4話✧恢械




金色に輝く玉座の前。

そこには、兵士たちの死体の山ができていた。
床に広がる血は乾き始め、鼻をつく鉄錆びた匂いが立ち込めている。

樊凌がここに戻るまでに何人もの兵士が様子を見に来ていたのだろう。

「おかえりなさい、ファンリンさん。」

ルフレは剣の付着した血と油を布で拭っていた。

あの人、なんか言ってましたよ。」

そう言ってルフレは皇太子に目を向ける。彼の視線を追うように樊凌も皇太子に目を向けた。
そして樊凌は黙って歩き出し、皇太子のもとへと向かう。

皇太子は玉座に腰かけたまま、怯えながらもこちらを睨んでいた。それでも、彼の態度は堂々としていた。

何者だ。』

その言葉に樊凌はただ無言で歩を進め、やがて、玉座の目前へと立つ。

……

静かに皇太子の首元へと剣の切っ先を突きつけた。

『なんで彼の手を離したん?』

『彼と、ずっと一緒おるって誓ったんやろ??』

震えた声で樊凌は目の前の男に問いかける。その質問は本当に彼に対する疑問だけなのか、それとも自問も含まれていたのかは分からない。
樊凌の問いかけに皇太子は一瞬だけ目を見開き、そして苦しげに呟いた。

あいつが、裏切ったからだ。』
『彼は裏切っとらん。』

その言葉に、皇太子の顔が青ざめた。

『無罪やって主張し続けたのを信じんかったのはキミや。』
あいつを、裏切ったのがこの私だと……?』

樊凌は静かに頷いた。
その瞬間、皇太子の表情が絶望に染まる。

だが、次の瞬間皇太子の表情が醜悪に歪んだ。

『違う……!』

樊凌の目が細められる。

……は?」

『私ではない!疑われるようなことをしたあいつが悪いんだ!!』

ビシャッ_!

『あ”ッ!?』

皇太子がその言葉を言い放った瞬間、彼の口が大きく裂けその血が床に飛び散る。

彼は何が起きたのか分からず、震える手で裂けた口を押さえながら、必死に後ずさった。
口内に鉄の味が広がる。
閉じようとしても、その口が塞がらない。

『あ”っ、あ”ぁ……!!』

瞳は恐怖に揺れ、歯の間から血が滴る。
足元はふらつき、椅子の端を掴もうとするが、手が震えて力が入らない。

「逃げるん?」

樊凌の声が、氷のように冷たく響いた。
逆光に照らされ、その表情は暗く影が落とされていた。

皇太子は答える余裕もなく、ただ反射的に身体を翻した。
腰を抜かしたのか金色の床に両手をつき這いつくばるように逃げ出そうとする。

ズシャッ_!

