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史加
2025-12-19 12:28:25
53658文字
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さいごのばんさん
ファイモス/転生×現代×学パロ/完結した物語を本棚にしまうまでのお話
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四.最後の晩餐
天高く昇る太陽が容赦なくオクヘイマを照り付けている昼下がりは、まるで地獄のような暑さだ。しかし立ち込める熱気と痛いくらいの日差しに滅入る余裕もなく、ファイノンはひとり、他愛のない望みを背負ってペダルを漕ぐ。
「他愛ない」と言ってもけっしてそれは軽いものではない。この世界に生まれ落ちた少年が初めて抱いた恋情より生じるそれには相応の、世界とは比べようもない重みがある。もしその望みを叶えられなければ、ファイノンにとっての世界からネジがひとつ転げ落ちてしまうのだから、比べるほうが愚かだと言えるだろう。
屋敷へ向かい全力で自転車を走らせながら、ファイノンはアナイクスの言葉を反芻する。
今朝忽然と姿を消したモーディスは、書室の奥の部屋にいる可能性があるという。それはファイノンよりもはるかに長く彼に付き従い、屋敷のことだって知り尽くしているはずの使用人たちが総動員で探しても見つけられない場所のようだ。立ち入るのには何らかの資格が必要で、アナイクスの態度を見る限りファイノンは認められているはずである。
だが常識的に考えて、そんな場所がこの世に存在するのだろうか。存在するとしてどのように行けばいいのだろうか。
十六年ぽっちしか生きておらず、また、なにかと夢見がちな年頃を抜け出しつつもある少年には検討もつかない。だが、行くしかない。姿を消してしまったモーディスを探し出さなければどうなってしまうのか、アナイクスは何も言わなかったが、少なくともこうしてファイノンが動くためのきっかけを与えてくれたということは、黙って彼が戻ってくるのを待つのでは救えない何かがあることを示している。
シャツがべったりと背中に張り付くくらい汗だくになった頃、ファイノンは家に着いた。普段ならまだ使用人たちがいる時間帯のはずだが、モーディスを捜索するのに方方へと出ているのか、そこには誰もいない。閑散としていて、炎天下の中だというのに薄ら寒さを覚えさせる。
とにかくまずは書室だ。そこに行けばなにか手がかりがあるかもしれない。そう思い、ファイノンは自転車から降りるなり真っ直ぐ屋敷へと向かった。手入れの行き届いている庭を早足で抜けて、重たい扉に手をかける。ぎいぃ、と蝶番が悲鳴をあげて、扉が開いた瞬間。
「
……
あら?」
鈴のような声が、ファイノンの鼓膜を震わせた。
開かれた扉の先でピンクの髪が踊る。ひらひらとした白いドレスの裾が翻り、美しい女性が振り返った。
知らないひとだ。なのに知っている気がする。少なくともモーディスの家の使用人ではない。ただ、彼女の身に纏う純白のドレスはまるで愛を誓う花嫁のようであり、どこか儚げな佇まいは妖精のようであって、この世のものとは思えなかった。
こつり、とヒールを鳴らして彼女はファイノンへと近付いてくる。やはり不思議なもので、嫌悪感や警戒心を抱くことはない。何の根拠もないのにただ漠然と、彼女のことは信じていいのだと思ってしまう。
「
……
君は?」
尋ねると、彼女はわずかに頬を膨らませて拗ねたような顔をした。
「もう。ファイノンったら、こんな美少女のことを忘れちゃったの?」
「ええと
……
ごめん。君みたいな知り合いに、心当たりはなくて」
「ふふっ、なんてね。冗談よ。初めまして」
困惑するファイノンの反応を見ていたずらっぽく笑った彼女が手を差し伸べてくる。応えようと手を伸ばして、けれど、ファイノンの指先がなにかに触れることはなかった。
