河童の皿箱
2025-04-02 09:15:59
11966文字
Public 旧作
 

赤気

娑楽斎とランブラのお話。



 ぴーん、ぽーん。鳴り終わればすぐにガチャリと聞こえて。

『せんせっ……今、今出ますから!』

 返事をする間も無く、またガチャリと切れては、門がカラカラ開き始める。玄関から彼が飛び出てきては、わたくしの手をそっと取ろうとしてやめた。サングラス越しの真っ直ぐな目が、わたくしをじっと見て。

とにかく、アトリエへ行きましょう。そのキャンバスも降ろしに」

「えぇ。今日は、ちゃんとお話ししましょう」

 今日は、会う最後の日になってしまうかもしれない。その可能性を飲み込んでは、歩く。
 先を行く彼に従って、いつものアトリエへ。からりと戸が開けば、中はいつも以上に散らかっていて、何かを作っているのだと直感できた。いつものようにキャンバスを降ろして、布を被せたまま、スタンドへと立てかける。
 画材は広げず、けれど貸してもらった一式は、すぐに返せるように。互いに椅子に座って、向き合って。彼の面持ちはかたく、ピンと張り詰めた空気が、アトリエを支配していた。

……なにから、話せば良いか」

「そうよね。びっくり、しちゃったわよね。あの時は熱に浮かされて、ついつい乗っちゃったけど」

貴女は」

「今まで隠していてごめんなさいね。改めて、自己紹介を。わたくしは、ランブラ。虹を天へと架けるアルシエル様の命により、オーロラを描く妖精です」

……いや、合点が行きました。あの日、先生がここを訪ねてきた時、この街で俺たちを知らなかった。だからすぐ通したってのも、あるんですけど……すみません、まだ少し、動揺していて」

「えぇ、無理もないわ。わたくしたちが人間の前に姿を現すことは、殆どないの。ほんの時折、子供に見つかってしまうくらい。ここまで深く関わるのは、初めてだったから」

まず。これは、勘違いをしてほしくないので、先に。俺は、貴女に会えて本当に良かったと思っています。先生として、絵描き友達として、本当に良い人だって。ただ、人の性といいますか。俺は先生に、畏怖を覚えてしまったんです」

「畏怖」

「えぇ、畏怖。俺たち人間はいや、俺たちの民族は特に、か。自然そのものを神として崇める民族なんです。太陽や、雨や、風や雲だって、俺たちからしたらひとつひとつが神。だから、今の俺の中には、先生としての貴女と、神としての貴女の2人がいる。そのどちらもが貴女であるのはわかっているけれど、人の本能に従って貴女を奉るべきかと、悩んでいるんです」

「わたくしも、同じ悩みを持っているの。わたくしたちが人の前に姿を現さないのは、まさしくそれが理由。わたくしたちは、神ではないの。神ではないものを神と崇められると、本当の神様の中には怒ってしまう方もいらっしゃるから。でもね、わたくしたち、人のことは大好きなのよ。人は、わたくしたちの作品を、いっぱい、いーっぱい描いてくれるから。もちろん、貴方のことも」

……えぇ。俺たち人間は、空の恵みをその身に受けて生きている。恵みは決して、生きるのに不可欠な陽の光や水だけじゃない。明日を空想するような心の揺らぎや、過去の空を思い描くのだって、空から受ける恵みだ。……貴女に、見てもらいたいものがあるんです」

 そう言って、彼は立ち上がった。アトリエの奥から、布のかかったキャンバスをひとつ取り出してきては、わたくしの布をかけたキャンバスの隣に、同じく立てかけた。
 隣に立ち、自分で持ってきたキャンバスの布に手をかける。

せーので、でどうかしら」

 彼は頷く。ここまで来てしまったのなら、あとはもう、成り行きに任せるしかない。
 せーの、で。互いに声を重ねては、同時に布を取り払う。

 一面に広がったのは、赤い夜空。奥に透き通る星々と。彼のキャンバスにも、わたくしのキャンバスにも、違うけど同じ色、同じだけれど違うものが、描かれていた。
 彼の夜空は、ローラーと、木版によって描かれたもの。わたくしの夜空は、毛筆で描かれたもの。色味も、透明度も、オーロラの形状も、全てが違う。それでもわたくしたちは、同じ空を描いていた。
 彼がふと、わたくしに貸した筆を取る。水を汲んで、描く準備をする。居ても立ってもいられなくなって、絵の具を拝借してはパレットに出し、青を水に溶かす。持ってきたローラーを広げては、赤に青をぶちまけた。

 黙々と。ただ、黙々とローラーを転がす。あの日感じた、胸の高鳴りを。今ここに、閉じ込めて。





 そうして、どちらだっただろう。あるいは、同時だったか。椅子から立ち上がっては、相手のキャンバスを見ないよう、息を整えて後ろを向いた。

 せーの、で。

 重ねた声で、振り返れば。同じ空には、彼の姿とわたくしの姿が、確かにあった。龍に乗る彼の淡い姿と、踊るわたくしの鮮やかな姿が、あの日のように、相対していて。

……俺は。俺は貴女に、神ではなく、俺の先生でいてほしいと、思っています」

 彼の言葉に、締め付けられていた喉がやっと紐を解かれたかのように、言葉を紡いだ。

「わたくしも。わたくしは貴方に、神を崇める者ではなく、わたくしの先生でいてほしいと、願っています」

 差し出された手を、そっと取って、ぎゅっと握る。あたたかい手だ。その温度に、ピンと張り詰めた緊張がグッと緩んで、つい、ヘナヘナと座り込んでしまった。

「だ、大丈夫ですか」

「ふふ、大丈夫よ。ちょっと、安心しちゃって」

「俺もです、先生。あの日、色々終わって落ち着いてから、見てはいけないものを見てしまったんじゃないかって、気が気じゃなかったんです。今日、もう会えないと言われたらどうしようかと」

「わたくしもごめんなさい。あの日のお祭りは、街中どこも楽しそうで。楽しそうな貴方たちを見ていたら、ついつい気が抜けちゃったの。変に気を使わせてしまって、ごめんなさいね」

「謝らないでください。あぁ、そうだ。これからもまだ、忙しい日が多いんです。連絡先、渡さないと。あと、今日はこれ持って来てもらいましたけど、こっちでキャンバス用意しますから