その猫は」
「そうかもしれません。近所の方には、よく足元に擦り寄ってご飯をねだっていたようです。自分にも擦り寄ってくるくらいですから、人慣れしていたのでしょう」

「だから見つけてもらえたのでしょうね。その猫は」

……そうですね」
「それだけは。少し良いことのように思います」
「良いこと、ですか」
「はい。道端に取り残されることなく。死んだ後も誰かに見送ってもらえることが」
……
「箱や布は。亡骸に行き先を作るためのものなのかもしれません」
「行き先」
「はい。そこに残されたままにしないための」


29 |鍵の音

「今の音で分かりました」
……何がですか」
「大崎さんが戻られたことです。鍵の音がしました」
「そういうものですか」
「ええ。この家は静かですから」

「では、足音より先に」
「はい。戸を開ける音と。閉める音はよく響きます」
……
「不思議ですね。顔を見る前に帰ってきたと分かるのは」

「嫌でしたか」
「いいえ。むしろ少しだけ安心します」
……
「音がすると。一日がちゃんと戻ってくるような気がします」

「では、ただいまを言うのが遅くなりましたね」
「はい」

「ただいま戻りました」
「お帰りなさい。大崎さん」


30 |そして誰もいなくなる

「『そして誰もいなくなる』はご存知ですか」
「題だけは」
「孤島に招かれた人々が、一人ずつ殺されていく話です」
……嫌なお話ですね」
「ええ。しかも外は悪天候で、すぐには逃げられない」
「閉じた場所というわけですね」
「はい。だからでしょうか。誰かが死ぬたびに、残った者の息苦しさの方が強くなる」

「息苦しさ」
「ええ。いなくなった人のことを考えるより先に、犯人は誰だ、次の犠牲者は誰だと疑念が走ってしまうので」
……嫌ですね」
……ですが、そういう考え方が先に来てしまうことも、往々にしてあるんです。閉じた場所では、正常な判断が難しくなりますから」
……実感がこもっていますね」
「そう聞こえましたか」
「はい」
……ただの読後感です」
「そうですか」

……青海さん」
「はい」
「ここは、息苦しいですか」
……
「すみません。今のは」
「いえ」

「息苦しいわけではありません」
「本当ですか、」
「はい。ここには大崎さんが来ますから」
……
「ただ。誰かがいなくなる話は。少し苦手かもしれません」
「失われる話だからですか」
「それもあります。ですが」
「はい」
「いなくなった人を数えるうちに。いる人のことまで。いつか数え間違えてしまいそうで」
……
「そういうことが。少し恐ろしいと思います」