モブは主役になれますか? 全年齢版

イケメン主任×モブな部下
「俺が森部を主役にしてやる」
モブ顔モブ思考な椎に、上司の潤理が恋愛指導をしてくれることになって――。

改稿版の投稿にあわせてこちらに移しました。




 また着信音が鳴っている。きっと潤理からだ。わかっていても出ない。わかっているから出ない。
 逃げ出して一週間が経っても潤理は椎に連絡をしてきた。その意図がわからない。責任感だろうか。だが主役を降りると言ったのは椎だ。これ以上追いかけないでほしい。
 なにをするでもなくベッドに横になり、休日をやりすごす。土曜日も日曜日も、仕事のある平日だって潤理との思い出だらけだ。こうなることはよく考えればわかったはずなのに、気がつかなかった――気がつかないふりをしていたのかもしれない。
 明日は仕事だ。仕事中には潤理もいつもどおりに接してくれるが、以前のように「モブC」と呼んでくれない。そこに戻りたい椎は、今はそう呼ばれるのを待っている。「苦手な一星主任」に戻ってほしい。
 こんなに苦しい気持ちはもう嫌だ。しんとした部屋の空気が冷えている。あの日、おうちデートをしたときはあんなに温かく感じたのが嘘のようだ。

……はあ」

 また潤理とのことを思い出していた。どうやったら本当にモブに戻れるのか。時計の秒針がゆっくり時を刻むのをぼんやり眺めた。





 今日も一日が始まる。まだ潤理からの連絡は途絶えないから無視し続ける。もう主役ではないのだ。大多数に埋もれて、いるのかいないのかわからない自分に戻る。

「おはようございます」

 潤理がデスクにいて、慌てて目を逸らす。顔を見たら辛くなるから、最近はその姿をきちんと見ていない。

「おはよう」

 低い声は静かだ。怒りを隠しているのかもしれないし、呆れているかもしれない。それでも椎は主役には戻りたくない。あんな位置は選ばれた人だけがつくべきなのだ。身にそぐわないことをすると痛い目を見ることを学んだ。
 淡々と仕事をこなし、昼休みになった。

「森――
「ランチ行ってきます」

 逃げるように部署を後にする。声をかけられたのなんて聞こえない、聞きたくない。
 どんなに距離を置いても潤理は椎を惑わせる。またあの優しい瞳に見つめられたい、温かい手を握りたい――そんな願望が蘇る。早く忘れようと何度決意したか。そのたびにだめだった。
 潤理との時間を忘れるなんてできないくらい幸せな時間だった。まるで本当に主役になれるような、そんな錯覚さえ起こす、ある意味では恐ろしい時間。

 ――今週末どこ行きたい?

 優しい言葉が耳に蘇る。平凡なモブといるのに楽しそうにしてくれて、いつも笑っていた。思い出の場所がひとつひとつ苦しい場所になる。なんとなく入った定食屋の総菜の味も、ひとりだととても味気ない。
 周りを見ると、楽しそうにランチタイムをすごす人、ランチ中もしかめ面の人、食欲がないのか箸を持ったり置いたりしている人、様々な人がいる。椎はどのように見えているだろう。
 潤理と一緒に食べた定食は今日も変わらないのに――せつない。早く忘れよう、と最後のひと口を飲み込んだ。

 部署に戻ると、すぐ前を歩いていた見たことのない男性社員が潤理に近づいた。他部署の社員だ。

「また来たのか」
「指導のことです。受けてくださいね」

 聞こえてきた言葉に椎の動きが止まった。

「わかってる。しっかり受け止めるよ」
「絶対ですよ」

 指導、受け止める――世界がぐらりと歪んだ。
 男性は可愛らしい顔つきで小柄な人だった。どう見ても「主役」。
 潤理は次の人を見つけたのだ。今度は椎のようなモブではなく、きちんとした主役を選んだ。恋愛指導なんて必要なさそうな人を受け止めて、なにを教えるのか。モブ顔モブ思考が好きだと言っていたくせに――
 なにかを話し込んでいるふたりに背を向け、また部署を出て廊下で大きくため息をついた。引きずっていたのは椎だけだった。涙も出ない。泣くなんてモブには似合わない。だからただ普通に、いつもどおりにするのだと自分に言い聞かせてデスクに戻った。

