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史加
2025-12-19 12:28:25
53658文字
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さいごのばんさん
ファイモス/転生×現代×学パロ/完結した物語を本棚にしまうまでのお話
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一.背伸びしたって届かない
男子高校生の鞄の中を圧迫するものと言えば何か。
その日の時間割に合わせて揃えるのが面倒で全部突っ込んだままにしている教科書とノート?
古くさいものの考え方をする教師が持ち歩きを命じた紙の辞書?
体育の授業や部活動で使うジャージとタオルと制汗剤?
一般的にはどれも正解であるが、ファイノンというひとりの男子高校生の鞄に関しては違うと言える。毎日時間割をチェックして必要な教科書とノートだけを鞄に入れるようにしているし、辞書はこっそりロッカーの中に置きっぱなしにしていて、持ち帰ったことはほとんどない。人手が足りないからどうしてもと頼まれたときに手伝いはするけれど、基本的には授業が終わったらバイトに明け暮れる帰宅部なので、ジャージを持ち歩くのは体育の授業がある日だけだ。だがファイノンの鞄は毎日ぱんぱんに膨らんでいて、ほかの運動部の生徒に負けず劣らずの重さを誇っている。なぜかというと。
「うわっ、今日もファイちゃんの弁当でっか!」
隣の席の友人がすっかり見慣れているはずの「それ」を見てからかうように声を上げるのを、ファイノンは笑顔で受け流した。
朝から十分ずつの休憩時間だけを挟んで四連続で続いた授業の後。昼休みを知らせるチャイムが鳴り止むのとほぼ同時にファイノンが鞄の中から取り出したのは、三段にもわたる大きな弁当箱とスープジャーだ。ちなみに、二時間目と三時間目の間の短い休憩中には、ファイノンの握りこぶし大のおにぎりだったり、分厚いサンドイッチだったりが出てきて、たったの五分で若い胃袋の中に収められてしまう。育ち盛りで食べ盛りの、まさしく健啖家という言葉の似合う青年の学生鞄を圧迫しているのは、手作りの弁当だった。
ひとつの授業は五十分もあるくせに、昼休みはたったの四十分しかない。だからチャイムが鳴るなり生徒の大半はなるべく急いでご飯を食べて、貴重な休み時間の多くを友人との会話だったり、スマホのゲームだったり、体育館での運動だったりに費やせるようにする。ファイノンも早食いが得意で、一年生の頃は周りに倣っていた。けれど二年生になり、ちょっとした経緯があってこの弁当を得てからは、昼休みは食事を楽しむための時間に変わっている。
手早く弁当箱を机の上に広げて一番上の段の蓋を外すと、うさぎの形に剥かれたりんごが行儀よく並び、その隙間を瑞々しいシャインマスカットが埋めていた。真ん中の段はきのこ入りのデミグラスソースがたっぷりかかった俵型のハンバーグが存在を主張し、ポテトサラダ、卵焼き、ミニトマト、ほうれん草のおかか和え、大学芋が彩りを添えながらもぜいたくに詰め込まれている。一番下の段はシンプルに白米で埋め尽くされていて、つやつやと光る米粒がファイノンの空っぽの胃袋を急かした。スープジャーの中身はシンプルなコンソメスープのようだ。玉ねぎ、人参、ブロッコリー、ブロックベーコンといったはずれのない具材と、たちのぼる湯気に混じる塩気の効いたコンソメのにおいが食欲をそそり、自然と口の中に唾が溜まってしまう。
「いただきます」
購買へと走っていった隣の席の友人が戻ってくるのを待っていられるはずもなく、ファイノンは残された理性でなんとか両手を合わせて感謝の言葉を紡いだ。栄養バランスをよく考えて作られている弁当は、けっして無作法にがっついていいものではない。なにせこれを作ってくれた同居人
――
