薄暗い森の中。
並ぶ木々とその葉は幾重にも重なり、ここ一帯に重く冷ややかな雰囲気をもたらしていた。
地面には、無数の草花が鬱蒼と茂っている。それらは嗤うようにざわめくと、白い1輪の花だけが、木陰に佇むカラベラフィルムの体表に触れた。
「
……」
……ただひたすら、水面の凪いだ池を眺めている。花は彼の身体をすり抜けると、雨上がりのように濡れてしまった。
……どうも、最近の彼は様子がおかしい。
以前のカラベラフィルムであれば、今頃は池に浸かっているだろう。しかし、近頃ではこうして、遠くから池を眺めていることが多い。
……なんたって彼の中には、シアノがいるのだから。自分が池に入ってしまえば、水嫌いの彼は嫌がるだろう。
……かつての寝室は、今や無価値な水たまりでしかなかった。
ふと上を見上げる。
少しだけ雲が動いたのか、木漏れ日が射し込むようになった。柔和な光がカラベラフィルムを包み込むと、それを賛美するように木々がざわめく。
「よく眠れそうだな。」
誰に言うわけでもなく、カラベラフィルムは呟いた。
その言葉とは裏腹に、一向に眠気はやって来ない。
感情の起伏も無くなり、料理を見て美味しそうと思うことも無くなった。危ない、と教えてくれる人がいなくなって、また鴨居によく頭をぶつけるようになった。
けれど、どうにも痛いと思えない。
錬成されたばかりに戻ってしまったようだ。
いや、ちがう。
ただ見えなくなっただけ。
彼らは”ここ”に存在する。
心が壊れてしまわないよう、カラベラフィルムは自分に言い聞かせた。
樊凌が見えなくなって約1週間。
館はさらに重い空気に満ちている。
だからこそ自分がしっかりしなければ。
そう自分自身に喝を入れた。
その時、遠くの茂みから「ガサッ」と音が聞こえた。
野生動物か、はたまた械の誰かだろうか。もしかすれば人間かもしれない
…
カラベラフィルムは木影から顔を出すと、音が聞こえた方へと視線を向けた。
……どうやら、黒いマントを纏った人物が、池のほとりにかがみ込んでいるようだ。遠目からかすかに見える両手は、異様なほど赤く染まっている。明らかに血液だろう。
(
……?)
シルエットにどこか既視感を覚えつつ、カラベラフィルムは警戒しながら様子を窺う。
……それから数分後、彼はようやくマントを外した。
……正体はルフレだった。
彼はマントのしわを軽く伸ばすと、そのまま池の水に晒した。
……直後、水が真っ赤に染まる。
どうも元の色だと思っていたものは、すべて血だったらしい。
ルフレはマントに染みた血を落としながら、一緒に手も洗い流していた。水はどんどん、どんどん赤くなっていく。
(
……何の血だ?)
こちらにはまだ気付いていないらしい。声をかけるべきだろうか。カラベラフィルムは逡巡する。
……仲間とはいえ、見なかったことにするべきこともあるだろう。「互いに詮索しすぎない」というのも、関係を維持するうえでは必要不可欠である。
それはカラベラフィルムとて理解している。理解しているのだが
……先刻から、胸騒ぎが止まない。
衝動のまま、気付けば立ち上がっていた。
「
……ルフレ殿?」
声をかければ、ルフレはビクリ、と肩を震わせる。
ゆっくりと自分を見上げたルフレの目には、焦燥が滲んでいた。
「その血はどうしたんだ?」
「
……あぁ、心配ありませんよ。さっき森に迷い込んでいた人間がいたので、片付けてたんです。ほら、館が見つかったらいろいろまずいでしょうし。」
そう言って、ルフレはにこりと笑った。声音や表情にはなんの違和感もなく、不気味なほどにいつも通りだ。
「ほんと、困ったものですよねぇ。」
自然に目線を逸らすように、手元に目線を戻す。
「
……そうか。」
その言葉が咄嗟に出た嘘だということは、すぐに理解できた。
ルフレはカラベラフィルムが自分が傷を負ったのだと心配してルフレは、カラベラフィルムが自分の負傷を心配しているという前提で返事をしたのだ。しかし、彼が無傷であることなど、見ればすぐに分かる。
彼は、言い逃れのできないマントの状態から、まだ誤魔化しのきく自分の行動へと話題を移そうとしたのだろう。
彼の様子に違和感はないが、手元のマントが全てを物語っている。
マントを洗っているふりをして、その手はただ水面を揺らし、赤く染まった水をかき消そうとしているように見えた。
カラベラフィルムはしばし迷いながらも、口を開く。
「
……ルフレ殿、貴殿は何を考えているんだ?」
その言葉に、ルフレの手が止まった。
溢れる想いを抑えるように、彼はぎゅっと濡れたマントを握りしめる。
その拍子に、先ほどまで必死に隠そうとしていた血が、再び池に滲んでいった。
「
……はは、何も考えてませんよ?
……それを言うなら、僕はカラベラフィルムさんの考えの方がわからないです。」
「
……グラディエーターさんも、ファンリンさんも、白浪さんも
……シアノもいなくなったのに、まるでいつも通りだ。」
「何も無かったみたいに。いつも通りの顔してる。」
彼の言葉にはどこか怒りが滲んでいるように感じる。目を逸らしたままひとつ、ふたつと言葉を漏らした。
(
……みんな、いない
……?)
ルフレの言葉に、カラベラフィルムは頭を抑える。だめだ、考えちゃいけない。忘れなくては。そうでもないと
……
(
……)
「ルフレ殿には見えていないだけだ
……。彼らは確かにここにいる。」
「っ!」
カラベラフィルムの言葉に、ルフレは顔を上げた。
そしてルフレは、目の前の現実から逃げた彼を睨みつける。
「っ、僕だって
……」
はっとして、ルフレは喉から出かけた言葉を飲み込んだ。
「
……ごめんなさい、カラベラフィルムさん。ちょっと1人にしてくれませんか?」
ルフレは目線を落とし、冷たい声色でつぶやく。
「
……そうか
……すまなかった。」
一旦今は距離を置くべきだろう。
カラベラフィルムは少し躊躇いながらもその場を後にし、館へと戻った。
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