kaisou
2026-04-14 12:53:12
11711文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Habemus Papam.  我らは教皇を得たり

1740年コンクラーヴェ話・別視点7

コンクラーヴェ後の話。新しい教皇を得て、世界が前へ進みはじめる。自分だけは手放さない

※歴史創作なので悪しからず

▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

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全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。



 名誉の回復そのものには、もう大した意味を感じていなかった。

 人々の見方が変わることでも、呼び名がましになることでも、埋まるような欠け方ではなかった。失われたものは、そういうところにはない。
 問題は評判の良し悪しではない。 自分があの人の人生のどこに立っていたか、だった。そこだけは、どうしても手放したくなかった。きれいな形でなくていい。正しい理解でなくてもいい。むしろ、そんなふうに整え直されることのほうが、コシアには耐えられなかった。穏当な記憶の中へ収められた途端、自分のいた位置まで薄まってしまう気がした。

 だからこそ、切り捨てきれない。

 人々が貼りつけた悪名も、歪められた語られ方も、払いのけようとは思えない。そこに残ってしまうのは、自分の位置の滓だった。あの人の近くにいたという事実が、汚れたかたちででも沈殿しているなら、それを完全に洗い流されることのほうが恐ろしい。
 それは、美しい追慕ではなかった。忠誠と言い張るには濁りがある。献身と呼ぶには執着が強すぎる。かといって、ただ所有したいわけでもない。手に入れたいのではない。奪いたいのでもない。そんな単純な欲では、ここまで長くあとを引かない。
 消えたくないのだ、とコシアは思った。あの人の人生から。あの人の時間から。疲れた夜にだけほどけるもの、あの静けさの中から。あの場所に自分がいたという事実が、誰かの記憶にも、歪んだ語りの中にでも、かたちとして残っているうちは、まだそこにいられる気がした。
 消えたあとでさえ、消えたことにされたくない。それがどれほど浅ましくても、そこに自分の本音がある。

 コシアは歩きながら、わずかに目を伏せた。

 いまさら潔白に見直されたいわけではない。美談の中へ拾い上げられたいわけでもない。そんなものは、あの人のそばにいた時間の代わりにはならない。
 そう考えてしまう自分を、コシアは弁護しなかった。ただ、それが自分の執着の正体なのだと、ようやく言い逃れせずに見た。忠誠でも献身でもない。愛と名づけて済ませるには、あまりにも濁っていた。それでもなお、そこにしか自分の居場所は残っていなかった。

 その事実だけが、いまも静かに、しかし確かに、彼の足元にあった。