より厳密に言うと居候させてもらっている家の主は、ファイノンと同い年で、同じ学校に通う生徒なのだ。こなさなければならない宿題の量も、一日の授業数もまったく同じであるのに、毎朝ファイノンよりも早くに起きてストイックに走り込みをしたあと、手の込んだ弁当を作ってくれている。それが百パーセントの善意によるものであることも理解しているが、感謝をしなくていい理由にはならない。どれほど腹が減っていても、最低限の礼儀作法だけは守るべきだろう。
同居人の顔を頭に思い浮かべて、一緒に机を並べて顔をつき合わせながら食べられないことを惜しく思う。一学年に八つもクラスがあるせいで、ファイノンと彼は同じクラスではないどころか、ファイノンはA組、彼はH組とあまりにもかけ離れていた。それに彼はちょっとした有名人であるので、なるべく同居していることは伏せておくようにと口封じをされている。だから昼休みにファイノンが彼の教室に押しかけていったり、逆に彼がファイノンの教室に来たりすることはない。一緒に昼休みを過ごせたら楽しいだろうし、美味しい弁当の感想だってすぐに伝えられるのに。残念なことだった。
ともあれ時間を無駄にしてはいけないし、ファイノンの胃袋はもう限界寸前である。カトラリーケースから箸を取り出して、俵型のハンバーグを半分に割り、たっぷりソースを絡めて口へ運んだ。瞬間、挽き肉とキノコ、ソースの旨味が口の中いっぱいに広がって、頬がだらしなく緩むのを感じる。
ふつう、冷めたハンバーグなんて脂が白く固まり、出来立てのものと比べると風味が劣っているように感じるはずなのに、同居人がつくったそれは文句なしに美味しい。もちろん電子レンジで温められれば最高なのだろうが、それがなくても十分だと思えるほどだ。
幸福感に浸りながら白米を頬張っていると、戦利品を手に友人が戻ってくる。今日は無事に購買の一番人気であるやきそばパンを買えたらしい。上機嫌な友人はオレンジジュースのパックにストローを突き刺しながら、にやにやとファイノンを見つめてきた。
「今日も美味しそうなお弁当だな」
「うん、美味しいよ。先に言っておくけど、いくら君が相手でもひとくちも分けてやらないからな」
「わかってるって。それよりも、毎日そんな愛情たっぷりのお弁当を作ってくれる同居人って誰なんだ? 俺とお前の仲なんだし、そろそろ教えてくれたっていいだろ?」
ずず、と勢いよくジュースを啜る友人に、ファイノンは眉を下げる。
一年生の頃からクラスが同じで仲良くしている彼のことを決して信頼していないわけではない。だが、同居人との約束を反故にするのはどうしても避けたかった。
「僕も自慢したいのは山々なんだけど、口止めされていてね。うっかりばらしたら三日間は口をきいてもらえなくなりそうなんだ。それで許してもらえればいいけど、もしかするともう二度とお弁当を作ってもらえなくなるかもしれない。そうなると僕がどうなるか
……
相棒、君ならわかるだろう?」
素直に話すと、ちょうど焼きそばパンに齧り付いたばかりの友人はもぐもぐと口を動かして飲み込んだ後、けろりとした顔で答える。
「ファイノンが飢え死にしたら大変だし、仕方ないか。俺のやきそばパンを狙うライバルが増えるのも困るしな」
彼もファイノンが答えてくれるとは最初から思っていなかったのだろう。あっさりと引き下がり、また焼きそばパンを頬張った。ファイノンも倣うように卵焼きを口に運んだ。
かたちの整っているやわらかなそれは、ファイノンの母が作ってくれるものとはまた違う、まろやかで塩気のある味がする。きっと牛乳やチーズを混ぜているのだろう。母の作るものは砂糖で甘く味付けされていて、美味しいけれどたまにケチャップで味を変えて食べていたことを思い出す。
他人の目には異様な大きさに映る弁当箱も、ファイノンにとっては丁度良いものだ。豊富なおかずもご飯もみるみる胃袋におさまっていき、ひとよりもうんと燃費の悪い身体を満たしていく。ブラックペッパーがアクセントを効かせているポテトサラダも、ほっくりとしたさつまいもの甘みが際立つ大学芋も、純朴な出汁の味が優しいおかか和えも、どれもがファイノンの好みに合っている。