剣が振り下ろされ、靴底ごと皇太子の足の裏が削ぎ取られた。

『あ”っあ”ぁっ!!』

皮膚と肉が剥がれた断面から、じわりと赤黒い血が滲み出す。
衝撃と痛みで身体が痙攣し、指先が床を掻くように動く。

それでも彼は本能的にその恐怖から逃げようとした。

指の先に力を込め、床に爪を食い込ませながら、赤子のように膝をついて必死に前へと進もうとする。

そんな抵抗も虚しく、その腹を蹴り上げられた。
死にかけの虫のように仰向けになって痛みに悶える。そして一歩一歩と近づいて来た樊凌はまたもやその刀を振りかぶった。

次は膝と太ももの肉が削がれた。

断面から覗く白い骨と、弛緩した筋肉。
じくじくと血が床に染み込み、痛みに歪んだ皇太子の顔から汗が滴る。

『あ”、ぁ……っ』

喉が引きつり、息が浅くなる。

「そんだけ切られたら、もう立たれへんやろ?」

樊凌は冷ややかに言い放った。

皇太子は涙と血でぐしゃぐしゃになった顔を上げそれでも必死に手だけで前へ進もうとする。

床に広がる血と兵士の死体をかき分け、ゆっくりと這う。
やっと、数メートル。

攻撃をやめた樊凌に、もう見逃して貰えたのかもしれないと希望を抱く。
その瞬間。

ザクッ。

指が一本斬り落とされた。それも一関節のみ。
耳を劈くような叫び声が響いた。

無様な姿を晒しながらも彼は逃げようとする。

二本目……三本目……

転がる指の欠片が増えるにつれ、次第に這う速度が遅くなる。

這うたびに血溜まりが広がり、床に擦れた肉の断面から新しい血が溢れ出した。

いつしか黄金に輝いていた宮殿の床は朱殷に染まっていた。


背後で皇太子の叫び声が絶え間なく聞こえてくる。
グラディエーター、ラート、フィリップ、ルフレの四人はすでに宮殿の外へと脱出していた。

宮殿の奥から聞こえてくる断末魔の叫びに、ルフレは耐えきれずその場にしゃがみ込み耳を塞いでいた。

ラートはそんなルフレの様子を一瞥すると、何も言わずに顔を上げ空を見た。

太陽が傾き始めている。

昼の終わりが近づき、西の空は淡い橙色に染まりつつあった。

いやな予感がするな」

ふいに遠くを見つめていたグラディエーターが呟いた。
その視線をラートとフィリップも追う。

彼らの瞳に映り込んだのは、紫禁城の門から押し寄せる無数の影だった。

「なんだあれは

無造作に踏み鳴らされる軍靴、規則正しく掲げられる軍旗、鋭く輝く無数の槍と刀。

それらを見た瞬間、全員の顔が険しくなる。

軍隊、か。」

ラートが静かに呟いた。

これまで戦っていたのはあくまで錦衣衛。紫禁城内部の護衛にすぎない。
しかし、今目の前に現れたのは、皇帝直属の正規軍だった。
紫禁城の襲撃の報を受け、遠征に向かおうとしていた兵士や、各地に散らばっていた部隊、さらには武器や装備までも総動員し集結してきたのだ。

何百、何千という兵士たちが、紫禁城の門から次々と雪崩れ込んでくる。

「彼らの様子を見るに、すでにこの城全体が囲まれていてもおかしくない。」
逃げ場所は無い、ということか。」

ラートの言葉に、フィリップが低く呻く。ルフレは顔を上げ、唇を噛み締めた。

「どうします?リンリンさんはまだ終わりそうにないうえ、シアノとカラベラさんもまだ帰ってこない」

一刻も早く撤退すべきか四人は思考を巡らせる。

_樊凌が目標を果たすまで足止めをする。

そして脱出、もしくは24時間が経つまで兵士を減らしておくこと。
現在の人数から逃げることは無理だろうが、今から処理をすれば逃げられる数まで減らせるだろう。
とはいえ樊凌がいつ終わるのかも、シアノとカラベラフィルムがいつ合流出来るかも分からない。
そもそも、たった4人でこの圧倒的な数の軍勢を相手にできるのだろうか。
そう考えると自然と表情が曇り、不安の色が滲んでいた。

「っはは!俺がいるんだ、心配などしなくていい!」

突然、静寂を破るように響いたのは、豪胆な笑い声だった。グラディエーターはそう言い放ち、
グラディウスを勢いよく抜く。その態度はまるでこの絶望的な状況すらも楽しんでいるかのようだった。

貴殿というやつは……

ラートが呆れたようにため息をつき、ルフレは苦笑を浮かべる。

その反応とは裏腹に、仕方ないとラートは車輪を構えた。四人は視線を交わす。

よし、行こう!!」

そのグラディエーターの駆け声と共に彼らは兵士の元へと向かった。


4人が軍隊の方へと向かった数分後、宮殿の裏手からカラベラフィルムとシアノが顔を出し、宦官が続く。
宮殿前には誰の姿もなく、3人は不思議そうに顔を見合わせた。

誰もいないのか?」



そう思った矢先、宮殿の奥から静寂を切り裂くような叫び声が響き渡る。

「っな、まさか樊凌が?」

シアノが言葉を漏らし、慎重に扉へ近づこうと一歩を踏み出した、その瞬間。

『王储殿下!!!』

突然、宦官が駆け出した。
驚いたシアノは咄嗟に手を伸ばしたが間に合わず、彼の腕を掴むことはできない。カラベラフィルムとシアノはすぐさまその後を追った。

痛みに顔を顰めながらも、宦官は止まらなかった。
つい先ほどまで、一歩踏み出すだけでも苦痛だったはずなのに、大切な人の声を聞いた途端、彼の足は迷いなく動いていた。
扉の前にたどり着いた宦官は、荒い息を整えながら顔を上げる。

