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史加
2025-12-19 12:28:25
53658文字
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str(ファイモス)
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さいごのばんさん
ファイモス/転生×現代×学パロ/完結した物語を本棚にしまうまでのお話
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五時間目は丁度古語担当のアナイクスの授業で、彼は少しばかり遅れて教室へ戻ってきたファイノンを一瞥するも、特に咎めたりしなかった。普段だと昼下がりの授業は睡魔との戦いを強いられるものであるが、放課後に一大イベントを控えている今日のファイノンの目は冴えている。思考はすでに放課後に飛んで行ってしまっており、授業の中身はあまり理解出来なかったものの、五十分が経つのは早かった。
チャイムが鳴り、六時間目までのわずかな休憩時間に眠気を紛らわせようと生徒たちが一斉に立ち上がる。教科書と参考書をまとめて手にしたアナイクスに、放課後訪ねても問題ないか先に聞いておこうと思いつき、ファイノンも立ち上がった。
「ファイノン」
だが、ファイノンが声をかけるよりも先に、教室を出て行くはずのアナイクスが近付いてきて名を呼ぶ。
「少しいいですか」
どうやら相手もファイノンに用があるらしい。予想外の出来事に胸の奥の暗雲が渦を巻くのを感じる。頷き、ファイノンはアナイクスの後をついて教室を出た。
生徒たちで賑わう廊下を抜けて、アナイクスが普段使っている教材研究室へと連れて行かれる。この学校にはいくつかそういう教員のための部屋があり、そこは決まって生徒の立ち入りを禁じているため、中の様子を知る者はほとんどいない。ファイノンも初めて足を踏み入れたが、部屋の中は本がぎっしりと詰まった棚で埋め尽くされていて、まさしく研究のための部屋という様相だった。
床にも積み置かれている本や書類には、馴染みのない言葉がずらずらと書き連ねられている。授業で習っている古語とも違うそれは、特定の学術的研究において使われるものなのだろうか。いずれにせよひとを招く目的では作られていない空間だ。だというのに、アナイクスが普段使っているのだろう机と椅子のほかに一脚だけ椅子が置かれているのがなんだか不自然な印象を与えてくる。
心臓がどくどくと嫌な音を立て始めるのも仕方のないことだろう。今こうしている間にも、ファイノンの日常はほつれ、壊れていこうとしているのだから。
「時間がありませんので単刀直入に聞きます。あなたはメデイモス
……
モーディスと一緒に暮らしていますね?」
理知的なアイスブルーの独眼に射抜かれて、ファイノンは身体を強張らせる。目の前の教師とモーディスはよく話をしていると友人が言っていたし、モーディスがファイノンを居候させていることを話していてもおかしくはない。おかしくはないが、ファイノンに口止めをしておきながらモーディス自ら打ち明けているのだとしたら、彼らの間にはファイノンの預かり知らぬ何かが存在することになる。
それに、アナイクスは「メデイモス」と言った。ファイノンの知らないモーディスの名だ。おそらくはクレムノスにおける彼の名の呼び方なのだろうが、少なくともモーディスがファイノンにそう呼ぶよう言ったことはなかった。
「
……
どうしてアナイクス先生がそれを?」
次々と浮かぶ疑問がファイノンをたまらなく不安にさせる。知らないというのはおそろしいことなのだと痛感させられる。だから少しでも安心材料が欲しくて質問を返すも、アナイクスは表情を変えない。
「私のことはアナクサゴラスと呼びなさい。それと、私の質問に答えなさい。あなたは彼の書室に入ったことがありますか?」
有無を言わせぬ圧を感じさせる彼の言葉に、ファイノンは思わず頷いていた。
「あ、ああ
……
」
「書室に置かれている本を読んだことは?」
「ないよ」
「では、書室の奥にある部屋に入ったことは?」
「書室の、奥?」
淡々と紡ぎ出された質問がファイノンの中で引っかかる。
モーディスの住んでいる屋敷はとても大きくて広い。だが、毎日生活していればおのずとどこにどの部屋があるかはわかるようになるし、今なら何も見ずとも間取りを描き出せるくらいには把握している。書室は厨房と同じくモーディスの聖域のひとつであるため、滅多に足を踏み入れることも、そこに収められている本を読むこともないが、一階の角に位置するその部屋のさらに奥があるとは思えなかった。