毎日朝早くに起きて弁当を用意するのは大変なことだろうに、同居人が嫌そうな顔をしているところを見た記憶は一度もない。覚えていることと言えば、早食いをするなと釘を刺してくる舌で、口に合わないものがあれば遠慮せず残していいと寛容な言葉を紡がれたことくらいだ。同い年とは思えないほどに人間が良く出来ている。口止めされていなければクラス中に彼のことを話していたし、自慢していただろう。
だが、仮にもし口止めされていなかったとして、自慢したところで何になるのだろうか、とも思う。
彼とファイノンはただの「同居人」という関係でしかなく、それ以上でも、それ以下でもないからだ。
「
……
ふう。ごちそうさまでした」
短い昼休みの半分の時間を使って、ファイノンは米粒ひとつ残さず弁当を平らげた。すっかり空っぽになった弁当箱を鞄にしまい、スマホを取り出して、弁当の感想をメッセージで送るか悩み、やめる。
隣の友人もだが、このクラスにいる同級生たちは目ざとくて行儀の悪いところがある。家に帰れば面と向かって伝えられる言葉をわざわざメッセージで送って、それを誰かに見られでもしたら大変だ。
彼の家の事情を考えると、ファイノンが彼と一緒に暮らしていることは、安易に他人に知られてはならない。
そう頭では理解していても、やはりほんのすこし寂しいように思った。
他愛のないメッセージを送ることすら憚られるなんて、そんなの「友人」ですらないように思えてしまうから。
高校生に出来るバイトはかなり限られている。だが幸いオクヘイマはこのオンパロスと呼ばれる星の中で最も栄えている国で、ファイノンの故郷であるエリュシオンの何十倍、何百倍も人間が集まっているから、若い人間を労働力として求める店や会社も多い。
「それじゃあ、お先に失礼します」
一年生の春の頃から世話になっている小洒落た洋食屋を裏口から出て、ファイノンは空を見上げた。辺りはすっかり日が暮れて、街灯とネオンの光が街を彩っている。
高層ビルに囲まれた都市部の空は狭く、故郷とは違って星がほとんど見えないのももう慣れたものだ。けれど慣れたからといって、郷愁を一切覚えないわけではない。小麦と土のにおいのする故郷の雄大な星空に恋しさを覚えることはあるし、特にバイト終わりのこの時間は一日の疲労が蓄積されているのもあってか、胸の奥がうっすらと冷えるような感覚に陥りやすかった。
今のファイノンの生活は恵まれていて、穏やかなものと言えるだろう。日中は学校で授業を受け、友人たちと語らって青春を謳歌する。放課後になったらバイトへ行き、高校生が働けるギリギリの時間まで働いたら、居候させてもらっている家に帰る。バイトの内容だって、キッチンに立って下ごしらえを手伝ったり、簡単な料理を作ったり、ほうっておくとあふれかえる使用済みの調理器具や食器を洗ったりと簡単なものだ。故郷にいた頃は毎日のように畑仕事や家事を手伝っていたから苦だとも思わない。途中で美味しいまかない料理も食べられる、文句のつけどころのない職場と言える。
とにかく満ち足りていて自由な日々を過ごしているが、胸中から故郷の存在が消えることはなかった。だからふとしたときに胸の奥から込み上げてくるさびしさのようなものがファイノンを苛み、悩ませることがある。今日はそういう日のようで、街の明かりの無機質さがどこか冷たく見えてしかたない。
早く帰ろうと、空を見上げて物思いに耽るのもそこそこに自転車に跨り、ペダルを漕ぎ出す。バイト先から居候させてもらっている家までの距離は自転車で十分程度だ。商業施設の集まる繁華街の端に位置する洋食屋から少し離れると、富裕層の暮らす立派な庭付きの家やタワーマンションの並ぶ景色に切り替わる。制服を着た一介の高校生には不釣り合いな、高級感のある街並みを進んでいくと、中でもひときわ目立つ建物が見えた。
いかにも貴いひとが住んでいますと言いたげな、監視カメラと生態認証を完備している巨大な門扉。大理石で出来たブロック塀の向こうには白い石造りの屋敷がちらりと覗いて見える。物々しく、一般人には近寄りがたいように感じるこの豪邸こそが、二ヶ月前からファイノンが居候させてもらっている家だ。