っはぁはぁ太子殿下、お怪我はっ__』

目に映ったのは、血まみれで変わり果てた皇太子の姿だった。
顎は裂け、頬の肉や耳は削がれ、指はすべて失われている。

宦官が愛した、気高く尊い皇太子の姿は、そこにはなかった。

その傍らには、一人の男が立っていた。
長身の男_樊凌は、返り血に染まった刀を握り、無表情のまま足元に転がる皇太子を冷たい目で見下ろしている。
宦官の体が震え、膝から崩れ落ちそうになる。しかし、恐怖に体が固まるよりも先に彼は走り出した。

「は?」

そして、遥かに小さな体で宦官はその男の前に立ちはだかる。

……なんでそいつを庇うん?」

樊凌の声には、戸惑いが滲んでいた。
なぜ、この男は、命を賭してまで裏切り者を守るのか。
なぜ、この震える小さな体で自分を止めようとするのか。

ボクは、キミの代わりにそいつに仇討ちをしよったんやで? そいつはキミの言葉を信じずに裏切っ
『そんなことどうでもいい!!!』

宦官の怒声が、樊凌の言葉を遮った。

『太子殿下が奴才のことをどれだけ裏切ろうと、奴才は永遠に太子殿下を愛している! この気持ちが変わることなどない!』
「っな
『そして僕は、一切復讐など求めていない!!!』

その彼の言葉は、活力に満ちた、真っ直ぐな、青年らしい声だった。
その声を耳にした瞬間、樊凌の胸に深く刻まれた彼の顔がその宦官に重なって見えた。
樊凌の瞳が揺れ、その手から刀が滑り落ちる。
鋭い金属音が床に響く。

「し、小白?」

白浪がそのような言葉を言っていたわけではない。
けれど、彼に似たその声が放った言葉は、まるで本当に白浪が言っているように感じられた。

驚愕に目を見開く樊凌とは対照的に、宦官は真っ直ぐ彼を見つめさらに言葉を投げつけた。

『あなたがした復讐は、僕のためではない!本当は、なにかの鬱憤晴らしだろう!』

その一言に、樊凌の心臓が強く揺さぶられた。
宦官の言う通りだった。

どれだけ彼のためだと誤魔化しても、どれだけ仇討ちだと正当化しても、結局はただの鬱憤晴らし。
冤罪で処刑される者を救えなかった罪悪感を、目の前の皇太子のせいにしていただけ。