するりと己の手が少女の手をすり抜けたのを見て思わずぎょっとする。その姿は確かに目の前にあり、決して向こう側が透けて見えるわけではないのに、どうしてか触ることは出来ない。常人には理解の及ばぬ現象に目を白黒させていると、ピンクの髪を揺らして笑った彼女は踵を返す。
「色々と聞きたいことがあるでしょうけれど、答えている時間はないわ。今この世界で紡がれた物語を開き、「そこ」に立ち入ることが出来るのはあなただけ。もう終わっているのに、完全に閉じられることのないままになっている本をしっかり閉じて、本棚にしまってあげられるのもね」
「それは、一体どういう
……
?」
「意味なんてはっきりわからなくていいの。あなたがあなたの望みを叶えれてくれればそれで十分。さあ、扉まで続く道を開いてあげる。だから前へ進んで、ファイノン」
ヒールを鳴らして歩く彼女が一階の角に位置する部屋
――
モーディスの書室へと続く扉に手をかざした。
瞬間、ひとりでに木製の扉が開き、そこから極彩色の光があふれだす。扉の先に広がるのは見覚えのある書室ではなく、星々を散りばめた銀河のような道だ。
次から次へと目の前で摩訶不思議な現象が起こり、疑問を生み出すばかりだというのに、ファイノンの頭は混乱することなくどこか冷静なまま、その目に映るものを現実として受け入れている。胸の奥深くにある本能も落ち着いていて、この先へ進まなければならないということだけを訴えていた。
「
……
ありがとう。君の名前だけ聞いてもいいかい?」
これはファイノンの直感でしかないが、おそらくもうこの少女には二度と会えない気がする。もしかすると名前を知ったところで、それさえもすぐに忘れてしまうかもしれない。だけど聞いておきたいと思って尋ねた。
少女は花のように笑い、告げる。
「ダメよ。振り返らないで、真っ直ぐ進んで。あなたの望む明日を見失わないように、ね。そうすれば、きっと救えるわ」
その声ははるか遠い過去から届く星の光のように澄み切っていながら、有無を言わせぬ重みを伴っていた。だからファイノンは頷いて、歩き出すしかなかった。行かなければならなかった。
示された道へと一歩踏み出す。
恐怖はない。
一歩、一歩と歩くたびに、どこか遠くで本のページを捲るような音がする。
積み重なる音が波紋となり、銀河の道を揺らめかせる。
星々の偏光がファイノンを静かに果てへと導いていく。
遠ざかっていく少年の背を、残響はただ見つめていた。
「
……
あたしに出来るのはこれだけよ、カスライナ。大丈夫、きっと悪い結末にはならないわ。だって愛の物語はロマンチックで、ハッピーエンドを迎えると決まっているもの。そうでしょう?」
ただ、そう信じていた。
どれほど星の海を歩いただろうか。
無数の過去の輝きの先に、突如光が見えた。
星空を裂いて差し込む光に、ファイノンは手を伸ばす。
指先が光に触れた瞬間、扉の軋むような音が、響く。
――
そこは広大で、美しい空間だった。
大理石で出来た柱と柱の間にぴったりとはめ込まれた背の高い本棚に、所狭しと本が並べられている。天井は高く、奥行きのある空間で、ざっと見ただけでもゆうに百を超える本棚が存在し、そこに保管されている本など数えられそうにない。少なくとも数百万、いや、数千万冊はあるのではないだろうか。カンテラからこぼれる橙色の光に照らされた図書館はあたたかな雰囲気に満ちていて、少しだけほこりと、古ぼけた紙のにおいがした。
「
……
来たか」
さして驚いた様子もない声が響く。
本棚と本棚の間から現れた人影に、ファイノンは目を丸くした。
故郷の小麦畑を彷彿とさせる黄金の髪は見覚えのあるものだが、ファイノンの知る彼よりもいくぶんか背が高い。筋骨隆々とした武人の身体はたくましく、緋色の刻飾紋が鮮やかに肌を彩っている。身に纏う戦装束はファイノンの生きる時代にはないもので、教科書に描かれる旧き時代の十二柱の神の一柱が纏っていたものに似ているように見えた
――
