八上
2026-03-17 17:22:38
16185文字
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鬼の打掛

夜昂と玖寂の話。夜昂の因習実家関連の決着話(予定)


■『お山』

 ――意識が徐々に覚醒する感覚。頬や手に感じる硬い感触。かつて慣れ親しんだ、地面のような……
 はっ、と夜昂は目を覚ました。
 顔を上げると、そこは森の中らしく木々が生い茂っている。枝葉に遮られた空はよく見えないが、夕暮れのように見える。ふと冷たい風が吹いた。
……どこだ、ここ……
 思い出す。最後の記憶では天槻の屋敷にいたはずだ。急に屋敷の中が騒がしくなって、廊下に出ようとして、そして……
 記憶はそこで途切れている。
 何も分からないまま起き上がり、周囲を見渡す。どうやら山の山頂付近にいるようだ。急な斜面や下っていく細い山道が見える。
……ずっとここにいるよりは……
 そう考えて、夜が迫り来る山に背を向け、細い山道を下り始めた。


 ――帰りたい……

 ――帰りたい……兄様……家に帰りたい……

 夜の風に混じって、女の泣き声が聞こえた気がした。


 山を下っていると、少し開けた場所に出た。しかし手入れはロクにされていないのか、岩や大きな石がゴロゴロと転がっており、雑草も随分生えている。
……祠?」
 中央には小さな祠のようなものが据えられているが、木製のそれはボロボロで、触れば今にも壊れそうだ。
 傍には小さな立て看板のようなものもあるが、こちらも風雨でかなり傷んでおり、識字は難しい。
………………? 駄目だ、分からん」

 そんな時、夜昂の着物の袖の中でもぞもぞと動くものがあった。はっとして袖の中に手を突っ込むと、そこからは手のひらサイズの赤いひよこが出てきた。
「ぴよ! ぴー!」
「ごめん、忘れてた」
 良かった、寝てる時に下敷きにしてなくて、と思いながら夜昂はひよこを頭の上に乗せた。久々の定位置についたひよこはどこか満足気に「ぴよ」と鳴いて、長い尾羽を揺らめかせた。

 祠を後にして、山道を下る。太陽は完全に落ちてしまったようで、辺りは暗い。真っ暗な山道はあまりにも心細く、遭難しそうだとも思うが、闇の中から時折感じる視線のような気配に、一晩もここにいてはいけない気がしてならない。斜面に足を取られないように、夜昂は慎重に足を進めた。

 あれからどれくらい下っただろうか。体感ではかなり下りた気がするが、まだ麓らしき場所には出ない。月も見えない山の森は夜昂の心を蝕むように、密やかな恐怖を植え付けてくる。
 ――ずっとこの夜の山から出られないのではなかろうか。そんな考えが頭を過ぎる。
「ぴよ」
 夜昂の心の内が伝わったとは思いにくいが、頭の上のひよこがひと鳴きした。それだけでも夜昂にはまだ足を踏ん張る気力が戻った。
……うん」
 大丈夫だ。今までだって、生きてきたから。
 ――風に混じり、また女の啜り泣きのような音がした。

 ――帰りたい……家に帰りたい……

……俺も帰りたいよ」

 思わずぽつりと呟いていた。元居た街に戻りたい。あのタワーマンションの一室で、友達と飯を食いながら馬鹿な話に花を咲かせたい。ぬるま湯のような刺激のない人生かもしれないが、夜昂にとってはそれが何より失い難かった。
 弱音と一緒に出そうになった涙を堪えていると、先の見えない山道の向こうからガサ、と落ち葉を踏むような足音が聞こえた。
「ひ、」
 こんなどことも知れぬ山に、しかもほとんど使われている形跡が無くかろうじて残っているだけの山道を、夜に登ってくる者などいるだろうか? 夜昂に緊張が走った。
(「いや、大丈夫だ、最悪ユーベルコードも、ある」)
 夜昂のユーベルコードは多彩な方ではないが、それでも一発殴って逃げるくらいなら出来るだろう。人間相手では殺してしまう可能性があるが、向こうから来るものが人間ではない可能性もある。
 足音が近づいてくる。夜昂が利き手を握り締める。そして。
……え」
「夜昂くん?」
 現れたのは、自分をあの屋敷に押しやった、見覚えのある黒髪と眼鏡の男だった。
「なん、で、こんなところに」
「説明は道中で。下りますよ」
 八上・玖寂が夜昂の手を掴んで引き、さっさと来たばかりの山道を下り始めた。その最中、玖寂は夜昂に自分がこの山へ来た経緯を手短に話した。
 ――父の死、大伯母の執念、山の鬼女、生贄。
 話が進むごとに、夜昂は顔から血の気が引くのを感じていた。
 ――俺、血縁に殺されるところだったのか?
 恐怖と安心感のふたつの相反する感情が、夜昂の中にあった。……安心感?
(「……ああ」)
 安心したのだ。自分を探して山を登ってきた玖寂の姿を見て。裏切られたと思った。利用されたと思った。それでもこんな風に思うなんて、現金すぎる。そう感じるけれども、不思議と嫌な気はしなかった。
……あの」
「はい?」
「懐中電灯とか持ってこなかったんすか」
「持ってきてましたが、山に入った途端点かなくなったので仕舞いました」
「ん……
 やっぱりこの山は何かがおかしい。時折感じる良くない気配の所為か、それとも風に混じる女の声の所為か。もしくはどちらもなのか。
 ――山から、強い風が吹いた。

 ――許さない……

 ――お前だけ帰るなんて許さない……

……ッ!」
「夜昂くん?」
 唐突に足を止め、怯えたように周りを見渡す夜昂を振り返り、玖寂は怪訝そうに声を掛けた。
「声が、」
「声?」
 聞こえませんが、と言う玖寂に夜昂は焦燥を覚えた。確かに聞こえたのだ。今までの悲しげで風に混じるような儚い声とは違う、明らかに怒りと憎しみを滲ませた声が。

 ――また強い風が、吹いた。

……ッあ、」

 風と共に感じたぞっとするような空気に、夜昂は息を飲んだ。玖寂は警戒するように山道の先を見ている。

 そこにいたのは、女だった。

 背丈が2mはあろうかという、極めて長身の若い女である。しかし頭には捻くれた角が二本、口元には隠しきれない長い牙と、手元にはあまりに長すぎる爪が生えており、とても人間とは思えない容貌であった。夜の闇の中でも金の瞳は爛々と輝き、その身には翠に金の模様をした打掛を纏っていた。まるで昔の花嫁のようだ、と夜昂は思った。
 そして悟った。彼女こそが『お山の鬼女』であり、時折感じた声と視線の主なのだと。

 ――許さない……
 ――お前だけ帰るなんて許さない……

 人とは思えぬ唸り声のどこかから、怒りの言葉が夜昂の耳に届いた。
 庇うように玖寂が夜昂の前に出る。その手には暗器が指の隙間に挟まれていた。
「呆けている暇はありませんよ。斜面に足を取られないように」
「あ……ああ……
 夜昂が利き手を握り締める。今日は錫杖の音は響かない。
 二人の猟兵の戦意を見て、鬼女は咆哮を上げながら襲い掛かってきた。