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ちこまる
2025-10-01 17:09:48
25205文字
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【げむ譲 零獄利き小説】
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【テーマ】10月18日
書類を確認し、日付と署名を書いて印鑑を押す。朝から何度も繰り返した動きだ。肩と目の奥に重さを感じ、伸びをする。土曜日で自分以外誰もいない事務所は驚くほど静かだ。休日出勤は主義ではないが、依頼や相談の電話や来客がないので仕事が捗るのも事実。溜まった雑務をこなすにはうってつけだ。
ちらりとデスクの上の時計に目をやれば間もなく十一時半になろうとしていた。そろそろか?と思うと同時にスマホが鳴った。液晶には天谷奴の文字。ニヤけそうになるのを抑えて通話ボタンを押す。
「よお、来たか」
『お休みにお疲れ様。お昼買ってきたよ』
「サンキュー、開けるから入って来てくれ」
所長室を出て、入り口のロック解除の操作を手早く行う。ドアを開けると男が立っていた。両手に持った紙袋を掲げてニカッと笑う。
「オオサカから直送便でーす」
ふわりとうまそうな匂いに腹が鳴りそうになる。
男から週末にナゴヤに行くと連絡があったのは数日前。土曜の朝からマンションへ行ってもいいかの問いに俺は眉をしかめてノーと答えた。どうしても今日中に終わらなせなければいけない雑務たちが脳裏に浮かんだからだ。悪いな、と断りを入れる俺に返ってきたのは意外な答えだった。
『じゃあお昼買って事務所に行くよ。その日は誰もいないんだろ?一緒にランチしよう』
その瞬間に休日出勤の憂鬱さは吹っ飛んだ。昼になればあいつが来てくれる。そわそわした気分で朝から溜まった事務仕事の山を崩す。まあ我ながら単純だよな、現に先ほどまでの肩の重さだってもう感じていないんだから。さらに男が掲げる白地に赤いロゴの紙袋見て、気分は一気に最高潮まで上がる。
「豚まんだ!」
あのオオサカで有名な豚まんは俺の大好物。男はもう一つの紙袋から、銀色の保冷バッグを出した。
「あとレンジ借りていい?冷凍のたこ焼きも買ってきたよ」
「ちょうどたこ焼き食いたかったんだよな。お、チーズケーキもあるのか」
覗き込んだ袋の中には某おじさんのチーズケーキ。どれも行列必至の店のものだ。
「こんなにたくさん大変だったろ?たこ焼き温めてくるから先に座っててくれ」
先程までひとりで籠もっていた所長室を指差す。冷凍のたこ焼きを持って給湯室へ向かう足取りは軽い。
来客用のソファーで向かい合って、他愛もないことを話しながらオオサカ名物を堪能した。食後の眠気防止のために淹れた濃いめのコーヒーを飲みながら男が口を開く。
「今日はあとどのくらいで終わりそう?」
「そうだな
……
遅くとも三時までには終わるな。あんたはどうする?」
先に合鍵を使ってマンションへ戻るか?と聞けば、男は今座っているソファーをポンポン叩く。
「邪魔しないからここにいてもいい?」
そのほうが俺も嬉しい、とは口にしない代わりに頷く。そんなことを知らない男は上機嫌でクラッチバックから文庫本を取り出した。
「今ね、これがいいとこなのよ。犯人がようやく分かりそうで」
それはシブヤの夢野幻太郎の最新作だった。シブヤの街を舞台とした本格ミステリー小説は巷でも話題になっていた。
「あ、それ俺も読みたかったんだよな」
「犯人が分かったら言ってもいい?」
「ネタバレしたら速攻つまみ出すぞ」
「はーい」
そう言って男は文庫本を開いた。俺は飲みかけのコーヒーカップを持ってデスクへ戻る。スリープモードに入っていたノートパソコン越しに男を盗み眺める。よほど続きが気になっていたのだろう、真剣な目つきで既に本の世界に入っていた。伏せられた実は長いまつ毛に少しだけ見惚れ、午前と同じ作業を再開する。山積みの書類をチェックして印鑑を押して、サインをして日付を書く。
……
十月十八日っと。