否、むしろ目の前に存在する「彼」そのものが、まるでかつての時代の神のようであった。
はるか昔、終末期を迎えた世界にて紛争の神ニカドリーの火種を受け継ぎ、救世主が再創世を成し遂げる際にその身を世界へと焚べたタイタン。三千万を越える輪廻の果てに勝利をもたらした英雄のひとり。
天罰の矛、メデイモス。
――
そう、メデイモスだ。
どうして今の今まで気付かなかったのだろう。アナイクスから聞くよりも先に、歴史の授業で幾度となく耳にした名が、他ならぬモーディスの名であることに。
「
……
君は、モーディス、なんだね」
ファイノンが共に暮らした彼と比べて成長している目の前の男に問いかけると、ああ、と肯定が返ってくる。
「お前にはすべてを話す必要があると理解している。だが、途方もなく長い話だ。立ったまま聞かせるようなものではないだろう。少し付き合え」
そう言い、踵を返して歩き出すモーディスの後をファイノンは追った。
本棚の群れの間を縫うように奥へと進んでいく。この広大な図書館が何であるのかも、モーディスがここで何をしているのかも、そもそもこれら一連の出来事は何故起こっているのかも、きっとすべて彼が教えてくれるのだろう。あまりにも一度に多くのことが起こったせいか、もはやファイノンの心は動じることがない。ただ、この図書館に辿り着く前に送り出してくれたあの女性の言葉と、昼休みに友人が言った言葉を胸に刻み、一歩一歩を踏み締める。
望む明日を見失わないように。
選べるのなら、後悔のない選択を。
これより語られる真実が何であれ、ファイノンはそれに押し流されて、大切なものを取りこぼしてしまってはいけない。
自分が冷静でいられる理由も、心の底から強くそう思う理由もなにひとつわからないけれど、今更考えたところで埒が明かないのだ。ならば魂から響く警鐘に従い、望みを掴み取るしかないだろう。
モーディスを追って本棚に囲まれた狭い道を歩き、しばらくして、ファイノンは図書館の奥にある、少し開けた場所に出た。壁面に並ぶ本棚に見守られるように、長方形のテーブルと椅子が二組置かれている。テーブルの上には図書館には似つかわしくない、湯気の立つ温かな料理が並べられていた。
「腹が減っているだろう。そこに座れ」
卓の前で立ち止まったモーディスがそう言い、先に席に着く。
「
……
ここで食べたものって現実に反映されるのかい?」
素直に疑問に思ったことを口にすると、少しだけ呆れたような顔をされた。
「何を寝ぼけたことを
……
いや、無理もないか。お前には夢を見ているように思えるのだろうが、これは紛れもない現実だ。だからお前と食事をするために用意した」
「ふうん。図書館で食事だなんて、礼儀作法を大切にする君らしくもない」
「はっ、確かにな。だが、俺にもそういうときはある。とにかく座れ。お前はただ食べながら話を聞いていればそれでいい。食事を終えたらきちんと帰してやる」
「君も一緒に、帰るんだよな?」
「
……
当然だ」
煽るような言葉には動じないくせに、どこか歯切れの悪い返事ばかりをするモーディスに、ファイノンは言及したくなるのをどうにか堪える。
今はまだ目の前のモーディスについて何も知らないし、真実を聞かされてもいない。手を伸ばすタイミングは慎重に見極めるべきだ。そう己に言い聞かせて席に着いた。
卓の上の料理はずいぶんと豪華だ。香りの良いソースのかかった分厚いステーキに、ごろごろと大きめに切られた根菜の入っている黄金色のスープ。林檎や葡萄、オレンジといった果物の盛り合わせに、香ばしいにおいのする焼き立てのパン。そしてまろやかな桃色をしたジュース。
普段あまり目にすることのないそれらはきっと、旧き時代に好まれた食事なのだろう。いずれにせよモーディスの作ったものなら間違いはないはずだと、ファイノンはナイフとフォークを手に取り、ステーキに刃を立てる。見た目の厚みに反して肉はやわらかくすんなりと切れて、透き通った肉汁が刃を入れた先からあふれ出すのが見えた。
「歴史は得意か」
