さもゆ
2024-12-10 03:42:48
82844文字
Public 吸死
 

【ヒヨロナ】ロナルドと永遠のきょうだい

弟を亡くした吸血鬼に弟認定されてしまった退治人と、その周囲の話。
※自我と名前のある吸血鬼兄弟と女性がガッツリ出る。話のメインまである
※捏造過多
※ロくんの本名有

2024.9.18 たべものpixiv投稿作品


 八



「ありがとうございます。わざわざ様子を見に来ていただいて」
「いえ。こちらこそ急にすみません。あれから、どうですか?」
「特に問題もなく。スプレーも、申し訳ございませんでした。私がうっかり……
「いえいえ」
 
 約一か月ぶりに足を踏み入れたお堂の中は、変わらず線香のにおいで満たされていた。
 外では鈴虫が鳴いており、ここに来るまでに見かけた田んぼは満月の明かりを浴びて稲穂が黄色く輝いていたし、冷えた風さえ吹いている。ここ、田舎の山からはもうすっかり夏が去ってしまったようだった。
 ロナルドがまたこの寺に来た目的は、自分の仕事の経過観察である。下等吸血鬼の発生は、定期的に見ておかないといつ再発するか分からない。寺には古からの吸血鬼であるタロウもいるし、ロナルドの事務所と一緒でツクモ吸血鬼や吸血野菜化の影響も多いと住職は言っていた。ロナルドが見に来て損はないというわけだ。
「じゃあ、これから巣の調査とかしますね。終わったら呼ぶので、お構いなく」
「お願いいたします。私は隣の庫裏にいますので」
「はい。あの、今日はタロウは?」
……呼んだら出てくると思いますが。呼びましょうか」
「いえ、これからまた薬剤など撒くので、いない方が」
「ロナルドさん」
 住職はロナルドの名を呼び、見つめ、「このひと月。時折都会に遊びに行っていたでしょう。あの吸血鬼」と静かに言った。
「は、」ロナルドは分かりやすく狼狽えたが、「はい」と素直に答えた。
……大丈夫でしたでしょうか」住職が眉を下げる。
「と言うと?」
「いえ、何か粗相をしていないか、心配になって。あなたとの出会いもあんなでしたから」
「大丈夫ですよ」ロナルドは肩の力を抜き、心からそう言った。「何もしていません。シンヨコを見て回って、俺と話をしただけです。大人しいもんでしたよ」
「そうですか。それなら、いいのですが……
 対して住職は浮かない顔のまま、では、よろしくお願いします、と頭を下げてから本堂の外へと出て行った。足音が遠ざかっていくのを耳で確かめ、閉じられた引き戸を見つめながら、ロナルドは口を開こうとして、いやまずはちゃんと仕事だな、と作業を開始した。
 本当に、第一の目的は、先月の経過観察だった。確かに予定よりは早くに訪れ、しかも訪問連絡を今朝するという社会人としてあるまじき暴挙に出たが、寺の住職は快く承諾してくれた。ロナルドには、早急にここに来なければならない第二の目的があって、むしろそっちが本命ではあったが、ロナルドの性格上、仕事をおざなりにすることはできない。
 お堂の中をくまなく調査し、吸血野菜や下等吸血鬼たちの巣や痕跡がないかを確かめ、置き型の薬剤を新しいものに代える。黙々と作業をこなし、また堂内の四隅にスプレーを噴射する段階になって、ロナルドはようやく、先ほど開きかけた口を動かすことができた。
「タロウ」
 スプレーを床に置く。
 返事はない。
 もう一度呼びかけようすると、背後からやはり雷のように轟く低音が降ってきた。

