史加
2025-12-19 12:28:25
53658文字
Public str(ファイモス)
 

さいごのばんさん

ファイモス/転生×現代×学パロ/完結した物語を本棚にしまうまでのお話


五.終止符がふたりを分かつまで




「三三五五〇三三七回目の永劫回帰で選択したことが影響しているのでしょう」
 誰もいない放課後の図書室で、学者はアイスブルーの目を細めて言った。
「私はただこの星の歴史に興味を持ち、神話の時代の物語を紐解く中で、あなたという存在の可能性に気付いただけです。残念ながらあなたのように「前世の記憶」などというものを持ち合わせている訳ではありません」
「そうか」
 かつての英雄は頷き、安堵する。途方もない輪廻の記憶は物語の登場人物には重すぎて手に負えないことを、身を以って知っているからだ。
 この記憶を平然と抱えていられる者がいるとすれば、それは読者という立ち位置を与えられて生きる者だけだろう。
 それほどまでにこの世界が内包する「前世」は重く、だからこそ何人にも書き換えられてはならないものだと断言出来る。
「かつて「あなた」が魂を五つに分けたのに比べれば、前世と現世――過去と現在の二つに魂を分け、そのうちの片方のみを防衛機構へと転ずるのはリスクの低い選択であると考えられます。ですが「現世」のあなたがこの世界に刻んだ十六年の歴史には、「前世」のあなたの記憶が混ざり、癒着している状態です。それを無理矢理引き剥がすのですから、無事でいられる保証もありません」
「だとしても為す必要がある。俺はこのまま死ぬつもりはないし、お前の危惧するようにこの世界の「前提」が何者かに侵されることを許すつもりもない。あの救世主がようやく自身の望みのために生きることの出来る世界に辿り着けたのだ。それを守ってやるのも悪くないだろう」
 窓から差し込む夕陽の光が、辺りを茜色に染め上げていた。
 かつては紛争を彷彿とさせた紅も、現世においては穏やかな夕暮れを示す色だ。しかし今この瞬間だけは、旧き英雄に血と土埃のにおいに満ちた荒野の光景を呼び覚まさせる。
 選択に悔いはない。この広大な宇宙において物語を改ざんする方法など、おそらくいくらでもある。想像がつかないだけで、オンパロスを狙う脅威は今こうしているときにも存在しているのだ。
 だから誰も知らない間にすべてが手遅れとなってしまうことのないよう、かつて紡がれた物語だけはどのような手段を使ってでも守り抜かなければならない。
 あの男が背負い、救った世界が、再び壊滅の運命に呑まれることなどあってはならない。
……わかりました。力を貸しましょう、メデイモス」
 英雄の決意を確かめた学者は、夕焼けの中で頷いた。
「今のあなたは私の教え子ですから、手助けくらいはしてあげますよ」
 その怜悧なひとみの奥に、祈りをひそめて。

 

 小鳥の囀る声が沈んでいた意識を揺らして浮上させる。
 はっとファイノンが目を覚ますと、すっかり見慣れた天井が視界いっぱいに映り込んだ。
 いつの間に眠っていたのだろうか。そう思い、すぐに違うと否定する。昨日ファイノンは途方もない過去の物語の話をされて、過去の聖域へ足を踏み入れた。そこで明日を掴み取ることを認められて、戻ってきたのだ。
 モーディスは「元の屋敷に戻る」と言っていたのに、まさか意識を失い、部屋のベッドの上に寝転がっているとは思いもしないことだった。だがファイノンは昨日起きた出来事を違和感なく覚えている。だからあの図書館にいた彼に認められたのは間違いないだろう。
 ファイノンが戻ってきているということはモーディスも戻ってきているはずだ。そう思い、身体を起こしてスマホを探す。誰かが運んでおいてくれたのか、愛用のスクールバッグは机の上にあり、その中にスマホも入っていた。画面をタップすると今日の日付――昨日から見て明日にあたる日付と、八時十五分という時刻が浮かび上がる。
 今日が平日だったら遅刻だ。だが幸い土曜日で、学校は休みの日である。それでも規則正しい生活を心がけているモーディスは、いつも通りならこの時間だと朝食の支度を終えているところだろう。
 はたして彼はどうなったのだろうか。
 昨日「モーディス」の言っていたことを思い出す。無事であるかもしれないし、そうではないかもしれない。後者だった場合、残酷な現実がファイノンを待ち受けている可能性だってある。けれど、ファイノンに躊躇いなどなにひとつなかった。恐怖に立ちすくむこともなく、弾かれるように自室を出て彼に会いに行くことにした。
 誰ひとり使用人のいない、しんと静まり返っている廊下を走り、転がるように階段を降りていく。向かうべきは書室か。それとも厨房か。否、そもそも一階へと降りる前にまずはモーディスの部屋を訪ねるべきだったかもしれない。
 勢いのままに飛び出した己の迂闊さを恨めしく思った瞬間、小麦の焼ける香ばしいにおいがファイノンの鼻を掠める。
 行き先は決まった。
 ばたばたと大きな足音を立てて、においのするほう――厨房へとひた走る。戸が薄く開かれているのか、廊下の先に一筋の光が差し込んでいるのが見えた。どくどくと早鐘を打つ心臓をなだめる余裕もなく部屋の前に着き、扉を勢いよく開け放つ。バンッと戸が壁にぶつかって大きな音を立てても気にしてなどいられなかった。
 開いた扉の先を見て、ファイノンは目をすがめる。
 燦々と降り注ぐまばゆい夏の朝の陽光。厨房を明るく照らす、清廉で澄みきった白い光の中に立つひとりの影。いつもと同じ黒いエプロンを纏う背中。
 こんじきのたてがみが揺れてきらきらと輝き、同居人でありファイノンの大切なひとである彼が、振り返る。
「なんだ、朝からやかましい」
 曇りのない黄金を宿すひとみが、確かにファイノンを見つめた。
「そんなに腹が減っているのか。もうすぐ出来るから歯を磨いてこい、ファイノン」
 ファイノンの知る、いつも通りに。
 けれど、いつもよりもどこかやわらかく、うれしそうにモーディスが笑って、ファイノンを呼んだ。
……ッ、ああ。おはよう、モーディス!」
 昨日からなにひとつ損なわれることなく訪れた明日が、確かに目の前で輝いているのが、ふるえるほどにうれしくて。幸せで。どこかおそろしいと感じるくらいには、いとおしくて。
 たまらずファイノンはモーディスに駆け寄り、彼を両腕でしかと抱き締めた。
 はじめて全身で触れた彼のあたたかさと、とくとくと伝わる鼓動の音が、紛れもない現実であることを物語っていた。