ジュースの入った盃を手にしたモーディスが尋ねてくる。ファイノンは頷いて、切り分けた肉をフォークに刺し、口へと運んだ。
「このオンパロスという世界にかつて神話の時代があったのは知っているだろう。三千万を越える輪廻の話も、十二のタイタンの話も、今では夢物語として語られることのほうが多い。だが、それは確かに現実として起こったことだ。黄金の血は途絶え、かつての英雄たちも皆生まれ変わり、新たな生を手に入れたが、紡がれた物語を礎として育まれたこの世界において、その歴史はいわば「前提」
――
何者にも書き換えられてはならぬものとして存在している」
淡々と語るモーディスの声には重みがあった。
なんだかずいぶんと難しいことを話されている。だというのに、口の中で溶けるほどにやわらかいステーキ肉と同じように、言の葉はすんなりとファイノンの腑に落ちる。
「もし万が一「前提」が書き換えられることがあれば、それはこの世界、ひいては宇宙の存亡にも関わってくる。かつてこの世界に訪れようとしていた終末は、それほどまでに深刻なものだった。ゆえに英雄たちの中でもその仕組みを知る者は「前提」が侵されぬよう策を講じる必要性を唱え、世を守護するための矛となった者は再び防衛機構になることを選んだ」
「世を守護する矛
……
それって
……
」
やわらかなパンを噛み千切り、咀嚼して、ファイノンはモーディスを見た。
今の時代においてもなお黄金を宿すひとみが静かに閉じられる。
「
……
先に「俺」について話しておこう。簡単に言うと、「俺」には前世の記憶がある。この肉体は確かに生まれ変わり、ただの人間となった「モーディス」のものだが、器に宿る魂には「メデイモス」の三千万を越える輪廻の記憶が残っているのだ。だが、今や不死性すら持たぬただの人間の脳に三千万を越える己の生と死の記憶を有するのは物理的に無理がある。前世の記憶を有したままではそう遠くないうちに現世のモーディスの活動に限界が生じる。ゆえに俺は自らの魂を前世の「メデイモス」と現世の「モーディス」のふたつに分け、「メデイモス」の魂を「紡がれた物語」を保護するための機構とし、肉体から切り離すことを選んだ」
前世の記憶。三千万を越える輪廻の継承。魂を分け、肉体から切り離す。
どれもファイノンには理解の追いつかない話だ。ただひとつだけわかることがあるとすれば、今こうしてファイノンに真実を明かそうとしているモーディスが前世の「メデイモス」であるということである。
モーディスが前世の記憶を有しているのが事実であるなら、今目の前にいる彼がファイノンの知らない、旧き時代の神の姿をしているのも頷ける。ファイノンが招かれたこの不思議な図書館も、おそらくは前世の彼の領域のようなものなのだろう。あるいはここにある蔵書のすべてが彼の言う「紡がれた物語」
――
この世界の「前提」となっている旧き時代の記憶なのかもしれない。
スープを掬って飲み、舌の根に広がる野菜の甘味とほのかな塩気に何とも言えない気持ちになる。未だに目の前に広がる光景も、語られる言葉も、すべてが夢物語のようであるのに、口の中に広がる肉の旨味も、焼いたパンから漂う小麦の香りも、スープの温かさも、何もかもが現実であることをファイノンに知らしめてくるのだ。
困惑はモーディスにも伝わっているのだろう。盃の中のジュースをひと口飲んだ彼がふっと目元を緩めて、ファイノンを見つめてくる。
「無理に理解しようとするな。お前は聞き流すだけでいい。ただ、俺の我儘に付き合わせているだけなのだからな」
「
……
君の我儘って?」
「遠い昔に友と交わした、くだらぬ「たられば」の話だ。それに、再びこの世を守る機構となる前に確かめたいこともあった」
「確かめたいこと?」
首を傾げるファイノンを、黄金のひとみが甘く見つめる。
「ああ。
……
かつての友であり、ライバルであり、俺が救世主と認めた男の生まれ変わりが、前世に苛まれることなく新たな人生を謳歌出来ているか、この目で確かめたかった」