「僕を呼んだか?」

 振り返ると、内陣にある本尊、大きな阿弥陀如来像の肩に座る暗色の吸血鬼がいる。

「ばちあたり」ロナルドはまず顔をしかめて窘めた。「座っちゃいけねえとこだろ、そこ」
「阿弥陀様は生者ならどんな罪でもお赦しくださるんだぜ」
 よ、っと。タロウは軽い身のこなしで床へと飛び、ロナルドの前に降り立つ。「南無阿弥陀仏。この世で最も素敵な言葉だ。唱えりゃ救われるんだから」
……タロウ」
 ロナルドはタロウと対峙する。もちろん彼こそが第二の目的である。今日ここで出会えなければ寺中や山まで探し回ろうと考えていた程度には、重要な目的であった。
 タロウは面持ちを硬くしたロナルドを不思議そうに見つめた。
「よう、こんばんは。小坊主から聞いたぜ、経過観察だって? ご苦労なこった。そう心配しねえでも、うちの小坊主もやれば退治ぐらいできるから放っといてもいいのにさ」
「お前に会いに来たんだ」
 ロナルドが言うと、タロウは僅かに目を見開いたが、ロナルドの顔を見上げたままニヤリと笑って見せた。
「僕に? どうした。えらく真剣な顔して」
……お前に。いくつか、確認したいことがあって……
「いいぜ。何でも答える。座るか? 蝋燭たてたっていいぜ。雰囲気が出る」
 隅に積まれた座布団とその横に立つ置物じみた長い燭台を指差されたが、ロナルドは首を横に振る。「いい。このままで。タロウ」
「何だい」
「赤い目の鬼が出てくるおとぎ話、知ってるか」変に意識するのはやめて放った声はどうしようもなく弱々しく低い。
「たくさんある。どれのことだ?」
「三回名前を唱えたら、災いを起こす鬼が出てくるやつだ」
「ああ、知ってる」タロウは瞬きもせずに言った。「出てくる人間がみんな死んじまう話だろ。それがどうかしたか」
「お前は、その鬼なのか」
「知ってどうする?」
「考える」ロナルドは臆面もなく答えた。「とりあえず真実が知りたい。どうするかは、それから考える」
「ハ」
 鼻で笑いそびれたのか、タロウは歪んだ口端の片側をしかしすぐに引き締める。
「嘘偽りなく答えてやる。その鬼は俺だ」
 ロナルドは咄嗟に何も言えなくなってしまった。赤い両目がひたりとロナルドを見据えたまま、「俺からもふたつ確認したいんだが」とほとんど感情の窺えない顔で続けた。「それは誰が知りたがってることだ? 誰から聞いた?」
 ロナルドに嘘を吐く必要はない。身構える必要も。なのに、なぜかお堂の暗がりや冷えた夜気が足元を這い上がる感覚がして、鳥肌が立つ。まるで構えるようで嫌だったが、ゆっくりと拳を握りしめた。「俺の兄貴だ。……兄貴は、あんたを探してる」
「お前の兄? なぜ」
「吸血鬼対策課の隊長なんだ」
……へえ。それで? 人間にとっちゃ随分昔の事件を引っ張り出してきて、それでお前の兄さんは俺をどうしたいって?」
「悪いやつなら、……捕まえる」
「捕まえる、か」
 なまぬるいな、タロウがぼそりと呟いた。
 その呟きを耳に入れたものの、理解が追いつかず、ロナルドは「タロウ」とそっと名前を呼んだ。「……けど今のお前は、悪いやつじゃ、ないだろ」
 そうなのだ。
 ロナルドにはそう思えて仕方がない。
 そりゃファーストインパクトは危険な吸血鬼だった。ロナルドを軽々と引き倒し、銃剣の切っ先を突きつけてきたあの時の敵意は紛れもなく本物だった。きっとすぐ死ぬ吸血鬼 ドラルクがいなければ、コメディの枠から外れた夜になっていたことだろう。でも、それだけだ。誰だって自分の領域に、敵対している位置の人間が踏み込んでくれば武器ぐらい構える。タロウは吸血鬼で、ロナルドは退治人なのだから。
「そりゃ、昔は悪いことしてたのかもしんねえけど、今はやってないんだろ。確か言ってたよな、次暴れたら流刑にされるとか。たとえば今が刑期の途中か、執行猶予期間みたいなもんなら、」
……僕が模範囚やってたら、捕まえないって?」
「当然だ。VRCくらいには、呼ばれるかもだけど……
「なあ坊主。なぜその話を僕にする? 端っからその吸対の兄貴と組んで僕をどうにかするつもりだったか?」
「違う!」ロナルドにとって思いもよらない発言に大きな声が出た。「違う。そんなこと。ただ兄貴が、どうしてか赤い目の鬼を探してて……それで俺に協力を」
「見つけたじゃねえか。僕ァここにいる。当の隊長を呼ばず、わざわざお前一人で俺に確認しに来た理由は?」
「だって、」ロナルドは握った拳を解き、「だって嫌だろ」と半ば訴えるように言った。「お前は、弟を亡くしてて、こんな俺に兄と呼ばせるほど参ってて、それなのに捕まるとか、」
「お前は本当に優しいやつだな」
「違う。お前がもし今も悪い奴だとしたら、俺はお前を退治する。兄貴の手を煩わせたりなんかしねえ。だから、確証が欲しい。俺はそのためにひとりで来た」
「俺が悪い吸血鬼かどうかの確証か」首を傾げて見せる。「どう示したら悪い鬼になる?」
「無理やり吸血するとか、あとは、」ドラルクの言葉を思い出す。「俺を本当の弟にするとか」