門の前で自転車を降りて、認証センサーに目線を合わせる。虹彩を読み取った電子機器がピピッと軽快な音を立て、そのあとに扉のロックの外れる音が続いた。ひとりでに開いた扉を堂々とくぐると、小さな噴水と鉢植えが規則正しく並ぶ美しい庭がファイノンを出迎える。
駐輪場などこの家にはない。なので自転車を庭の片隅に置き、屋敷へと歩いていく。この美しい庭に安物の自転車を置くと景観を損なうのはわかっていたが、そんなのは些細なことだと家主は何も気にしていなかった。むしろ黒塗りの高級車を停めているガレージの中に運び込むことを勧められたくらいだ。さすがにそこまで甘えるだけの図々しさはファイノンにはなかったし、ガレージは屋敷からすこし離れたところにあり、単純にそこまで行くのが面倒だという気持ちもあって断った。春先の、まだ新しい記憶だった。
学生用のショルダーバッグを肩から提げて、ファイノンは入口へ向かう。重みのある扉を押し開けると、加熱した牛乳の甘い匂いだけが出迎えた。
家族一世帯どころか二世帯で暮らしても余りそうなほどに大きな屋敷であるのに、使用人の姿が見当たらないのはいつものことだ。雇われている使用人は何人もいるものの、平日の日中の留守を預かっているだけで、家主の帰宅に合わせて帰る契約となっているらしい。ゆえに朝と夜は家主とファイノンのふたりしかこの家におらず、その家主も基本的には家事をしているか書室で本を読んでいるかの二択なので、出迎えがないのが当たり前だった。
田舎暮らしが染み付いているファイノンにはなかなか物寂しい生活のように思えるが、家主はそう思っていないのだろうか。まだたったの二ヶ月しか一緒に暮らしていない、「同居人」という身分ではその本心など分かるはずもない。踏み込んでいいのかどうかすらも。
「帰っていたのか」
不意に響いた声に、ファイノンはぎくりと肩を跳ねさせる。顔を上げると、ファイノンと同じ校章の入ったワイシャツにチャコールグレーのスラックスを履き、黒のエプロンを身に着けた青年が立っていた。故郷の小麦畑を思い起こさせる美しい黄金の髪が、シャンデリアのきらびやかな光を受けてきらきらと輝き、この小さな城の主の存在感を際立たせている。
「あ、ああ。ただいま、モーディス」
同居人の名をかろうじて舌の上で転がすと、彼はおかえり、と言の葉を紡ぎ、また厨房へと引き返していった。わざわざ出迎えにきてくれたのだろうか。珍しいなと思うファイノンの胸の奥には、ほんのりと熱が広がっていった。
モーディス。二ヶ月前にほんのささいな、不幸とも呼べない事情によって帰る家をなくしたファイノンに手を差し伸べた男。去年も今年もクラスが離れているせいで、普段学校内で会うことはほとんどない。同い年であるはずなのに揺らぐことがなく、いつも堂々としていて、どこか達観した雰囲気のある不思議な「同居人」だ。
居候の身であるが、ファイノンの自由はおそれ多いほどに担保されている。校則として決まっている門限さえ守っていればいつ帰っても怒られることはないし、食事の時間を合わせる必要もない。最低限の家事は手伝えと言われているが、知らない間にモーディスが済ませてしまっていることが大半で、ファイノンがこの家の洗濯機を回した回数などまだ数えられるほどだ。休みの日にうっかり昼近くまで寝ていても叩き起こされることはなく、ただまじまじと顔を見つめられるだけで終わる。それもそれで気恥ずかしくはあるのだが、その目に宿っているのが惰眠を貪ったことを責める色ではなく、ファイノンの体調に異変がないかを探り案じる色であると気付いてしまっては、減らず口を叩いて誤魔化すだなんて真似も出来なかった。唯一入念に確認されたのはバイト先で必要以上に働かされていないかということだけだったが、学費を稼ぐためにたくさん働きたいことと、バイト先がいかに良心的であるかを伝えると、それ以上は何も言われなかった。