「あ」
「ん?どしたの?」
文庫本から男が顔を上げた。
「あ、悪りぃ、読書の邪魔しちまったな」
「大丈夫、もう犯人はわかったからさ。で、どうかした?」
「ああ、たいしたことじゃねぇんだけどさ、今日って十月十八日なんだな、と思って」
「
……
え?あ、うん、そうだね」
壁のカレンダーをちらりと見た男の頭の上にハテナが浮かぶ。なに当たり前の事を言ってるんだって困惑気味。ふふっと笑いが漏れた。
「今日はゼロと十八が並ぶ日だろ?つまりアンタと俺の日ってことだ」
午前まで全く気にしていなかった数字が、こいつに会った途端意味のある並びに変わった。ゼロと十八、レイとヒトヤ。思いもかけなかった発見に気持ちが高揚する。が、それは急速に萎んでいくことになる。男が文庫本を持ったままこちらをぽかんと見つめているからだ。あまりにも突飛なことを言われると人は表情を失うらしい。そこで初めて自分がバカなことを言っていることに気がついた。
……
なんだよ、レイとヒトヤの日って。今日日中学生のバカップルでもこんな恥ずかしい数字遊びをしねぇだろうよ。こだわりの椅子から力の限りの速さで立ち上がる。
「
……
コーヒーもう一杯淹れてくる!」
今すぐこの部屋から消えたい。まだ中身の残ったコーヒーカップすら持たずにドアへ駆け出すーーのを止められた。ソファーに座る男に腕をがっちりと掴まれている。
「
……
っ、離せ!」
全力で顔を反らす。頼む、今の俺を見ないでくれ!どれほど情けない顔をしているか分かっている。ポーカーフェイスも弁護士の武器のひとつなのに、こいつに関してはいつだってうまくいかない。
力を込めて抵抗するが男の手が緩むことはない。重苦しい沈黙が続くだけ。空調の音だけが響く時間に頭は少しだけ冷静さを取り戻し、腕を掴んだままそれ以上の動きがない男が気になった。頭の回転の早いこいつにしては珍しい。思わず振り向くと、てっきりこちらを見ているとばかり思っていた男は深くうなだれていた。自分の顔を見られていなかったことにほっとするが、俺から見えるのも男の黒髪とうなじのみで。その首筋が真っ赤なことに気がつく。もしかして
……
と身体の力を抜けば男の腕も力なくほどけた。ソファーの脇にしゃがみ込む。ビンゴ。
「おいあんたすげえ顔してんぞ」
覗き込んだ頬は予想通り赤い。ハの字に下がった眉は普段MasterMindが絶対見せない緩みきった表情で。消え入りそうな声が届く。
「
……
だってレイとヒトヤの日とかさ
…
あんまりにもかわいいこと言うんだもん」
反則でしょ、と両手で顔を覆ってしまう。四十六のおっさんの乙女のような仕草に不覚にも心臓がキュンと鳴いた。
「なあ顔見せろよ」
「やだよぉ、おいちゃん今情けない顔してるもん」
「情けなくねぇ、かわいいって」
「おいちゃんはかわいくない!」
今度は俺が男の腕を掴む番。だけど俺の力では男の手は剥がせなかった。クソッ、馬鹿力め。見せろよ、嫌だ、のやりとりを数回繰り返したが、
「キスしてやるから」
の言葉にピタリと男の抵抗が止まった。素直な奴だ。まあ驚くのも無理はない、普段の俺は事務所でのそういった接触は一切禁じているからな。ここは俺の神聖な仕事場、誰にも邪魔はさせねぇ。でも何故か、今日だけはいいと思えたんだ。なんだって今日はレイとヒトヤの日だし。
「俺はキスしたいんだけどな。あんたは?」
わざと軽い口調で煽れば、はああ、と深い息が指の隙間から返ってきた。そして観念したようにゆっくり男の顔が現れた。
「
……
そーゆーとこほんっとズルいよね」
まだ情けなく下がったままの眉と、拗ねたような口元が愛おしい。うん、やっぱりあんたはかわいい。
「でもそんな俺も好きだろ?」
「大好きです」
言い切る男にははっ、と2人の笑いが揃った。ああ、俺もあんたが大好きだよ。やがて男の瞼がゆっくりと閉じられた。やはりまつ毛が長いと思う。そっと唇を寄せる。
キスなんて数え切れないほどしたのに、事務所で初めてのそれはくすぐったくて幸せだった。
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