まるで、皇太子が宦官を信じられなかったように。

目を落とすと、皇太子が地を這っている。
彼の顔には、苦痛と恐怖が滲んでいた。だがそれ以上に、瞳は歓喜に満ちていた。

それは、死を免れたことへの安堵でもなければ、助けが来たことへの喜びでもない。

「愛する者が生きていた」

それが、彼の心を満たしていた。

瀕死の愛方を庇う者と、死んだと思っていた愛方の生存に歓喜する者。

樊凌の視界が歪む。

……キミは、それで、ええの?』

震える声で問う。宦官はどこか柔らかな声で答えた。

『僕は、どれだけ傷つけられようと、どれだけ裏切られようと、殿下を愛している。
それだけは、誰にも、何にも変えられない。』

その瞳には一点の曇りもなかった。殺意も憎しみも悲しみさえもない。

あるのはただ、絶対的な愛。

愛する者を信じ続ける、揺るぎない想い。

樊凌の肩が小さく揺れる。

込み上げる何かを押し殺すように、唇を噛みしめた。

……気づけば、目尻から、温かな涙が流れていた。

「っは、ははなんやキミらの事気になったんはボクに似とったからか……

そして、彼らを見てもうひとつ気付いた。

何があっても揺らがないもの。
相手の幸せを願うこと。
たとえ自分を犠牲にしても相手を守りたいと思うこと。
そして、永遠に共にいたいと思うこと。

それらが愛だと言うことに。

っ、ボクは小白のことが好きやったんか

やっと自分の気持ちに気付いた樊凌は膝から崩れ落ち、その目から抑えきれなくなった涙が溢れ出す。

もう、どれだけ愛を伝えたところで、その答えが帰ってくることはない。
樊凌は届かないとわかっていながら、ひたすら彼の名前を呼び続けた。何度も、何度も。

その声が静寂を切り裂くように響く中、もうひとつ、名前を何度も呼ぶ声も聞こえてきた。
顔を上げると、歪んだ視界に皇太子を抱きしめた宦官の姿が見える。
あちこちの肉が削がれた皇太子は、もう長くないことが誰にもわかっていた。

(せめて、キミだけでも幸せになってほしいせめて、ボクにできることを)

彼はもうすぐ死ぬキミはどうしたいん?』

宦官は一切躊躇いもなく答えた。

『太子殿下と共に死にたい。』

その言葉を受け、皇太子は静かに涙を流す。

『明白了』

樊凌は優しい笑みを浮かべ、頷いた。

樊凌は冷たくなり始めた皇太子を抱え、宮殿の最奥の玉座に座らせる。そしてその隣に座った宦官の膝を枕に、彼を横にした。

一連のやり取りをシアノとカラベラフィルムはずっと見守っていた。
彼らのやり取りにはそれぞれ心を打たれるものがあったのだ。

これ以上は彼らだけにするべきだろう。行こう、シアノ殿。」
「えっ……あっ、いや、そうですね

歯切れの悪い返事をするシアノにカラベラフィルムは首を傾げる。ゆっくりと一歩踏み出したにも関わらず、彼の目線はまだ彼らに向けられていた。その漆黒の瞳孔は微かに揺れていた。

「シノちゃん!」

突然、樊凌から名前を呼ばれたシアノはびくりと飛び上がった。

「えっ、なんですか

困惑するシアノの肩を叩いた樊凌はにこりと微笑んだ。

ボクの得意分野は苦しめながら殺すことやし、2人同時にってのは難しいねん。シノちゃんやったら得意やろうな〜と思って。せやし、本人もシノちゃんかカラちゃんがえぇみたいやから。」

樊凌の言葉に、シアノは目を見開いた。
宦官に目を向けると、彼は頼み事をするように頭を下げていた。
シアノはしばらく困惑した様子で視線を泳がせたが、やがて決心したのか、樊凌に向かって頷いた。

……ただ彼らに伝えて欲しいことがあります。なので、少しだけ翻訳をお願いします。」
「もちろん、任せといて!」

樊凌とシアノはゆっくりと、玉座に座る彼らの元へと歩み寄っていく。そして、2人の前でしゃがんだシアノはしっかりと宦官の目を見つめた。

「自分が2人に触れている間は息を止めて、手を離したら深く息を吸う。それだけ。……痛みも苦しみも味合わせないから。」

『触摸它们时屏住呼吸,放手时深呼吸。就是这样。因为我不会尝到任何痛苦或磨难的滋味。』

樊凌を通じてシアノの言葉を理解した2人は嬉しそうに微笑んだ。そして、理解したことを伝えるためしっかりと頷いた。

『最后,请告诉我你的名字』

シノちゃん、お名前教えてって」

名前そう言われ、シアノは少し考える。自分はあくまでただの処刑方法でしかない。

「ガスチェンバー

『ガ、ス……?』

けれど、自らの意思を持ち、自らの意思で会話をし、そしてこの姿であるからこそ、夢は叶えられようとしている。
ならば、この瞬間だけは、道具としての械ではなく、意思を持った械として胸を張っていたい。