「なるほどな」
 タロウはニヤリと笑う。
「じゃあそうしようじゃねえか」

「え」
 ふ、と影が迫る。
 そして身構える暇もなく、ロナルドの体が吹っ飛んだ。
 背中から引き戸にぶち当たり、けたたましい音を立てて戸が外れる。その外れた戸と共に倒れることはせず、すぐに体勢を整え重心を利用して後方へ跳んだロナルドは、銃を引き抜き、撃つのをやめた ・・・・・・・。目の前を鋭利な切っ先が掠めたため、更に後ろへと避ける。避けているうちに段差を下り、靴下のままの足裏が玉砂利を踏みしめ痛みを発する。ロナルドは顔をしかめ、次いで振り下ろされた切っ先をしかと掴んだ。
「あぶねえだろ。玩具じゃねえんだぞ」
 本堂の隅に立っていた長い燭台を手にしたタロウが、掴まれた先端を見て、まるで困ったように眉を八の字にした。「あぶねえのはお前だろ。こちとら刺そうとしてんのに」
「本気じゃない」
「そう思うか?」
 玉砂利を踏みしめる裸足の足に力をこめ、タロウはロナルドの手から強引に燭台を引き抜いた。尖った先端が手袋を割き、皮膚にまで及ぶ。ピリリと痛みが走ったが、それでもロナルドは右手に持ったままでいる銃を構えようとはせず、今度は顔に向けて突き出されたのを顎を背けて躱した。耳、肩、腕と狙われるが、全て避けながら「っ、タロウ」と戸惑って声を上げる。「何がしたいんだ。こんな、なんで」
「余裕だな。命張れよ」
「だってお前本気じゃないだろっ」
「分かったよ」タロウは燭台を捨て、ロナルドの顔を鷲掴むと目を合わせた。「跪け」
 ガクッ、ロナルドの膝が勝手に折れた。
 それが催眠の力によるものだと日頃から嫌でも知っているロナルドは、それでも、やはりこの吸血鬼が本気じゃないと思って抗わなかった。地面に両膝をつき、顔を掴んでいた手が顎をすくうままに任せていた。
「このまま噛みついてやろうか」
 冷たい指先が首筋へと滑る。
「血を吸って、僕の毒を注いで、お前を本当の弟にしてやるよ。それか、血を与えて使い魔にしてやってもいーんだぜ」
「冗談でも言うな、そんなこと。捕まりてーのか」
「それじゃ生ぬるいっつってんだろ!」
 タロウが叫んだ。自分でも無意識だったのか、叫んだ後、苦虫を噛み潰したような顔をして押し黙る。ロナルドは薄々気づいていたものの、その意図を完全に理解し泣きそうな心地になって鼻に皺を寄せた。
「じゃあ何だ、おまえ、死にたいのかよ」
……吸血鬼退治人に喧嘩ふっかけるなんざ、それしかねえだろう」
「なくないだろ。畏怖収集とか、経験のためとか、ヤケクソだったりとか、色々あんだろ」
「そりゃ若いやつらの理由だな。僕はな、ロナルド」首筋に走る太い血管を確かめるようになぞり、タロウがロナルドの瞳を見つめて唇を小さく開いた。「もう疲れたんだ。あいつのいないまま移りゆく元号を数えるのは……もういい加減、やめたい」