ファイノンの反応を見たアナイクスは目を細めて、静かに息を吐き出す。怜悧なひとみがわずかに揺れて見えたのは気のせいだろうか。
口を挟まずに大人しく待っていると、ファイノン、とまた名を呼ばれる。
次は何を尋ねられるのだろうか。心臓が軋むような音を立て、身体が強張るのを感じながら、ファイノンはアナイクスを見つめて言葉を待った。
「あなたの今の夢はなんですか?」
「
……
夢?」
やがて投げかけられた問いは、先ほどまでのものと比べるとずいぶんあいまいだった。
だが、決してファイノンを慮り設けられたアイスブレイクではないことはわかる。アナイクスの表情は真剣なままで、ファイノンに嘘偽りのない答えを求めていることが窺えるからだ。
「進路でもやりたいことでも、他愛のないことで構いません。今のあなたになにか望みはありますか」
「望み、は
……
」
言の葉のかたちを確かめるファイノンの背後でチャイムの音が鳴り響く。すっかり日常から切り離されてしまったようだった
――
否、あるいはここがファイノンの「日常」を決める分岐点なのかもしれなかった。
夢。進路。望み。他愛のないことで構わないとアナイクスは言う。それは、叙事詩に描かれる英雄のように壮大な目的や宿願を語る必要はないということだ。
もっとも、ファイノンはエリュシオンで生まれたごく普通の男で、モーディスのように立場のある人間ではない。故郷を出たのだって小さな村の外に広がる世界に興味を持ったからであって、何か心の底から成し遂げたい壮大な野望があったわけではない。特段なりたい職業があるわけでも、行きたい大学があるわけでも、深く追求して学びたい分野があるわけでもないのだ。
少年らしい好奇心ひとつを胸に、ファイノンは故郷を出てオクヘイマへとやって来た。そこで生活しているうちにおのずとやりたいことが見つかって未来が決まっていくのだろうと、何となく思っていた。けれどそんな穏やかな日々はどうにもちっぽけで、薄ぼけているようにも感じていた。
そんなファイノンの世界を鮮やかに照らしたのは、誰だったか。
その光に焦がれて、胸に抱いた思いは何だったか。
伸ばした手が届くようにと足元に積み重ねた、それは。それこそが。
「
……
僕は、モーディスのことをもっと知りたい。あいつともっと一緒にいたいし、一緒に出来ることを増やしたい。もしもクレムノスの王子という身分があいつを縛り付けていて、僕とともに歩む妨げになっているなら、そんなの気にしなくてもいいと思ってもらえるくらい、強くて頼もしい男になりたい。あいつの隣に並び立てる人間になりたいんだ」
紛れもない、ファイノンの望みだ。
この世でただひとり、モーディスというひとの隣にいたいなんて、なんとちっぽけな願いだろう。だが今のファイノンを突き動かし、ファイノンが生きる世界を彩っているのは、その他愛のない望みにほかならない。
別にファイノンがモーディスの隣にいられなくたって死ぬ訳ではない。ファイノンの暮らす日々が絶望に染まる訳ではない。彼がいなくてもファイノンは生きていけるし、それなりに楽しいことのある人生を歩んでいける。だけど、出来ることなら彼と一緒がいい。
もしもモーディスと一緒にいるために今までのありふれた日常を捨てなければならないのだとしたら、ファイノンは迷わず捨てるだろう。満ち足りることを知らぬ生ぬるい安寧に身を浸していては彼に手が届かないというのなら、たとえ安寧から抜け出ることでこの身が灼熱に焼かれるとしても躊躇わずに踏み出す。
他人が聞いたらたかがひとりを想うのに大袈裟だと笑い飛ばすかもしれない。
けれどそれくらいファイノンは本気で、モーディスのことが好きだった。
好きなのだと、ここに来て認めざるを得なかった。
迎える明日にモーディスが存在するのが、当たり前になってほしかった。
「
……
いいでしょう」
純然たる意志を灯したファイノンの目に、アナイクスは希望を見出して頷く。
「ファイノン。今すぐ帰ってモーディスを探しなさい」
放たれた言葉に、ファイノンは頭を金槌で殴られたような衝撃を受けた。
「え? どういうことだい、アナイクス先生。モーディスは学校に来ているんじゃ
……
」
ファイノンの記憶にある限りでは、今朝モーディスはファイノンに弁当を用意出来なかったことを詫びたあと、使用人たちに引き継ぎをしてから学校へ行くと言っていた。だからファイノンも自転車に乗って先に登校したし、いつも通り車で送ってもらって学校に来ているとばかり思っていたのに。まさか失踪したとでもいうのか。朝のあの短い時間で?