「シアノ。自分の名前はシアノ。」

自身の存在証明をするように、彼は初めてはっきりと名前を名乗った。

樊凌、ありがとうございます。あとは、任せてください。」
我明白。よろしくな、シノちゃん」

シアノは樊凌が宮殿の外に出ていったのを確認し、再び目の前の二人に視線を向けた。
皇太子の息はすでに浅く、彼の命が尽きる時が近づいていることを、シアノは静かに感じ取った。
そっと、シアノが彼の額に手を当てると、ひんやりと冷たいその手が心地よいのか、皇太子の顔はわずかに穏やかさを帯び、痛みに歪むことなく安らかな表情を浮かべた。

『シ、アノ』
名前を呼ばれ、シアノは驚いて顔を上げる。
その瞬間、目の前の宦官と視線が交わった。彼の目には、今まさに死を迎える者とは思えないほどの穏やかな光が宿っていた。
宦官の微笑みに、シアノは皇太子に触れていた手を静かに離す。

我一直深深地爱慕着您

宦官は愛おしそうに愛を囁く。皇太子は彼の言葉にゆっくりと頷いた。

それが彼らの別れの挨拶だと理解していたシアノは、ゆっくりとマスクを外した。

その顔には、幾つもの小さな円形の痣が浮かんでいた。痣はまるで、苦しみや絶望の中で吐き出された泡のように見えた。

窒息した人間の青白い顔。

一切の光を通さない真っ黒な瞳。

そして、泡を吐いているような口元の痣。

それらはガスチェンバーでもがき苦しみながら死んで行った囚人達の死に顔と酷似していた。

シアノは深く息を吸い込み、胸いっぱいに新鮮な空気を取り込んだ。その清々しい感覚に心が少しだけ軽くなる。

穏やかな表情を浮かべたまま、シアノは静かに息を止めた。

そして彼の手がゆっくりと二人の手に触れる。

その合図を受け、二人は顔を見合わせ、ゆっくりと息を止めた。最期の瞬間まで、彼らは微笑みながら互いを愛おしげに見つめ合っていた。二人の顔は、まるで最後の瞬間を共有するかのように、鼻が触れそうなほど近づいていた。

_この距離なら、二人を同時に葬ることができる。

シアノは二人の顔にさらに近づき、その表情をじっと見つめた。
恐怖の色は一切感じられない。むしろ、死後の世界へと向かうその静かな旅立ちを、彼らは穏やかな微笑みとともに迎えているようだった。

その目には、今すぐにでも死を受け入れ、安らかな場所へと進んでいく覚悟が感じられた。

その表情にシアノは心の中でそっと微笑みを浮かべ、深い息を吐き出した。
息が空気を揺らし、不思議な香りがその場に広がる。

シアノは二人に触れていたその手を離した。

「おやすみ、いい夢を。」

その言葉が、二人に向けられた最後の言葉だった。


その言葉と共にシアノの吐息を吸い込んだ二人の体から、力がスッと抜け落ちた。目を瞬きさせる暇もないほどの一瞬だった。痙攣すら見せず、顔色を変えることもなく、まるで深い眠りに落ちたように、静かに倒れた。

シアノはその死体の頬にそっと手を触れ、じっとその顔を覗き込む。手のひらに残る熱が、まだ生きていた証のように伝わってくる。だが、目の前の二人の顔は、まるで眠っているかのように穏やかで、決して苦しんでいる様子は見当たらない。

シアノは膝をつき、二人の体を抱きしめた。強く、しかし優しく。彼らの体温を感じながら、その感触をしっかりと噛み締めるように。その白い背中はひときわ大きく見えた。



数分後、夕日が西の空に沈みかけ、オレンジ色の空が次第に紫に染まりつつあった。カラベラフィルムは外でシアノが出てくるのを待っていたが、全く気配が感じられない。

?シアノ殿?」

不安になったカラベラフィルムは宮殿の中に足を踏み入れ、静かにその光景を目の当たりにする。二人が抱き合ったまま動かず、その前に座り込むシアノの背中が見えた。異様な静けさに戸惑いながら、彼は一歩一歩、シアノに近づいていく。