静かにそう紡いだモーディスの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。誰も知らないところで膨らんだ花の蕾がそっとほころぶような、いじらしくも美しい微笑みに、ファイノンは胸がぎゅうと締め付けられて息苦しくなるのを感じた。
その苦しみは今までずっとモーディスに抱いてきたものと同じだ。彼のことを知りたいのに、もっと一緒にいたいのに、なかなか近付けなくて。近付くことを躊躇うような、一線を引くようなそぶりをされて。寂しくてしかたなかったときに覚えた痛みとまったく同じ形をしている。
親鳥が雛鳥の巣立ちを見守るのとも異なる、なにかをおそれるような、壊さぬようにと耐えるような、そんな距離の置き方。あれをなんと言い表すべきかずっとファイノンにはわからなかったけれど、今ならわかる。
あれは手負いの野生動物を拾った者が、その傷が癒えるまでの間一時的に手を貸すのに似ていた。傷の癒えた動物が元あるべき世界へと帰るとき、情が湧いて離れがたくならないようにと一線を引き、与えるべき慈愛だけを与える、そんなふるまいだった。
モーディスの話は正直難しすぎてよく理解出来ていないところもあるが、こうも穏やかに、優しく、熱を孕む黄金のひとみに見つめられれば嫌でも気付いてしまう。
彼がかつての友と呼ぶ者。その生まれ変わりは他ならぬファイノンであるのだと。
前世を知るモーディスはずっと、今を生きるファイノンが昔の影に苦しめられていないかを案じ、現世におけるファイノンの幸福を祈って優しくしてくれていたのだと。
今こうして振る舞われている手料理も、「明日」を生きるファイノンの血肉になるようにと願い、つくられたものであるのだと。
ならば。
「
……
なあ、モーディス」
磨き上げられた銀のカトラリーを静かに置き、ファイノンはモーディスを真っ直ぐに見つめた。
「前世と現世の君を切り離すとして、現世の君に何も影響はないのか?」
「
……
」
「切り離すということは、前世を忘れるということを意味するんだろう。でも、現世の君が僕と同い年であるなら、十六年間前世を抱えて生きてきた記憶があるはずだ。肉体の限界を理由に前世を切り離したとして、その十六年分の記憶はどうなる? 前世が抜け落ちて不完全になった記憶を抱えることになるこれからの君には、何も問題がないのか?」
沈黙が場を支配し、ファイノンの胸を塞ぐ。
モーディスはすぐには答えなかった。ただファイノンのまなざしを受け止めて、返す言葉を探しているようだった。
それこそが、ファイノンの問いに対する答えにほかならないというのに。
「
……
モーディス」
名を呼ぶ声が震える。心臓の裏側がずきずきと痛くてしかたない。
きっとまだファイノンは彼の口から聞き出せていないことがたくさんある。だけどもう、十分だった。
「現世の君
――
僕と出会った君は、無事じゃ済まないんだな」
……
だから、アナイクスも彼女も時間がないと言った。モーディスが事を為すのを大人しく見守るのではなく、ファイノンに知らせて、ここにたどり着くための道を切り開いてくれた。あるいはファイノンでなければここに辿り着けないと分かっているから、導いてくれた。
ファイノンは己の前世などなにひとつ知らない。自分の名前が神話の時代に存在した英雄のひとりにちなんでつけられたことは両親から聞いたことがあるけれど、英雄になりたいと思ったこともなければ、名の由来となっているかつての英雄について知りたいと思ったこともない。もしかすると両親はかの英雄のようにファイノンが立派な人間になることを願い、あやかろうとして名付けたのかもしれないが、自分にはそんな大それたことなど出来るはずもないと思っている。
今のオンパロスは平和そのものだ。かつて存在したという暗黒の潮という脅威も、そこから生まれる魔物もおらず、誰ひとり武器を持たないで安穏とした日々を過ごせている。
ならば、困難に瀕していない世界で誰が英雄になろうだなどと思うのか。世界が必要ともしていないのに、誰が英雄になれるというのか。どうやって世界を救おうだなんて発想に至れるのか。