 タロウは死にたがっている。
 それを改めて言われると、ロナルドにはもう何を訴えても届かない壁がそこに立ち塞がっている気がして、どんな言葉も選べやしなかった。
 どうしてこんなことになったのだろう? 自分はただ、この吸血鬼が今は悪い吸血鬼ではないと証明したかっただけなのに。じゃないと、兄に捕まってしまう。捕まったらどうなる? きっともう二度と、彼の求める弟と会えない。それどころか、ロナルドが退治しなくてはならないのだ。
 不甲斐なさに涙が滲む目で、ただ赤い両目を見つめ続けた。タロウは少しの間ロナルドの視線を目を細めて受け止めていたが、じゃりり、と背後から近づく玉砂利を踏みしめる音を聞き届けると、ロナルドのうなじに手を回して首筋をぐいと晒させた。「さて。転化か使い魔か、どっちがいい?」

「カズマ」

 じゃり、足音が止まる。背後からかかった呼び声は固く、震えていた。
 今宵は雲一つない満月。ロナルドからは、少し離れたところで卒塔婆を槍のように構える住職の姿がよく見えていたが、タロウは振り返って見もせずにその呼びかけに答えた。
「来るのが遅いんじゃねえのか、小坊主。あれだけ派手に戸をぶち破ったんだ、もっと早く気づいて来れるだろ」
「貴様一体何をして」
「ああ、それとも。それ ・・をどこにしまってたか探してたわけじゃあるまいな。うっかりも程々にしろよ。しっかりしろ。代々受け継いできたんだろ」
「黙れ」住職が構える卒塔婆は、月光にきらりと反射する銀製だった。南無阿弥陀仏、片面にはそう記されている。「何をしていると訊いている」
「見りゃ分かんだろ。こいつを噛もうとしてる」ロナルドの首筋に牙を近づける。「卒塔婆に刻む名前は決まったか? 散々候補を挙げてきたんだ、どれかひとつを選んで刻めよ」
 牙が首筋の皮膚に触れる。住職が行動を起こす前に、ロナルドは「待って!」と必死になって叫んだ。「待ってくれ! こんなの茶番だ、タロウは本気じゃない! お願いだから、こんなことやめてくれ!」
 タロウは酷いことをしようとしている。もう疲れたから、弟を探すのは、弟のいない世界で生きるのは疲れたから、悪い鬼を装って、あろうことか子どものころから見守ってきた住職に自分を退治させようとしている。そんなの、許すわけがない。ロナルドの前で、そんなことはさせない。させてはならない。このままでは誰も平穏な夜を迎えられない!
「タロウ。頼むから考え直せ。何で今になって、」
 頬に当たる黒髪に向かって囁くと、頭を上げたタロウが「今になって?」とロナルドを苦し気に睨んだ。
「今に始まった話じゃねえさ。五百年だぞ! 五百年ずっと、あいつを思って生きてきた! だってあいつは俺の名前を呼ばなかったんだ!」
「カズマ、」
「散々ッぱら言ってきた、何かあったら俺の名を呼べ、助けて欲しいとき、どうにもならなくなった時、俺の名前を三度唱えろ! そうしたら俺が必ず助けてやる! そう言ってきたのに、あいつは……! 俺の名を、唱えなかった。その理由を正しく理解できねえほど、俺は愚兄じゃない。あいつは俺を本物の鬼にしたくなかったんだ。優しい、やつだったから」
……じゃあ、どうして、」たくさんの村人を殺してしまったのか、そんなこと、訊けるはずもなかった。大事なひとを失った気持ちに、これ以上の理詰めなど酷なことだ。