そして、シアノの背後に立ち、動かない2人を見つめた。

?」

目の前の二人の表情に、違和感を覚えた。彼らの顔は死んでいるとは思えないほど穏やかで、眠っているかのように安らかな表情を浮かべている。

シアノ殿、彼らを殺さなかったのか?」

カラベラフィルムは静かに問いかけた。彼の声に、どこか不安がこもっている。

「殺さなかったって?」

シアノは少し首をかしげ、冷静に返す。

彼らは死んでいるようには見えない。心中をやめさせるために、ただ眠らせただけではないのか?」

一瞬の沈黙が続く。シアノは何も答えない。カラベラフィルムは彼の顔を見ようとするが、その顔は見えない位置にあった。

シアノは前を向いたまま、赤い聴診器を差し出した。カラベラフィルムは首を傾げつつ、それを手に取る。その瞬間、シアノが突然笑い出した。

「っくふっっはは!聴診器なんかで聞かなくても、ちゃんと死んでるよ。まさか、本当に聴診器を取ろうとするとはっははっ」



その笑い声が、彼にとって初めて耳にするもので、カラベラフィルムは驚きと共に目を見開く。彼はそのまま、聴診器を握ったまま固まる。そしてシアノは、目の前の静かな彼をおいて、軽やかな足取りで立ち上がり、振り向く。
その顔を見てカラベラフィルムは目を見開いた。彼ですらシアノの素顔を見たことがなかったのだ。

「っ、その痣は
「こんなのどうでもいい!それよりこの綺麗な死に顔!」

シアノは、玉座の背後に回り込んだ。そして二人の頬を撫でながら、無垢な笑みを浮かべた。よく見ると、二人の手は見覚えのある青いベルトで繋がれていた。

「眠っているような、苦しみも何も無い、幸せそうなこの顔やっとやっと見れたんだ

シアノは、心から望んでいた。自分が葬った命の、眠っているような、そして穏やかな死に顔を見たいと。

ガスチェンバーでの処刑は、囚人が生きようとすればするほどもがき苦しむものだった。彼がこれまで見てきた死刑囚たちは皆、苦痛で歪んだ顔をしていた。

シアノはガス室処刑が最もに優れたものだと思っていた。しかし、それでも死刑囚たちは苦しみから逃れようとする。シアノには、その無駄な行為が理解できなかった。ただ、自分は人々に苦しまないでほしいだけなのに。人間はどうして、苦しみを選んでしまうのか。ただ、息をするだけで死ぬ事ができるのに。

どうしても、自分は”彼”を越えられなかった。



「カフィ、今の自分は善悪どっち?」

カラベラフィルムはシアノのその問に答えるのを躊躇した。
その言葉は親友である自分に存在意義優しい人殺し、を理解して欲しいという思いが隠されているように感じたのだ。

(善か悪か……)

それはカラベラフィルム自身ですら分からない。
しばらく沈黙の後、彼は答えた。

罪は罪だ。」

シアノは彼のその答えに笑った。

「っはは、そうか。まぁ、有罪も無罪も善も悪もどうでもいいんだけど

どんな反応をされるか心配していたカラベラフィルムの予想とは裏腹に、シアノはその答えをあっさりと受け入れる。
そして、玉座の階段を降りて彼に近づき、軽く肩を叩いた。

「カフィの善悪の基準は自分には分からない。ただ、今の自分の行動が彼らの救いだったって胸を張れるから、何を言われても気にしない。」
「ならどうして聞いたんだ?」

カラベラフィルムは心の中で答えを探しながら問いかける。
彼の言動の意図がわからなかった。

シアノは怪訝な顔をしたカラベラフィルムに軽く笑いながら、少し肩をすくめて答える。

「ただの雑談」

その言葉には、あまりにも無邪気な響きがあった。
またもや予想外の回答をされ唖然とするカラベラフィルムにシアノは続ける。

「言ったでしょ、どうでもいいって。そもそもどっちでもないと思ってるし。というか変に同調されても困る。カフィの能力ならやろうと思えば同じこと出来そうだし、そうなったら面潰れだ。自分は綺麗な死に顔が見れたらそれでいい。それを否定されても見る目がないなとしか思わないし。」