「かつて前世の記憶があったという事実だけを覚えている、ですか」
 誰もいない放課後の図書室で、アナイクスはアイスブルーの目を細めて言った。
「それともうひとつ、俺は前世を自分から切り離すことで生き延びようとしたということもだ。だから俺はなぜあの日ファイノンを見つけたときに助けてやらねばならないと思ったのかも、居候させることを決めたのかも覚えていない。ただ、俺が生きるための選択をしたのは、これからもあいつとともにいられたらいいと思ったからだということは覚えている」
 等身大の青年らしく生きる日々を取り戻したモーディスの言葉に、なるほど、と頷く。
「あなたがファイノンに手を差し延べたきっかけは前世の記憶によるものだったが、危険と知りながらも生きるために可能性に賭ける選択をしたのは、今のあなたがファイノンに恋をしていたから、ということですね」
「そう考えるのが妥当だろう、アナクサゴラス」
「同意を求められても、愛を原理とする人間の行動については専門外なので正直何とも言えませんよ。ただ、物語として悪くないものだとは思います」
……ふっ、お前がそう言うのなら間違いない。迷惑をかけたな」
「構いません。たいしたこともしていませんしね。私はただ事実をファイノンに伝え、彼が完全に前世の記憶を持っていないことを確かめただけです。それより、そろそろ時間では?」
 問いかけてくるアナイクスに、モーディスは壁にかけられた時計を一瞥したあと、そうだな、と頷いた。教科書や参考書、ノート、辞書の詰まっている重たい鞄を肩にかけて踵を返す。
「迎えに行ってくる。またな」
「ええ、気を付けて帰りなさい」
 見送りの言葉を背に受けて、モーディスは図書室を出た。
 茜色に染まる学校の廊下を揺るぎない足取りで進んでいく。ときおりすれ違う生徒は部活動に励んだ帰りか、先日あったテストの補習終わりだろう。図書委員であるモーディスが放課後、日の暮れる時間帯まで学校に残っているのは珍しいことではなく、今は形ばかりのクレムノスの王子という立場に身を置く彼を見ても、大仰に振る舞う者はいない。王族の血を引いているというだけで、モーディスはただの青年だ。もっとも故郷であるクレムノスではそうもいかず、オクヘイマに来てもたまにモーディスがクレムノス人であると見抜いた者が妙な素振りを見せることはあるため油断は出来ないのだが、少なくともこの立場が自らの選び取れる道を狭め、減らすものではないと理解している。
 長い廊下を進み、玄関前を通り過ぎて体育館のある方向へと歩く。今日はバスケ部が隣街の学校と練習試合をしているらしく、入口には観客として集まった生徒たちの姿があった。静かに近付いていくと、モーディスに気付いた灰色の髪の青年が少し端に寄る。ファイノンの友人で、何度席替えをしてもファイノンの隣の席を引き当てるという謎の強運の持ち主だ。
「おっ、モスちゃん。愛しのハニーのお迎えに来たのか?」
「そんなところだ。見えるから気を遣わなくていい」
「モスちゃん背高いもんな。でもせっかくだしお前の姿を見せてやったほうがいいと思う。あと一ポイントなんだ」
 そう言った彼の示す先には三十対二十九と書かれているスコアボードがあった。
 残り時間は三分。挽回するには十分だろう。
 モーディスは生徒の群れを掻き分けて少しだけ前に出て、ファイノンを見つめた。今日はスモールフォワードの欠員を補っているらしい。悪くない配置だ。
 周りの生徒もモーディスに気付いて、きゃあ、と黄色い悲鳴を上げる。悲鳴が上がる理由はわからないが、耳ざとくその声を拾ったのだろう。攻め入る隙を窺うファイノンの視線が一瞬、モーディスへと向けられる。
「勝て」
 さして声量もない声で、たったふたつの音を紡いだ。
 しかしファイノンにはきちんと届いたのだろう。力強く頷いたファイノンは再び前を見据えて、対戦相手の放ったパスをその長い腕で防ぎ、ボールを奪い取って走り出す。
 残り時間は一分。付きまとうガードから華麗な身のこなしでボールを守り、スリーポイントライン手前で立ち止まったファイノンがボールを両手に抱える。ガードが跳ぶよりもファイノンがボールを放つほうが早い。長身を活かして繰り出されたロングシュート。美しい放物線を描くボールの行方に、全員の視線が釘付けになる。
