井見
2025-02-09 11:15:21
34431文字
Public 真Ⅰ二次
 

【再録】ゆめはめぐりて

真1主人公の道中掌編集の再録です。サイトにあげたことのある6本の改稿+新規3本、磨耗している主人公についてのお話を詰めました。痛みも悲しみも拭えなくても。
あとがき:
https://privatter.me/page/66dc6af2077b6


あなたは


 あなたは鏡のようなひとだった。
 あなたは優しい人には優しいけれど、恐い人には恐くなる。本当に助けを求めていれば、あなたは助けてくれる。本当じゃなかったから、むしろあなたは剣を抜く。それがわたしは、少しこわかった。あなたはじっと相手を見つめて、心の奥まで見通そうとする。
 あなたは悪魔を何匹も従えているのに、一度も悪魔の甘言に拐かされたことはなかった。悪魔たちはあなたにめげずに囁き続けるのに、あなたはちっとも聞き入れなかった。ありがとうとだけ言って、さっさとコンピューターの中に戻してしまった。
 誰かのもっともらしい言葉が、この世界にはたくさんあった。どれも正しくて、どれも間違っていた。あなたは誰の言葉であっても、最後までしっかりと聞きながら、それでも〝いいえ〟と首を振る。あなたは迷わなかった。それが茨の道になることはわかりきっているのに、あなたは黙って剣を構えた。
 わたしはずっとあなたの隣にいたけれど、もう頷いてしまえばいいのにって何度も思ったことがあったわ。例えどっちの主義でも、あなたが頷くのなら、わたしは構わなかった。片方に付くことは、もう片方を捨てることになる。それでも、あなたの望む方だけは拾い上げることができる。わたしはすっかりこの世界のことを考えていなかった。あなたを求めて差し伸べられた手に、あなたが静かに首を振るのが悲しかった。あなたが一番悲しいはずなのに、あなたは飲み込んでしまうから、それがもっと悲しかった。
 彼らは、みんなは、あなたではなく、あなたの力を求めていた。それは多分正しかった。だからあなたも力で応えた。どんなに恐ろしい悪魔が相手でも、あなたの太刀筋が鈍ることはなかった。どんなに斬りたくないような相手でも、あなたはしっかりと前を向いていた。
 でも、本当は……二人は、あなたを求めていたんだと思うわ。何もしなくてもいいから、せめて自分に頷いてほしいんだと思ったわ。……本当のことはわからない。それでも、わたしにはそう思えた。だってわたしなら、きっとそれを望んでいたから。
 もし彼らがそんなふうに言っていたら、あなたはどうしただろう。やっぱり首を横に振っていたのだろうか。わからないわ。もしもの話に、答えなんてどこにもないものね。
 最後まであなたが選び続けたのは、どちらの手も払い除けることだった。逡巡も後悔も、あなたの足を止めることはできなかった。あなたはただ、走り続けていた。
 