せいぜいファイノンに出来ることといえば、道端で困っているひとがいたら声をかけたり、友人が思い悩んでいたら話を聞いたりすることくらいだ。徒労を重ね、背負い、一縷の希望を絶やさぬよう火種を燃やし続けるだなんていう、叙事詩に紡がれる英雄のような芸当は完全に物語の中の話でしかなく、今を生きるファイノンには結びつかない。
今もなお世界を守ろうとしている目の前のメデイモスには、並び立てるはずもないのだ。
それがひどく悔しい。けれど同時に仕方のないことだとも思う。前世は過去に過ぎず、そこに留まるものであり、ファイノンはすでに終わった物語の上に築かれた世界で生きているのだから。
だが、彼の選択が本当ならファイノンと同じように今の世界を生きていられるはずの「モーディス」に影響し、彼だけが明日へと歩み出せない結末をもたらす可能性があるというのなら。
それだけは絶対に許してはならないと、胸の奥で静かに炎が燃え上がる。
「
……
隠しても無駄だな。お前の言う通り、現世の「俺」に影響が及ぶ可能性はある。だが、その影響がどの程度のものなのかは俺にもわからん。何の問題もなくお前と同じように日々を過ごせるかもしれないし、脳機能に障害が残るかもしれない。あるいは記憶の整合性が取れなくなり、意識が混濁した果てに目覚めなくなる可能性もある」
「
……
ッ!」
「だが、お前の案ずることではない。これは他でもない、前世の記憶を持つ現世の「俺」が決めたことだ。俺のことはアナクサゴラスに伝えているし、万が一俺になにかがあったときは卒業まで面倒を見るようケラウトルスに頼んである。お前が帰る家を失うことも、いわれのない罪を着せられることもない。お前はお前の望むように生きるといい」
どこまでも冷静に、まるで他人事のようにモーディスはそう言って、盃を煽った。
これが覚悟の決まった英雄の姿だというのだろうか。叙事詩に紡がれる天罰の矛の物語では、彼は不死の英雄で、いかなる致命傷を負い死に至ってもすぐに生き返り、襲い来る敵を斃し続けたという。ファイノンには想像もつかない過酷な世界を生きた記憶があるだけで、こうも立つ場所が変わってしまうというのなら、どうすればこの手は彼に届くのだろうか。
胸の奥より押し寄せるのは絶望だ。だがその絶望はすぐに燃え上がり、ファイノンの臓腑を焼く怒りへと変わる。握り締めた拳が、肩が、全身がふるえて、理性の焼き切れる音がする。
「
……
ざけるな」
たとえ獅子であろうと、その咆哮を止めることは出来ない。
「ふざけるなッ! 僕の望みが何なのかも知らないで勝手に決めつけて、自分は世界のために身を投じるだって? それが現世の君が決めたことだと? どうしてなんだ
……
どうして君は僕がここにたどり着けたのかも、僕が君を探してここに来たのかも、何ひとつ顧みないで勝手に進んでいってしまうんだ!!」
まだ年若いひとりの青年の喉からほとばしる叫びが、古めかしい図書館を満たす生ぬるい空気を震わせる。
悔しくて、苦しくて、腹立たしくて、悲しくて、羨ましくてしかたなかった。
なぜひとりで勝手にそれが最適解だろうと決めてしまったのか。この平和な世界でひとり、背負うことを選んでしまったのか。今の彼を知る者たちがどんな思いをするかを考えもしないで歩き出してしまったのか。どうして恐れを知らずに、踏み出してしまえるのか。
モーディスの選択は身勝手だ。身勝手だが、その迷いのなさはまさしく国の上に立つ者の品格があり、誠実で、美しいものでもあった。同じ男として格好いいとさえ思う。普通の人間なら穏やかな日々を手放すことを嫌がるだろうに、彼はそれがこの世界にとっての最善であるのなら、この世界が明日も善く在るために必要なことならと、躊躇わずにその身を賭すことを選んでいるのだから。
生まれてこのかた一度も抱いたことのないような怒りがファイノンの世界を満たしている。しかしモーディスは動じることなく、静かに盃を置く。