 ボールは軌跡を描き、重力に従って――すとんと美しくゴールに落ちた。
 ぱさりとゴールネットの揺れる音を、タイムアップを知らせるアラームと割れんばかりの歓声が掻き消す。
 勝利を手にしたヒーローの肩を、同じ戦場に立っていた者たちが嬉しそうに笑いながら次々に叩く。一方では対戦相手が悔しそうに肩を落としながらも、互いによくやったと労い合う。両者が整列し、試合結果を確かめて握手を交わし、解散する姿を眺めながら、モーディスは今日の夕飯は少し豪華にしてやるか、などと他愛のないことを考えた。なにせファイノンはとてつもなく燃費が悪いのだ。昼休みの後から何も食べていない状態で夕方まで過ごし、しかもバスケの試合をこなしたとなれば、相当腹を空かせているに違いない。
 部員たちが体育館の掃除と片付けをし始めると、集まっていた生徒たちも帰っていく。灰色の髪の友人も「また明日な」とモーディスに言って、黒髪の青年と桃色の髪の少女と三人仲良く並び、去っていった。
ひとり残されたモーディスの元へ、慌ててユニフォームから制服へと着替えたのだろう、ぐしゃぐしゃにシャツを乱したファイノンが走ってくる。
「待たせてごめん、モーディス!」
「片付けはいいのか」
「彼氏を待たせてないでさっさと帰れって追い出されたよ」
「なら帰るぞ、ハニー」
「わかったよダーリン」
 普段なら身なりをきちんとしろと小言を言っているところだが、どうせ帰ったら着替えるのだし、今日は途中でスーパーに寄る必要もない。なので見逃してやることにして、本日のMVPとなった男を軽い言葉の応酬で労いつつ、並んで玄関へと向かう。外に出ると周囲の建物の隙間から差し込む赤い夕陽がまぶしく、しかし吹き抜ける風は冷えていて、秋の訪れを感じさせた。
 季節は移ろい、もうすぐ紛争の月が訪れようとしている。ファイノンとモーディスがこの世界で出会って早くも半年が経った。たったの半年だが、すでにふたりで歩んできた道は今までの人生の中で最も鮮やかな軌跡を描いている。
「今日の晩御飯は何だい?」
「ハンバーグだ」
「いいね、チーズ入りにしてくれよ。お腹と背中がくっつきそうなんだ」
「だろうな。オムライスも作ってやろう」
「やった。せっかくだしまた絵を描いてくれないか? あのかわいいキメラとか」
「写真を待ち受けにしないなら描いてやる」
「相棒に見せびらかすのは?」
「ダメに決まっているだろう」
「つれないなあ」
 他愛のない言葉を交わしながら、ふたりは茜色に染まる街路を同じ歩幅で歩いていった。
 あの日が終わってから、ファイノンはモーディスと一緒にいられる時間を増やすためにバイトを少し減らしたし、ふたりの通学手段は徒歩になった。朝と帰りにふたり並んで歩いている姿はあっという間に学校の名物になったし、昼休みにファイノンがモーディスの教室へ行くのも、たまにモーディスがファイノンの教室にやって来るのも当たり前になった。今日のようにファイノンが手伝いで運動部の試合に出る日は、モーディスがそれを見に来るのもお馴染みの光景となっていて、そんな平穏な日々を脅かすものは今のところ現れていない。きっとこれからも現れることはないのだろう。
 色付いた葉が落ちて石畳の道を彩るように、ふたりで過ごす日々はこれからも褪せることなく積み重なり、物語を紡いでいく。互いが共にいられる明日を、毎日のように望んで、掴み取り、繋げていく。
 その中でときおり前世という、目に見えない古傷が存在した事実だけをなぞっては、当たり前の今が何よりも尊いものであることを確かめる。確かめた上で、この物語の終わりがふたりを分かつまで、ずっとこうして一緒にいられたらいいと願う。
 互いの行き着く先を、最後を、一緒に見届けたい。
 ただの高校生が抱くには、なんだかちょっと壮大で、飾り立てられていて、けれど本質は他愛のない願いだ。
 けれどもうどこにも置いていかないように。
 見失わないようにと、どちらとなく指先を絡めて、手を繋いだ。