 だから、あなたが立ち止まったのは、これが初めてだった。
 カテドラルの屋上で、あなたは動かなくなっちゃった。
 あなたはずっと、膝を抱えて空を見ている。空はいつのまにか暗くなっていて、うっすらと星も見えてきている。夜の滲んだ鈍い色の海が、底の世界を隠している。
 東京の全部は水に沈んだ今となっては、星空を遮るものは雲くらいしかなかった。今日は新月みたいで、特に星がよく見えた。砂埃で常に曇っていた空気も洗い流されて、空には見たことないくらいたくさんの星が瞬いていた。
 でもわたしは星なんてどうでもよかった。わたしはあなたの隣で、あなたを見ていた。このあと、わたしたちはどうしよう。それを考えるのは、明日からでもいいと思った。今日くらいは、何もしないあなたを見ていたかった。
 あなたは遠くを見たまま、じっと動かない。星の数でも数えているのかしら。それじゃあ一生かかっても終わらない。
 だんだん暇になってきちゃった……なんて、嘘。あなたに話しかけたくなったの。
「星は何個あった?」
 空を見つめるあなたの瞳にも、星が映っているような気がする。あなたはロボットみたいに、ゆっくりとその瞳をわたしに向けた。
……増えちゃったから、わからない」
 あなたはそれだけ言うと、目を伏せた。増える前ならわかったのかしら。東京がこうして飲み込まれる前も、星はたくさん見えたはずだけれど。
 わたしは、「そうなのね」と相槌を打ちながら、あなたへ少し距離を詰めた。あなたは動かなかった。あなたは「寒いの」と聞いた。わたしは首を振った。もし寒いと答えたら、あなたはわたしのために、すぐに塔の中へ戻ろうとしてしまうだろう。確かに夜風は少し冷えたけど、今はこうしていたかった。
 あなたは伏せた目を再び空に戻して、また口を噤んでしまった。あなたは無口な人だった。
 夜の世界はあまりに静かで、あなた以外がなくなってしまったみたいだった。それが少し怖くて、わたしは何かを話しかけようと思った。どうでもいいことでもよかったし、大事な話でもよかった。どうしようかな、と胸に手を当てた。
 そういえば、ずっと聞いてみたかったことが一つあった。せっかくだし、聞いてみようかな。
「あなたって、ぜんぜん名前を呼ばないわよね」
 突然言ってみると、あなたはずいぶんびっくりした顔でわたしを見た。
「わたしだけじゃない。あの二人にもそう」
 何だか責めているみたい。そうじゃない。ただ気になっていた。あなたはずっと伏せるようにして話しかけていた。だから何となく、わたしもあなたの名前を呼びにくい。名前が嫌いなのかな、なんて思ったりもした。きっと二人も気づいていたと思うけれど、あなたには聞いていないみたいだった。
「気になったの。何でかなって……ただそれだけ」
 わたしはあなたから目をそらした。髪の毛の先が絡まっていたからほどいた。
「話したくなかったらいいわ。聞いてみたかっただけだから」
 視界の端で、あなたが身動ぎしたのがわかった。あなたは空とわたしとを見比べるようにした。
 それから、あなたはぽつりと言った。
「夢を見たんだ」
 夢を。とあなたは繰り返した。消え入りそうな声だった。
「僕は、僕が知らないはずの名前で、みんなの名前を呼んでいた。僕が名前を呼んだら、みんな僕に気づいた」
 あなたは膝をぎゅっと抱えた。
「もし、あのとき名前を呼ばなければ……
 あなたの声は消えていく。
 夢の中で、あなたに呼ばれた。あなたがわたしたちを呼んだ。わたしもそれを覚えていた。
 呼ばなければ。聞こえなかった言葉の続きは、何となくわかった。きっとあなたは怖がっていた。もし夢の中で、あなたが誰の名前も呼ばなければ、こんな風にはならなかったんじゃないか。優しいあなたのことだから、そんなどうしようもないことを考えているんだと思った。
「あなたはきっと呼んだわ」
 わたしは断言していた。
「どうして?」
「わたしも、あなたの名前を覚えていたもの」
 忘れちゃったの? わたしはそう言った。
「わたしはあなたの名前だけは覚えていた。あなたがわたしの名前を呼んでくれたことを……わたしは覚えていたの」
 あなたの体は少し震えていたから、わたしは背中をさすった。後ろから戦うあなたの姿を見ているときは、とても安心するし、たまにちょっとハラハラするのに、今のあなたはこどもみたいだった。わたしより大きいはずの背中は、とても小さく見えた。
 ここまで走ってきて、ようやくなのね。わたしはそう思った。あなたはずっと決断していた。あなたはずっと剣を握っていた。わたしはようやく、あなたの傷だらけのその手を、すっかり冷たくなった指先を握ることができる。
 膝を抱えるあなたの手に、自分の手を重ねた。指を絡めた。わたしの温度が、あなたに伝わる。あなたはわたしの手を振り払わなかった。じっとその手を見つめていた。
 わたしは、あなたの名前を呟いた。
 ずっと覚えていたあなたの名前を。
 真っ暗闇のなかで唯一輝いていた、あなたの名前を。
 あなたが二人の名前を呼びたがらなかったのは、今あなたが言った理由なんだろう。
 わたしたちの運命を、あなたはあなたのせいだと感じている。もしあの夢の中で、あなたが口を噤んだままだったら、誰の名前も呼ばなかったら、何も始まらなかった? わたしは、そうは思わない。
「わたしは嬉しかったわ。あなたがわたしの名前を呼んでくれて。
 その名前が、あなたにとって別の人の名前だとしても……なんてね」
 でもわたしに対しては、ちょっと違うでしょう、と意地悪を言いたくなってしまった。
 だってあなたは、わたしとわたしを分けて考えてるものね。あっちのわたしのことは、あの子って言うでしょう。あと、捕まっていた女の子も、わたしと同じ名前だったっけ。あの子もあなたの大事な人みたいだった。わざわざ聞くつもりもないけれど。
 わたしの名前を呼びたくないのは、あなたにとって、わたしの名前はわたしだけのものじゃないから。そうでしょう。
 そこまで言ったら可哀想だから、わたしは別の言葉を探す。
「ねえ……わたしの名前を呼んで」
 あなたが名前を呼んでくれたとき、わたしは本当に嬉しかったの。

「もう一度。
 わたしを呼んで」
 わたしは願っていた。でも、これもいじわるかもしれない。わたしはちょっと後悔した。

 わたしはあなたの顔を覗きこんだ。あなたのまつげが濡れて揺れている。わたしはあなたの頬に触れながら、ごめんね、と呟いた。そんな顔をさせたかったわけじゃなかった。あなたは返事の代わりに、ゆっくりと瞬きをした。
 あなたは小さく口を開くと、震える喉で息を吸った。

 それからあなたは、わたしの名前を呼んだ。
 わたしのための音だった。

 そしてあなたは唾を飲み込んで、わたしに手を伸ばした。
……泣かないで」
 そう言いながら、あなたはわたしの目を、硬い親指で触れるように拭った。
 わたしもあなたの名前を呼んだ。
 あなたの頬を包んで、指先であなたを拭った。
 あなたはやっぱり、鏡のようなひとだった。




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