 頭の中は「指導」のことでいっぱいだった。こんなのはいけないとわかっているのに、潤理と昼休みの男性が頭の中で並ぶ。お似合いだ、と思ったらため息が出た。

「お疲れ、森部」
……っ!」

 肩に手を置かれて見あげると潤理がいた。その目の下にはうっすらと隈ができている。久々にきちんと顔を見た。

「あの、まだ就業中で……
「もう退勤時間すぎてるぞ」
「えっ」

 時計を見ると、潤理の言うとおり退勤時間を三十分もすぎていた。考えごとを頭から追い払うように集中していた。

「すみません。すぐ帰ります」

 パソコンをシャットダウンして立ちあがる。

「ちょうどいいから飲みに行かないか? 話がある」
「俺にはありません。恋人と行かれたらいかがですか」

 淡々と答えて通勤バッグに私物を入れるが、その手を掴まれた。潤理の顔を見たくなくて目を逸らす。

「なに言ってるんだ?」
「指導のこと、俺だけじゃなかったんですね。あんなに素敵な人になんの指導をするんですか?」

 自分でも驚くほど冷たい声が出た。手首を掴む力が強くなり、痛いくらいの力に、振りほどこうとしても敵わない。

「本当になにを言ってるんだ?」
「昼休みに主任が男性と話しているのを聞きました。俺ばっかり忘れられなか――

 はっとして口を噤む。言ってはいけないことを勢いで口にした。慌てて逃げようとするが、手を離してくれない。

「忘れるってなんだよ」
「主任との時間は楽しかったです。でも俺には過分です」

 顔を見ないように俯く。顔を見たら堪えているものがすべて溢れ出してしまいそうだから、必死で逃れる。

「主役になりたいんじゃなかったのか」
「もう嫌です。こんなにつらくて苦しいなんて、耐えられません」

 ようやく手首が離され、ほっとしたのもつかの間、潤理が椎を正面から見つめた。

「それはどうして?」
……
「教えてくれ。俺は椎を傷つけるしかできなかったのか?」

 真剣な声が鼓膜を突き刺す。ずきずきと痛む胸に逃げ出したくなるが、脚が震えて動けない。こんなふうになっても、潤理の視線を受けられることを喜んでいる自分がいる。

「主任との時間は、とても楽しくて幸せでした」
「じゃあどうして嫌なんだ?」

 ぐっと言葉が詰まる。答えていいのかわからないが、その真剣さから逃れるのは無理だと悟った。

「だって主任を好きになったら終わりなんでしょう? 主任が離れて行くなんて耐えられないから、俺が逃げるんです」

 視界が揺らめく。気持ちを認めたら止まらない。だが留まらないといけない。潤理はもう他の人のものだ。椎がすがりついていい人ではない。その事実を反芻したら涙が零れそうになり、慌てて手で拭う。

「椎……

 驚いたような潤理の表情は真剣で優しい。思うままに甘えたくなる、あの日々の潤理と同じだ。それが余計につらい。

「お願いです。もう忘れさせてください。モブに戻りますから、許してください……

 瞼を伏せ、潤理から顔を背ける。これ以上姿を見ていたら動けなくなる。なにを言っても、心は正直に潤理に抱きつきたがっている。

「すみません。帰りま――

 突然抱きしめられ、心臓が跳ねる。潤理の腕の中にいる事実を理解できずに戸惑う。この背にしがみつきたいが、それは許されない。

「俺が好きか?」
……ごめんなさい」
「好きか聞いてる」
…………好きです」

 口にした気持ちが潤理の力強い腕を喜んでいる。離れないといけないのに、離れられない。

「ずっと待ってた」
「え……?」
「椎のこと、ずっと好きだった。ようやく俺を好きになってくれたんだな」

 なにを言われたのかがわからなくて潤理の顔を見る。その瞳は柔らかく細められ、椎を映している。

「椎がずっと好きだったんだ」
「えっ」
「でも椎は全然俺を見てくれないから、どうしたらこっちを向いてくれるのかと必死だった」

 いきなりの告白がわからない。潤理が椎を好きだなんて、慰めるために言っているだけではないのかと勘ぐる。

「モブCって呼ぶとたくさん反応返してくれるからそう呼んでたけど、主任以上には見てくれないし」
「はい?」
「いつもチョコ食べてるから、好きなんだろうと思ってチョコあげ続けてもいい反応が返ってこないから、どうやったら椎の恋愛対象になれるのか、ずっと悩んでた」