嘘だろうと言いたげな表情をするファイノンに、アナイクスは首を横に振ってみせる。
「今日は学校に来ていません。ケラウトルスが車を用意し終えたときには姿を消していたそうです。使用人総出で屋敷の中を探しても見つからなかったと連絡がありました」
「なんだって
……
!? なら、どうして今まで僕に教えてくれなかったんだ
……
」
おそろしいニュースを聞かされてファイノンは項垂れる。まさかモーディスが姿を消してしまっているとは思いもしなかったし、そんな事実を知らないままこの時間までのうのうと過ごしていたのが信じられなかったのだ。
愕然とする教え子を少しばかり気遣わしげに見て、アナイクスは口を開く。
「あなたを思ってのことでしょう。クレムノスの正当な王位継承者が突如失踪したとなれば当然問題になりますし、その屋敷に異国人の子どもがいたとなれば真っ先に疑いの目を向けられます。彼はあなたに悪意がないことを理解していた。だからいわれのない罪を着せられることのないようにとあなたに伝えず、今も調査をしているはずです
……
もっとも、今の彼ではモーディスの居場所を突き止めることは不可能ですが」
やけに詳しく事情を話し、断言する彼に、ファイノンははたと気付いた。
「
……
待ってくれ。その口ぶりだとアナイクス先生は、モーディスがどこにいるのか知っているみたいだ。どうして姿を消したのかも」
実際、知っているみたいではなく、確実に知っているのだろう。学校の生徒、それもクレムノスの王族の血を引く者が突如行方をくらましたとなれば、教師たちはこうも冷静ではいられないはずだ。警察沙汰になっていたっておかしくないし、大人たちの緊迫は子どもにも伝わり、いつも通りに授業が行われるような状況にはならない。だがファイノンは五時間目の授業を終えるまで平々凡々と授業を受けていたし、今もほかの生徒たちは教室で普段と何ら変わりない日々を過ごしている。それはアナイクスがすべてを知った上で黙殺しているからだとすれば、筋の通る話だろう。
ならばファイノンにわざわざ声をかけずとも彼が自ら動けばすべてが解決しそうなものだが、そうはしない。きっとそこにも理由がある。見逃してはいけない何かがあるのだ。
大切なものを見落としてしまわないようにと、ファイノンは焦燥に駆られながらも必死になって頭を回す。
アナイクスはファイノンをここに招いたとき、時間がないと言っていた。
モーディスの書室に入ったことはあるかと尋ねた。
書室にある本を読んだことはあるかと尋ねた。
そして、書室の奥にある部屋のことを尋ねた。
それは、その部屋が現実に存在することを彼が知っているから尋ねられることだ。
つまり
――
モーディスはそこにいる。
だが、アナイクスにはそこに立ち入ることの出来ない、何らかの理由がある。
もしもそこに足を踏み入れるのに資格が必要なのだとしたら。
アナイクスの問いが、資格の有無を確かめるためのものだとしたら。
今、モーディスを探し出すための鍵を握っているのは、ファイノンだけということになるのではないだろうか。
答えに行き着き、思わず手のひらを見つめた。じっとりと汗ばんだそこには当然、目に見えるかたちの鍵など存在しない。けれどアナイクスの言葉は、この手だけが今唯一モーディスに届くのだと物語っている。
「
……
書室の奥の部屋、だね」
確かめるように呟くファイノンに、アナイクスは頷いた。
「ええ。早く行きなさい。あなたが早退したことは私から皆さんに伝えておきます。それと
……
」
「それと?」
賢者は独眼を一度閉じ、再び開いて、仲間のために願う。
「メデイモスに伝えてください。『私の目でも確かめました。もう何も案ずる必要はありません』と」
――
言葉の意味も、願いの矛先に存在するものも、ファイノンには何ひとつわからない。
ただ、質量を持たないはずのその言葉が、この世界の何よりも重く背に圧し掛かったように感じた。
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