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kaisou
2026-04-14 12:53:12
11711文字
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1740年コンクラーヴェ話
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Habemus Papam. 我らは教皇を得たり
1740年コンクラーヴェ話・別視点7
コンクラーヴェ後の話。新しい教皇を得て、世界が前へ進みはじめる。自分だけは手放さない
※歴史創作なので悪しからず
▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある
https://privatter.me/user/kaisou_ja?category=110867
全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。
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夜は更けていた。
人払いはすでに済み、扉の向こうの気配も薄い。昼のあいだ絶え間なく出入りしていた声や足音は遠のき、部屋にはようやく、ものが本来そこにあるときの静けさが戻っていた。
公の顔を保つ必要がなくなると、オルシーニの疲労は目に見えて表れた。崩れるというほどではない。ただ、張っていたものが少しだけほどける。声が低くなり、返事までの間が長くなる。椅子にもたれる肩の重さが、先ほどまでとはわずかに違う。
コシアはいつものように動いた。灯りの位置を直し、手元にあるべきものを寄せ、目につく乱れを音もなく整える。どの順に手をつけるかは、すでに身体に染みついている。考えるより先に手が動く。それは長く繰り返された務めだった。
オルシーニはそれを当然のように受け入れていた。礼も命令も要らない。そこにある手つきを、そのまま当然のものとして受け取る。慣れと言ってしまえばそれまでだが、それでは足りない何かがあった。
「今夜は、もうお休みになられたほうがよろしいかと」
いつもと変わらぬ調子で、押しつけず、しかし引きすぎもしない距離で、コシアはそう言った。オルシーニはすぐには答えなかった。少し目を閉じたまま、息だけが出入りする。やがて開いたまぶたの奥には、昼のあいだ人前に向けていた張りがなかった。
「
……
そうだね」
短い返答だった。疲れていることを隠そうとしない、そのこと自体がコシアには私的に響く。
部屋に沈黙が落ちる。気まずさではなかった。何か話さなければならない義務のような空白でもなく、ごく自然な静けさだった。オルシーニは黙ったまま、側にコシアを留めている。コシアもそれを埋めようとはしない。二人のあいだでだけ成り立つ時間が、ここにはたしかにあった。
コシアは杯を寄せた。手を伸ばせば届く位置へ、それだけを整える。望めば触れられる距離にいる。だがその距離を意識するほど、指先が妙に重くなる。節度の内側に留まることが、このときばかりは意志の力を要した。
オルシーニは杯には手をつけず、代わりにコシアのほうを見た。
「おまえは、まだ下がらぬのかい」
叱責ではなかった。問いかけの形を借りているだけで、そこにあるのは柔らかな気配だった。コシアは一瞬だけ返答を失い、すぐにいつもの顔へ戻る。
「聖下がお休みになられるまでは」
「そうやって」
オルシーニはそこで言葉を切った。苦笑ともため息ともつかない、微かな息が落ちる。
「
……
そうやって、いつも自分のことを後へ回す」
低く穏やかな声だった。強く言い聞かせるでもなく、責めるでもない。見えてしまったものをそのまま口にしたような声。コシアの指先が、わずかに止まった。「そのようなことは」
「ある」
今度は、短く遮られた。きつさはない。そのぶん逃げ場もない。オルシーニは椅子に深く身を預けたまま、しばらくコシアをじっと見つめていた。
長く控えていること。
張りつめたまま少しも気を抜かないこと。
言葉にされる前から見透かされている気がして、コシアは視線を伏せるわけにもいかなかった。
「少しは休め」
命令というより、頼むような声音だった。務めの秩序に収まりきらない、私的な情の温かさがそこにある。それが、コシアには堪えた。
「私のことより、聖下が」
返した声は、思ったより硬かった。オルシーニはそれを聞いて、かすかに眉を動かした。怒ったのではない。その硬さを見逃さなかった。
「私のことより、と言うが」
少しだけ、唇が疲れたように笑んだ。人前に向ける笑みではなかった。
「おまえは、私が何も見ていないと思っているのかい」
コシアは何も言えなかった。自分の内に押し込めているもののうち、少なくとも表面に近い部分は、相手の目に触れている。その事実が、胸の内側に熱を残して沈んだ。
オルシーニは少しだけ目を閉じ、呼吸が浅くなる。昼のあいだ張りつめていたものが夜更けとともにほどけ、弱りが自然に表へ出る。その弱りを、コシアの前では隠そうとしない。
コシアは一歩近づいた。必要以上でも以下でもない距離だけを詰める。それだけがかえって辛い。これ以上でも、これ以下でもない。そのことが、このときに限って、妙に喉のあたりに引っかかった。
「灯りを落としましょうか」
「
……
少しだけ」
コシアは燭台に手をかけた。部屋の明るさがやわらぐ。影が深くなり、物の輪郭だけが残る。公の場の明るさではなく、夜が人を包み込む暗さになった。
自室に戻ろうとしたときだった。
「コシア」
呼ばれた名は、あまりにも自然だった。ほとんど無意識に、疲れた夜にいちばん近くにいる者を求めただけの声。長い言葉も、特別な意味も、そこにはない。そうであるはずだった。なのにコシアの胸の、深いところへ、その一声が落ちた。ためらいなく、まっすぐに。
足が止まる。返事をしなければならない。わかっている。だが一瞬、その一瞬だけ、言葉が出なかった。あの声が胸の内側で反響して、静まるまでの時間が要った。「
……
はい」
かろうじて平静を保った返事だった。けれど内側で何かが傾いたのを、コシアは知った。
必要とされた、と思ってしまう。与えられていないものまで探ろうとする、そういう欲の形を、言い逃れできないほどはっきり見た。
オルシーニは、なおもコシアを見ていた。そこにいることを当然として受け入れている目だった。その信頼の深さが、かえって抜けどころをなくす。
「
……
おまえがいると、楽だ」
ほとんど息に近い声だった。それだけだった。それだけで十分すぎた。
コシアは目を伏せた。その一言が、胸の奥でじわりと広がって、消えない。顔を上げていたら、押し込めていたものが滲み出る気がした。
「恐れ入ります」
返せる言葉は、それしかなかった。務めの外へ一歩も出ない返事。名前を与えた瞬間に壊れる。距離も、均衡も。壊したいわけではなかった。壊してしまえば二度とこの場所へ戻れないことを知っている。だから何も言わない。
オルシーニはそれ以上何も求めなかった。コシアがそこにいることに安堵したように、目を閉じた。
コシアは動かなかった。整えるべきものを整え、支えるべきものを支え、その場に留まり続ける。あくまでその場所にいた。そこにいることでしか、この夜を壊さずに抱え込めなかった。だから、何も起きなかった。越えてはならない一線は越えなかった。告げるべきでないことは何一つ告げられなかった。
夜はそのまま過ぎた。
だがコシアにとっては、それで十分に決定的だった。石の冷たさと煤の匂いの中で、何度取り出して確かめたかわからない。あとになって残ったのは、ただ幾つかの断片だけだった。
浅くなった呼吸。
落ちる沈黙。
名を呼ぶ声。
その一声に、自分がどれほど深く揺れたか。それだけで、足りてしまった。
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