モーディスはクレムノスの出身で、王族の血を引いた正統な後継者であるという。王族といっても、かの国は今やオクヘイマと同様に民主主義の時代を迎えており、王は国の象徴のようなものに過ぎない。だが裕福な家の出身であることは間違いなく、この屋敷も彼の生まれ年に両親が買った別荘のひとつなのだと聞いた。居候を始めてすぐの頃、生活費くらいは支払うと言ったとき、その金を将来の学費に当ててバイトを少し減らしたらどうだという小言のついでに聞いた話だった。
ひとまず片付けをしようと、ファイノンは自分のために貸し与えられた部屋へ行き、鞄を下ろして弁当箱を取り出す。当然だが、これを夜のうちに片付けず翌朝支度をするときにうっかり出そうものなら、モーディスに正気を疑うような目で睨みつけられる。怒鳴られるほうがよっぽどマシだと思えるような、冷たく鋭い目で、だ。
ファイノンだって年頃の男子であるので、つまらないことで同い年の男に呆れられるのは避けたい。というより、どうにも自分より立派に見える彼に情けないやつだと思われるのはなんだか嫌で、なるべく格好の良い男でいたかった。だから本当に些細な身の回りのことでもしっかりしようと思い、バイト終わりで疲れていようが最低限背筋を伸ばすように心がけている。
空っぽの弁当箱とスープジャーを抱えて厨房へ向かうと、コンロの前に立つモーディスの後ろ姿が見えた。これは見慣れた光景だ。料理をするのが好きなようで、朝晩は必ず彼が厨房に立ち、ふたり分の食事の用意をしてくれている。ファイノンの鞄を圧迫する巨大な弁当を毎朝作ってくれているのもモーディスだ。年頃の少年たちの中でも群を抜いてファイノンは燃費が悪いことを知るなり、弁当箱をわざわざ新しく買って用意し、毎朝持たせてくれるようになったのである。
多かったら残せと言って渡された弁当は、ファイノンにはちょうど良い量だった。だから綺麗に空っぽにして持ち帰り、心からのお礼を初めて伝えた日、彼が朝焼けのひとみを丸くしたあと、どことなく嬉しそうに微笑んだことをなぜだか鮮明に覚えている。
ともあれファイノンはモーディスとの生活で今のところ不便を感じていないどころか、彼と出会う前よりも良い暮らしが出来ているくらいなのだが、クレムノスの王子と平民がふたりで一緒に生活をしている、というのは世間的にはあまり芳しいことでないらしい。ファイノンはまったく気にしていないし、考え過ぎなんじゃないかと呑気に思っているのだが、モーディスは自分の身分がファイノンに悪い影響を与えるのではないかと懸念しているようで、くれぐれも他人に口外しないようにとことあるごとに念押ししてくる。ゆえにファイノンは黙秘権の行使を余儀なくされて、相棒と呼んでいる友人にさえも打ち明けられずにいた。
「そこに置いておけ」
鍋の中を掻き混ぜるモーディスの背をぼんやり見つめていると、そんな言葉が返ってくる。背中に目でもついているのか、それともファイノンの行動パターンなどお見通しなのか。おそらく後者だろう。 敵わないなと思いながら、ファイノンは流しに積み重なる調理器具と一緒に弁当箱を並べて置いた。
「ずいぶん溜まってるじゃないか。一緒に洗っておくよ」
「いい。お前が食べ終わったあとにまとめてやる」
「ほかに何か手伝えることは?」
「ない。もうすぐ出来るから手を洗って待っていろ」
厨房はモーディスの聖域のようなもので、手伝いを申し出てもこんなふうに追い払われるのがほとんどだ。くつくつと煮える鍋から漂う甘いにおいは、家に入った直後に嗅いだときよりも濃さを増しており、ファイノンの胃袋をくすぐってくる。バイトの休憩時間でまかないをしっかり食べているというのに、この身体はおそろしく燃費が悪くて、バイトを終えて帰宅する頃にはもう腹が減ってしまっているのだ。それもモーディスには早いうちから知られてしまい、明日の朝食と弁当の下ごしらえのついでに夜食を作ってくれるようになった。ぜいたくな話だった。
言われたとおりに手を洗い、食卓に着いて待っていると、十分と経たずにモーディスが夜食を運んでくる。角切りにされたにんじんとベーコン、紫玉ねぎ、さつまいもの入ったミルクスープと、軽くトーストして温めたバターロールが目の前に並べられた。寝るまでに消化しきれるよう考えられた分量と、疲れた身体に優しいメニューにむずがゆさを覚えずにはいられない。
