とある呪術師の息抜き

あの『とある呪術師の息抜き』がリメイクされて帰ってきた!!



第二章 病める国の影


尾威の国は広大であった。だが、その大地を覆っていたのはかつての栄光の残滓と、静まり返る荒野だけ。肥えた土地があってもそれを耕す民は少なく、風に揺れる稲穂の代わりに沈黙が田畑を覆っている。

恵刃を発った橿本がこの地に足を踏み入れたのは、さほど日を置かずのことだった。
尾威の国主──数見荒正が病に伏していると知った橿本はまず「呪医」として自らを売り込んだ。
当初は胡乱な目で迎えられたが、倒れていた兵の熱を一晩で下げてみせたことで城内の空気が変わった。
やがて噂は耳に耳を渡り、数日後には国主の寝所へと呼ばれることとなる。



枕元で静かに脈を診ながら、橿本は語るでもなく笑うでもなく、ただ冷えた手をそっと当てるのみ。
それだけで、荒正の目には何かを見透かされているように思えたという。
しばしの沈黙ののち………荒正はふと口を開いた。

……この国は、広すぎたのかもしれん。民は減り、田も荒れ、兵はいるが動かせない」

その言葉は誰に向けたものでもなく、嘆きに近かった。
橿本はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開く。
「広すぎる器には毒を垂らして満たすのがよろしい」
……毒?」
「毒とは、つまり知恵のことです。敵の血を流さずに済む道があれば、民も兵も救えましょう」
その言葉に荒正は目を細め、半ば呆れたように笑った。
「なるほどな……それで? その毒とは?」

そうしてふたりの“対面”が始まった。




荒正の病状は表向きには快方に向かっているとされていたが、その実、焦りと猜疑に満ちていた。
恵刃との戦に勝てる道はもう残されていないのではないか――そんな疑念が、夜ごと枕を重くしていたのである。

だからこそ、橿本にすがった。
彼が呪医であることよりも、“何かを知っていそうな男”であることのほうが重要だった。


「恵刃の国に勝ちたい。どうすれば勝てるだろうか? 呪術師であれば色々知識もあるだろう。知恵を貸してほしい! どんな手でもいい!!」
荒正は痩せ細った体を前のめりにしながら、まるで渇きを訴えるような眼差しを橿本に向けてくる。その目には恐れと焦燥、そしてかすかな狂気が宿っていた。
……わかった。自分で良ければ力になろう! わはははは」
橿本は豪快に笑ったが、その笑みの奥に感情と呼べるものは何ひとつ浮かんでいない。
そして、その策は淡々と提示される。

「恵刃の国主とは自分も直接話したから人となりはわかる。あの者の隙は奥方に他ならない。彼女を攫ってしまえばいい。連れてきたあとは何をしても構わん。むしろした方がいいな!」
荒正は思わず口を開けたまま動けなかった。
武人として培ってきた道義が、その言葉を咀嚼することを拒んでいる。
「貴殿の趣味でないのであれば、家臣たちにくれてやればいい。ただし、調子に乗ってそのまま殺してはならんぞ? 数日は生きてもらわんとな。あ~、怪我はさせても構わん。自分があとで診てやろう」
橿本の口調は冗談めいていたが、そこに笑い話として済ませられる空気は一切なかった。
「奥方がいなくなったことが気づかれたあとにまず彼女の足を恵刃へ誰にも知られないように送る。その次に腕、胴体、最後に髪を。身体は見てわからずとも、あの赤髪を見れば確信が持てるだろうよ。
奥方の髪はこの辺では見られない、とても印象的な色をしていたしな」
荒正の手が無意識に膝の上で震えた。
橿本はなおも笑いながら続けていく。
「そして文を出す。文章は次の満月が上がる日に待つとだけ書いておけばいい。あとは地図を描くだけだ。両国から北へ向かったところにある金陽山に印をつけておく。相手が短気を起こしてこちらへ攻めて来ない限り、そこが最後の合戦場となる。
ある意味宝の地図だな! もう首しか残っておらんがな! わはははは!!」
「しかしそのようなことをすれば怒りに狂うだろう!!」
荒正の声は怒気を孕んでいたが、その怒声も橿本の前では波紋のように掠れて消えた。
「それを狙っている。怒りで我を忘れた者たちなど、わかりやすいにも程があるというもの。総大将の感情というものは兵へ伝わりやすい罠へすぐかかるのが目に見えている」
橿本は手をひらひらと振ってみせる。
「だが、あの気弱そうな国主のことだ。怒る気力すら失い悲しみに打ちひしがれている可能性もある。どちらにせよ簡単に討ち取れるだろう。貴殿の運が良ければこちらが何もせずとも自ら死を選ぶかもしれん! その場合は……家臣たちが弔い合戦に来るか?! それも面白いな!」
……そうか、わかった。すぐにでもあの女を捕らえる手立てを考えよう。貴様は最後まで居てくれるのか?」
荒正の声は絞り出すように低くなっていた。
「それは出来んな。自分は故郷へ戻らねばならんのだ。だが宝の地図を送るあたりまでは居よう。それと、誰にも知られずに宝を置いていくのも自分が引き受けよう。これは生者には荷が重い役目なのでな」
「そのようなことが出来るのか、呪術師というのは助かる。御礼は……
「自分は戦いをさっさと終わらせたいだけだ。他にはなにもいらんよ」
橿本の言葉にはまるで大義のような軽さがあった。
それを受け止めきれぬまま、数見荒正は黙していた。




──そしてその夜。

恵刃の城にひっそりと侵入した影が志鶴姫の姿をさらって消えた。
騒ぎは翌朝まで起こらず、扉は固く閉ざされ、見張りも倒れていたという。
奥方の部屋には赤い髪の一本と、焼けた香の匂いだけが残されていた。
城中は混乱に陥ったが、手がかりは何一つなく……ただ“神隠しのようだった”と囁かれるばかりであった。