「
……
先ほども伝えたが、無理に理解しろとは言わん。ただひとつ、お前は誤解をしている。前世の記憶を抱えたままでは、現世の俺は物理的にその情報量に耐え切れず、近いうちに死に至る。それを避けるための方法として、最も勝率の高いものを選んだに過ぎない」
「
……
それでさえも、君が無事とは限らないんだろう」
「ああ。だが少なくとも死ぬ可能性は低くなる」
「本当に他に方法はないのか?」
「ない。明日の「俺」がどうなるのかは、そのときを迎えるまで誰もわからん。俺からお前に言えることは、たとえ明日の「俺」がどうなっていたとしても、それに構う必要はないということだけだ」
この期に及んでモーディスは淡々と語り、線を引いた。これ以上は踏み越えてくるなという警告だった。
旧き彼の聖域に足を踏み入れることはゆるしているくせに、心の奥のやわいところへ踏み入ることは頑なにゆるそうとしない彼の態度が、ますますファイノンの怒りを煽る。その身を焼き尽くさん勢いで燃え盛る怒りに、本能ががんがんと警鐘を打ち鳴らす。
歯を食いしばれ。怒りの炎に吞まれるな。踏みとどまれ。
己はすべてを灰燼にするためにここにいる訳ではない。
何のためにここに来たのか。思い出せ。見失うな。
――
己の望む明日を、掴み取るためだろう。
「
……
、」
腹の底で獣のように暴れ狂う怒りを抑え込もうと、ファイノンは長く息を吐き出した。
はるか遠い神話の時代のことなどなにひとつ憶えていないファイノンの言葉なんて、目の前の英雄然としている男には傷ひとつつけられないかもしれない。一ミリも刺さらないどころか、その肌に届くことすらないかもしれない。
けれどこの三ヶ月で、ファイノンは現世で生きるモーディスのことを、少ないなりにも知った。他愛のない日々の中で細やかに笑う彼を見た。ファイノンへと惜しみなく与えられる優しさと温もりを大切にしたいと願った。
この世界が退屈なくらい平穏でもいい。むしろそう在ることをかつて誰かが願ったから、今の世界があるのだろう。ならばファイノンは、そんな遠い日の誰かの願いに己の願いを重ねる。
……
この世界を鮮やかに彩るモーディスという男に、明日も自分の隣にいてほしい。
その望みを譲ることだけは、たとえ誰が相手であろうと出来るはずもない。
「
……
嫌だ。必要かどうかは君が決めることじゃない。僕は明日も君と一緒にいたい。だから明日の君がどんな姿をしていようと、僕は君のそばにいる。君を、僕の歩む明日へと連れていく。それが今の僕の望みだ!」
「
……
!」
力強く張り上げられたファイノンの声が、真っ直ぐな蒼のひとみが、この世にただひとりしか存在しない「モーディス」の胸を射抜く。
丸く見開かれた黄金のひとみに映るのもただひとり、「ファイノン」というひとりの人間だけだった。
風に煽られた小麦の穂が揺れるように、モーディスのひとみに波紋が広がる。初めてその視線がファイノンから逸らされて卓上へと落ちる。モーディスが小難しいことを語る間に料理はすべて食べ尽くしてしまったから、そこには綺麗に空になった食器しか並んでいない。
重苦しい沈黙が場を支配する。互いの息遣いだけが静寂の中で響き、空気をかすかに揺らす。その間もファイノンはモーディスを見据えたまま、決して視線を逸らさない。まばたきひとつの間ですら彼に逃げる隙を与えてしまいそうで、それがひどくおそろしくて、目を離すなんて出来るはずもなかった。
やがてモーディスがゆっくりと、音なき祈りを捧げるように、あるいはまぶたの裏になにかを描き出して確かめるように目を閉じる。
そうして。
「
……
例え明日、俺がお前のことを忘れていたとしても。お前がどうして家にいるのかを正しく理解出来ず、突き放すような真似をしたとしても。あるいはそもそも目を覚ますことがなかったとしても。
……
二言はないと、誓えるな」
ひどく寂しそうに笑って、言った。
寂しそうなのに、不思議と後悔はしていない、そんな表情だった。