「君は?」
ファイノンの分だけを食卓に並べ、また厨房へ戻ろうとするモーディスの背に問いかける。これもいつものことだが、バイトを終えて帰ったあと、夜食を食べるのはファイノンひとりだけで、モーディスが付き合ってくれることはない。そうだとわかっていても今日はなんとなく、話し相手が欲しい気分だった。
きっとモーディスはいつも通り、まだやることがあると言ってさっさと聖域へ引き返してしまうだろう。だからこぼれ落ちた言葉は、子どものわがままみたいなものだ。格好悪いことをしたなと気付いても後の祭りで、すでに空気を伝って相手に届いた言葉を取り消すすべはない。
黄金のたてがみが揺れて、モーディスが立ち止まった。珍しい反応をファイノンは見逃さなかった。
「たまにはお喋りに付き合ってくれてもいいだろう? それにこの前スマホのニュースで見たんだけど、孤食って身体に悪いらしいんだ」
醜態を晒してしまったのならいっそ開き直るまでだと、今日ばかりはわがままで面倒な言葉を口にする。背伸びをやめた、等身大の青年らしい言葉がなんだか幼く響くのに、気恥ずかしさを覚えない訳でもない。けれどそれでも今日はすこしだけ、今のところ「同居人」でしかない彼と一緒にいる時間が欲しかった。
別に友人たちに彼のことを自慢出来なくたって困ることはない。彼の懸念するような妙な騒ぎになるくらいなら、弁当の感想をすぐにメッセージで送れなくたっていい。けれど今後もしも何かがあって、お互いのことを隠してはいられなくなったとき、「実は友達なんだ」と言うことくらいは許されるような、それくらいの距離にはいたい。そう思うのはわがままなことだろうか。
「
……
先に食べていろ。すぐ戻る」
ややあって返ってきた言葉に、とくりと心臓が跳ねた。胸の奥からあたたかいものが込み上げてきて、ファイノンはたまらず破顔する。
「
……
うん!」
本当はモーディスが戻ってくるまで待っていたい気分だったが、残念ながら空腹を訴える胃袋に勝てず、ミルクスープをすくって啜る。牛乳に野菜の甘味が溶け込んだスープは優しく、指先までじんわりと熱が広がっていくような温かさがあった。
モーディスのつくる料理はなんでも美味しい。けれど彼がこうも料理上手な理由も、どうして国を離れてひとりでこの屋敷で暮らしているのかも、どうして今の今まで顔を合わせたことのなかったファイノンをわざわざ居候させてくれているのかも、何も知らない。
いつか教えてもらえることは出来るのだろうか。ひとつでも多く、知っていくことは出来るのだろうか。
物思いに耽りながらスープを半分ほど飲み進めたところで、モーディスは分厚い辞書とノート、教科書、ペン、そして見覚えのあるプリントを手に戻ってきた。アナイクスという古語担当の教師の授業で出される課題だ。ファイノンの鞄にも同じものがクリアファイルに入って眠っている。
ファイノンの向かいに座ったモーディスは、食事の邪魔にならぬよう気を付けながらもそれらを広げ、辞書を引いて旧い言葉の意味を調べ始めた。スマホで写真を撮って調べればすぐに出てくる答えをわざわざ丁寧に探す指先は美しい。クラスのほとんどの人間がロッカーに置きっぱなしにしているものを、彼はどうやら律義に毎日鞄に入れて持ち歩いているようだ。そんなこともファイノンは今まで知らなかった。
もしも普段学校で他愛のない話をしている友人が同じことをしていたら、時間の無駄じゃないかと笑っていただろう。けれど今だけはそんな軽口を叩こうという気になれない。
「
……
君って真面目だよな」
代わりにぽつりとつぶやいた言葉に、モーディスは怪訝そうな顔をして。
「本は読み終えたら本棚にしまっておくものだろう。辞書も使い終わったらそうするものだ」
至極真剣な表情で、当然のようにそう答えた。
見た目に反して生真面目で誠実な男なのだと、ファイノンはこの日モーディスのことをまたひとつ知った。
知ったのに、なんだか彼が遠ざかったような気がした。
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