突然饒舌になったシアノにカラベラフィルムは驚いたように目を見開いた。
そう話す彼の表情はどこか楽しそうに見える。

っふ、おかしなシアノ殿だ

そんなシアノの様子にカラベラフィルムは思わず笑みをこぼした。
シアノの行動が本当に善だったのか、それともただの自己満足言わば悪に過ぎなかったのか。そんなことを考えれば考えるほど、答えは出ない。
たとえ彼の行いが悪であったとしても、その悪によって誰かが不幸になることはなかった。

ならば今だけは、素直に彼の喜びを分かちあって良いのでは無いだろうか。
そう考えながら視線を落とした。

その瞬間、ヒュッと喉が鳴った。

目の前に広がる光景は、信じられないもので、シアノは一瞬それが夢であることを強く願った。何度瞬きをしても、何度目を擦っても、目に映るものは変わらない。

「っシ、シアノ殿、指が

カラベラフィルムの声が震えているのを、シアノは感じ取った。急いで自分の手に目を向けると、信じられない光景が広がっていた。指先が、まるで何かに溶けるように気体となり、空気に溶け込まれていく。それはただの視覚的な錯覚ではなく、確かに、目の前で起きている現実だった。

「えっ?」

シアノは急いで胸に手を当てるが、傷など見当たらない。それどころか全身どこにも傷ひとつなかった。心臓の鼓動は正常で体のどこにも異常は感じられない。しかしそれにも関わらず、彼の手が着実に消えていく。

(どうして何が原因で)

その時、シアノの脳裏にふと浮かんだのは白浪が消えた理由だった。核心の破壊でも、伝承でもない。あの時と同じような条件を思い出し何が関係しているのかを必死に探る。

そして、ひとつの仮説が浮かぶ。

まさか」

シアノは冷ややかな笑みを浮かべ嘲笑を漏らす。

ほんと、とんでもない嫌味だ

焦ったところでどうしようもない。
深く息を吐き、胸いっぱいに空気を吸い込むと、心の中がクリアになり、思考が整理されていく。
今は、最適な行動を選ばなければならない。

伝承の時間はまだある。せめて自分の情報を、記憶をカラベラフィルムに伝えなければ。

心の中でその覚悟を決め、隣にいるカラベラフィルムの顔を見る。しかし、彼の表情を見た瞬間、シアノの心は激しく揺れた。

なんて顔して

シアノが呟くように問いかけると、カラベラフィルムは無言で黙り込んだ。彼の目には、恐怖と悲しみ、そして絶望が入り混じった複雑な表情が浮かんでいる。
その顔を見て、シアノは胸が締め付けられるのを感じた。