「任せてくれ。もしも君が前世とやらの記憶ごと僕を忘れるようなら、もう一度自己紹介から始めるよ。君は僕のことを知っているようだけど、僕は君のことを知らない訳だし、ようやく同じスタートラインに立てたと思えばいい。君に突き放されても、あるいは目を覚ましてくれなくても、毎日おはようとおやすみを言うのは僕の勝手だ。むしろあまりのうるささに目を覚まさずにはいられないくらい、しつこく君に話しかけ続けてやる。悠長に眠っていられるとは思わないでくれ」
たかが十六年ぽっちしか生きていないごく普通の人間だとしても侮るなと、そう言わんばかりにつらつらと言葉を並べ立てると、モーディスはくつりと笑ってファイノンを見る。
「はっ、生意気なやつだ。だが」
「だが?」
「
……
お前が本当に何ひとつ憶えていないのだとわかって、安心した」
心の底からの安堵であるとわかるやわらかな声で呟き、モーディスは立ち上がった。
結局わからないことは多いままだが、もうこれ以上尋ねようという気にはならなかった。どうしてモーディスがファイノンのことをずっと気にかけてくれていたのか。ファイノンだけがここにたどり着くことが出来たのか。それらの答えは彼と、おそらくはファイノンの前世にあるのだろう。けれどそれは明日へと歩み出すために必ずしも知っておかなければならないことではない。知ったところでファイノンが前世を思い出す訳ではないし、過去に戻る訳でもないのだ。ならば釈然としない気持ちはあっても、今は自らの望みを叶えることに集中すべきだろう。
モーディスに倣い席を立つと、古めかしい扉を指し示される。
「そこの扉から出て行くといい。すぐに元の屋敷へと戻れるようにしてある」
この場に辿り着いたときには見た覚えがないので、おそらく一方通行の脱出口なのだろう。そこを通ったら最後、ファイノンは再びこの図書館に足を踏み入れる権利を失い、もう二度と立ち入ることはないに違いない。
ファイノンは言われるまま扉に向かい、ノブに手をかけようとしてふと思い出す。
「
……
忘れるところだった。アナイクス先生から伝言を預かっているんだ」
「ほう?」
「『私の目でも確かめました。もう何も案ずる必要はありません』だって」
「
……
そうか。ならばもう、思い残すことはないな」
「ずいぶんな言い方をするじゃないか。
……
君はちゃんと、戻ってくるんだよな?」
「お前を相手に嘘などつかん。お前が立ち去ったのを確かめたら、前世と現世を分かつための儀をおこない、俺の力で現世の俺を元の場所に戻す。だからお前は明日が訪れるのをただ待っていろ」
「それだけでいいのかい?」
「ああ。お前はただ、望みを口にすればいい。それは俺たちにとって特別な言葉だからな」
ファイノンの問いに答えるモーディスの表情は穏やかで、不自然なところは何ひとつない。明日のファイノンがどんな現実と直面して、どのような選択をしようとももう口出しをする気もないのだろう。天と地がひっくり返っても有り得ないことだが、仮にファイノンが先ほど切った啖呵を反故にして、モーディスから離れていってしまったとしても、それを咎める気すらない。そういう態度のままだ。
だが、ファイノンは確かに手に入れた。この図書館に足を踏み入れる資格を失う代わりに、明日のモーディスと出会い、今までのように引かれた線を前に足踏みをしてもどかしい思いをするのではなく、線を引かれたとしても勝手に踏み越えて手を伸ばす権利を手に入れた。
だから、見ていればいいと思う。ファイノンの意地汚さも、泥臭いまでの執心も、モーディスへの愛着も、全部。
だって今ここに生きているファイノンが心より惹かれて恋をしているのは、前世も現世も関係ない、「モーディス」というただひとりの人間なのだから。
「
……
それじゃあ、モーディス」
夏空に輝く太陽のようにファイノンは笑う。
「また明日」
そうして、扉を押し開けた。
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