kaisou
2026-04-14 12:53:12
11711文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Habemus Papam.  我らは教皇を得たり

1740年コンクラーヴェ話・別視点7

コンクラーヴェ後の話。新しい教皇を得て、世界が前へ進みはじめる。自分だけは手放さない

※歴史創作なので悪しからず

▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

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全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。



 見る目は、赦しのあとにも消えない。

 むしろ赦されたあとのほうが、人はよく見ることがある。追放されたまま遠ざかる者より、いったん裁かれ、しかるのちに戻ってきた者のほうが、眺めるには都合がいい。失脚も赦免も、どちらもすでに済んだ出来事として扱えるからだ。

 コシアはその視線の中を歩いていた。

 あからさまなものばかりではない。挨拶の角度は崩さず、その一瞬だけで値踏みを済ませる顔。沈黙のまま「あの男だ」と了解しあう気配。そういうもののほうが、むしろ始末が悪い。赦されたからといって、評判まで洗い流されたわけではない。
 ローマは、赦しには赦しの、記憶には記憶の裁きがある。判決が変わっても、一度根付いた物語はなかなか変わらない。人々の中では、コシアという人物の輪郭がとうに引かれていた。

 老いた教皇に取り入り、操った男。
 聖座の陰に巣食った者。

 誰が最初にそう言ったかは、もう意味を持たない。悪意と判決文の断片、後からつけ足されたもっともらしい解釈とが、人の口に乗せやすい形へ歪められた。複雑な事情も、言葉にならなかった部分も最初から要らない。都合よく切り落とされ、扱いやすい骨格だけが残る。
 コシアはそれを訂正しなかった。個人の弁舌で覆る段階は、とっくに過ぎていた。いったん「そういう男だ」と貼りつけられれば、その先もう、元の位置には戻れない。
 回廊の向こうから、短い笑い声がした。弾むような明るさではない。抑えられた、しかし互いに了解のある笑いだった。新しい教皇を得て空気がゆるんだこの日には、なおさら人はよく喋る。祝意のあとに来る饒舌さは、たいてい余計なものまで連れてくる。

 コシアはそちらを見なかった。

 自分へ向けられた声でなくとも、それを含んだ空気であることくらい、長年の勘が先に知る。それでも歩幅は変えない。
 善人と悪人、老いた主君と狡い側近、敬虔と腐敗。そういう並べ方ができるなら、人は安心する。

 コシアは、ただ前を向いた。

 耳に入るものは入る。視線も感じる。だが、もう十分に生き延びた物語だ。自分がわざわざ息を吹き返してやるまでもない。
 通り過ぎる窓の向こうで、広場のざわめきはまだ明るかった。祝意は都のあちこちに満ちたままだった。その明るさの下で、自分についての理解もまた静かに固定されているのだと思うと、ローマという街の手際のよさが、滑稽だった。
 人を赦し、元に戻すこととは違う。この街はその違いを、誰に教えられずともよく知っている。

 コシアは歩みを止めなかった。

 止まったところで、自分についたものは何ひとつ剥がれはしないのだから。