 潤理が椎の恋愛対象になりたいと思っていた――意味がわからない。

「話が見えないのですが」

 頭の中がごちゃごちゃになっている椎に困ったような笑みを向ける潤理は、とても嬉しそうだ。優しく手をとられ、肩が跳ねる。

「俺の中で主役はずっと椎だったってことだよ」

 言葉を頭で繰り返す。俺の中で主役はずっと椎だった――潤理の中で主役はずっと椎だった……

「ええっ、なぜ」
「言っただろ。飾らなくて真面目な椎が好きだって」
「言ってません」
「モブ顔モブ思考もすごく可愛い」

 それは恋愛指導の上で椎を主役にするためにそう言っていただけのはず。「椎が好き」だとは言われていないから、そうなのだと思っていた。だがこの流れだと、どうも椎が受け止めていた意味とは違うようで――

「な、なんですか。それ」

 ようやく状況が理解できてきて、頬が猛烈に熱くなる。視線が泳いでしまい、じっとしていられず逃げ出したいけれども逃がしてくれる人ではない。両手を包まれ、いつも温かかった指先が嘘のように冷えていることに驚いた。

「椎の中で俺はモブだったから、主役として見てもらえるように頑張った」

 潤理がモブだなんて、ありえない。ありえないけれど、たしかに以前の椎の人生にとっては無関係すぎてそうだったかもしれない。

「な、なにを……。だって俺が主任を好きになったら恋愛指導は終わりだって」
「椎が俺を好きになったら、本当の恋人になるんだろ?」

 本当の恋人になる…………

「はあっ!?」

 情報の許容量を超えて脳がパンクしそうだ。なにがどうなってそうなるのだ。潤理が話してくれた内容があまりに椎からかけ離れたものすぎて理解できない。ずっと椎が主役だったなんて――

「俺はずっと椎しか見えてなかった。椎がゲイだと気がついたのだって、社内で可愛いって騒がれてる女性社員が近づいても表情をぴくりとも変えないから、そうだったらいいなという願望から鎌かけただけで、本当は仲間なんてわからない」
……願望」

 それはありなのか。あっていいのか。

「そんな……俺、悩んで……

 悩んだ時間を返せと言って実際に返してもらいたい。ここはまっすぐ文句を言うのが正しい、と潤理を睨みつける。

「なん――
「ああっ!」

 突如潤理でも椎でもない大きな声が聞こえて、そちらに顔を向けると昼休みの男性社員が真っ青な顔をして部署の出入口に立っている。そうだ。あの人のことが解決していない。

「一星主任、また残業して!」
「あ、悪い」
「『悪い』じゃないですよ! 指導をちゃんと受け止めてくれるって言ってたのに! しかもこっちの人まで残って……ノー残業デーにふたりも残業なんて、俺は課長になんて説明したらいいんですか!」

 悲痛に表情を歪めて怒る男性に、椎は状況が読めずぽかんとする。潤理を見あげると、まったく悪びれずに謝っている。口先だけだ。

「悪い悪い。すぐ帰る」
「え……え?」
「行くぞ、森部」

 背中を押されて部署を後にする潤理と椎に、男性は「恨みますよ」と、言葉どおり恨みがましい視線を向けていた。

「どういうことですか?」
「人事のやつだ。最近俺の残業が多いって指導受けてたんだよ」
「えっ」

 恋人ではなかったのか。指導は指導でも、恋愛指導ではなく人事指導――力が抜けた。

「そんなに仕事が詰まってましたか?」
「いや。帰ってもつらいだけだから、毎日椎のデスクでずっと椎のこと考えてた。なにを思ってるんだろう、なにを感じているんだろうって」
「ストーカーのようですね」
「自覚はある」

 こんな展開はありだろうか。モブな椎は目がまわる。

「ストーカーでも嬉しいです」
「そうか」

 ビルを出たところで潤理が手を握ってきた。素直に甘い拍動を響かせる心臓にくすぐったくなった。もうこのどきどきを隠したり、逃げたりしなくていい。ただまっすぐに受け止められる。

「きちんと話をしたい。うちに来ないか?」

 真剣な表情が街灯の明かりに照らされて、妙に色っぽく見えた。

「モブを誘うとは」
「モブじゃないだろ。俺の主役は椎だけなんだよ」

 潤理のような男の主役が椎だなんて、まだ信じられない。冗談と言われても受け入れるだろう。受け入れてもそれなりに怒るけれど。だが潤理の瞳はそれが真実だと伝えてくれる。

「モブはお供します」
「だから」
「いきなり主役なんて……頭がついていきません」

 椎の気持ちを汲んでくれたのか、潤理はそれ以上モブ発言につっこんではこなかった。本当についていけなくて脳みそがパンクしてしまいそうだ。