自分にとって、人の死はあまりにも身近で、恐怖心が湧くことはなかった。

しかし、この目の前にいるカラベラフィルムは違う。
彼にとって、シアノの死は深い恐怖なのだ。

自分が消えたら、残されたカラベラフィルムはどうなるんだろうか。

遺される者が抱える痛み、喪失の苦しみ。それを、今まで考えたことがなかった。

自分が消えたら、記憶だけが残る。それを彼はどう思うのか。

その思いに、シアノの心が少しだけ揺れた。
けれども、残酷にも、最期の時は刻一刻と迫っている。
今、ここで躊躇うわけにはいかない。

シアノは小さく息を吐き、再度カラベラフィルムと目を合わせ、歩み寄る。

その足音が響くたびに、カラベラフィルムは一歩後退し、シアノの進行を避けようとする。

「カフィ、最後の頼み。」

シアノは、これ以上の言葉では伝わらないと感じた。
そして、彼の襟を掴み大きく踏み込んだ。

しかし、その瞬間、突然視界が傾きガクッと体が崩れそうになる。

カラベラフィルムは咄嗟にシアノを支えた。
その腕にかかる負荷は予想以上に軽かい。
恐る恐る、彼の足元を見ると、膝から下が既に消えていた。

その光景に、カラベラフィルムの胸は締めつけられる。
彼は、今この瞬間が、ただの悲劇ではないことを痛感した。
そして、この現実から逃げられないということを。

必死に平静を保とうとしながら、カラベラフィルムはシアノを抱きかかえ、ゆっくりと地面に座り込んだ。

シアノ殿

カラベラフィルムの声は震えている。
それに対してシアノは、いつもの冗談交じりで答える。

別に完全に消える訳じゃありませんよ。誰かさんがちゃんと覚えていてくれたら。」

カラベラフィルムの耳に届くシアノの言葉は、いつものように冗談のように響いたが、その内心には無言の願いがこめられている。シアノの消え行く姿を見て、カラベラフィルムは涙を堪えることができなかった。

そして、親友を失うショックのせいか、それともシアノの毒ガスを吸収しすぎたせいか、カラベラフィルムは能力の制御がうまくできていなかった。

その影響で、彼の体から零れる水滴はまるで小雨のようにシアノの体を濡らしていく。しかし、シアノはそんなことなどもう気にも留めていないようだった。

シアノは無抵抗になったカラベラフィルムに手を伸ばし、その手で彼の頭を引き寄せる。
額と額を合わせる瞬間、シアノは心の中で呟いた。

自分の記憶を、全てをカフィに。

その思いと共に、シアノの記憶が次々とカラベラフィルムの中に流れ込んだ。瞬間、視界がキラキラと眩しく輝く。

シアノの目の前に広がる景色、日々の思い出がまるで自分が体験した記憶のように鮮明に蘇った。

ガス室で処刑された1人の中国人囚人の顔や、引きつった表情の傍観者たち大勢の死刑囚の醜い死に顔死体と共に水で満たされていく感覚。

苦痛の記憶が駆け巡った後、数秒の空白が訪れる。そして次に流れ込んできたのは、械として目覚めた瞬間の記憶だった。

ナーデルに叱られた日のこと、カラベラフィルムの手違いでびしょびしょにされてしまった日のこと、些細な出来事や他と械と交わした言葉や笑い声、すべてがカラベラフィルムの記憶として新しく刻まれていく。

そして最後に、シアノが今まで隠していた「核心」も、カラベラフィルムの中に入り込んでいく。

全ての記憶を受け取ったカラベラフィルムは、ゆっくりと瞳を開け額を離した。

シアノの目は、すでに虚ろで、体は半分以上消えかけている。

(シアノはこんな表情は望んでいない)

彼が見たかったものは、笑顔だった。

カラベラフィルムは、今の自分の表情が彼にとって悲しみを与えるものだと悟った。

シアノ

カラベラフィルムが呼びかけると、シアノはかすかな返事を返す。視界はぼやけ、彼の表情はほとんど読み取れない。
けれどその瞳は確かにカラベラフィルムの顔を見つめていた。

彼らの、顔は私が見てきた死に顔の中でもいちばん綺麗だった。」

カラベラフィルムは潤んだ声で必死に言葉を紡ぐ。

その言葉にシアノは目を見開いた。

そして、どうにか彼の表情を見ようと必死に目を凝らす。

やっと焦点が合い、シアノの瞳にカラベラフィルムの顔が映った。
その顔にシアノは思わず口角を緩める。

カラベラフィルムは、酷く不格好な笑みを浮かべていた。

こんな状況で笑える性格で無いことも、作り笑顔が苦手なことも知っている。
だからこそ、彼が無理をしてまでそんな顔をしたかはすぐに理解出来た。

っはは、下手くそ」



その、何よりも温かく、不格好な笑みに見守られながら、シアノはゆっくりと空気に溶けていった。

何百人もの人間を苦しめた「械」には似つかわしくない、穏やかな最期だった。

シアノとともに、カラベラフィルムの笑みも消え去る。彼の手の中に残ったのは、ただ一片のガラス片だけ。

シアノのガスが混じってしまった体も、まるで何事もなかったかのように、澄んだ水へと戻っていた。

もう彼の存在を証明できるのは自分だけ。

……おやすみ、シアノ。」

カラベラフィルムは、何もない虚空を抱きしめながら、小さく呟いた。