 タロウは笑った。全く、希望に満ちた笑みだった。
「物事にはなんにでも、機ってもんがある。俺にも今夜ようやく、それが巡ってきた。五百年のうのうと生きてきた甲斐があったぜ。全ては今夜のためにあったらしい」
「間違ってる」
「間違ってねえ。俺は能力の関係で自死できなくてね。吸対と退治人、それに寺の坊さん。役者は揃った。あとは鬼が暴れるだけだ」
 そうして牙を剥く。
 ロナルドのうなじを再び掴み、ゾッとするほど冷たい牙が首筋に食い込んでも、ロナルドは動けなかった。催眠で従わされたのは足だけで、本当は両腕に拘束などされていないのに、ロナルドは銃を持つ手を上げることができなかった。
……ッい、」
 皮膚が破れ血が溢れる。じゅ、と吸いつかれる音を耳の間近で聞くのはそれなりにおぞましい。
 痛みと不快に滲んだ視界、銀色に光る卒塔婆を苦痛の形相で振りかぶる住職の姿を捉え、ロナルドはそこでやっと全身全霊の力を持ってタロウを張り飛ばした。
「ッ、ロナルドさん!」
「俺は平気です! 大丈夫、あなたにそんなことさせな──」
「いつまで茶番やってんだ、お人好し坊主ども」すぐさま体勢を立て直したタロウが赤い目を光らせ、「二人とも動くな!」と一言命じる。
 それだけで、ぴたり、ロナルドと住職の体がまんじりとも動かなくなる。今度は、手もだった。ロナルドの本能がとうとう危険信号を点滅させ、目の奥が熱くなり、頭の片隅はやけに冷静にさせてくる。近づいてくるタロウのどこを撃てば沈黙するか、退治人業の経験から勝手に算出して、動かすことのできない腕の筋肉を痙攣させている。ダメだ。嫌だ。そんなことしたくない。
 タロウは本気だ。本気で自分を殺させるために、ロナルドを害そうとしている。
「カズマ! たとえ念仏を唱えようが、それ以上の冒涜は赦されんぞ!」
「唱えやしねえよ」住職の悲鳴じみた制止に血のついた牙で笑い、ロナルドへと腕を伸ばし、顔に手を当て、目許を指先でなぞった。「どうせ俺は極楽や輪廻の輪にも行けやしねえんだから」
「タロウ、」
「最後にまた、兄さんと呼んでくれよ」
「っ、いやだ。俺は、おまえの弟じゃな──」舌が戸惑う。赤い目と繋がった視線から脳神経へと干渉する、人知を超えた力がロナルドの口を勝手に動かす。「──に、いさん。……兄さん」
「まだ答えてもらってねえ。転化か使い魔、どっちがいい?」
……俺をあんたのおとうとにして」
「いいぜ」
 そして血が流れる首筋に再び噛みつかれた感触は薄かった。宥めるためか、指先が耳のあたりを押さえ、ピアスをくすぐる。
 催眠にかかった思考が、ぼんやり、ああやっぱり、この吸血鬼は悪くない、と考える。転化の仕組みを詳しくは知らないが、タロウはただロナルドの血をやんわり飲んでいるだけだ。これだけでは人間から吸血鬼へと変貌は遂げないだろう。ただし傍から見れば、どちらかは分からない。住職の目からしたら、タロウが本当にロナルドを転化させようと無体を働いているふうに映ってしまう。
 ロナルドが抵抗できないぐらい血を吸ったら、住職の催眠を解き、そして自分を退治させる──タロウの計画を正しく悟ったロナルドは「やめろ、兄さん」と何とか零した。一度意識の内側から言葉が出ると、あとはもう、がむしゃらだった。
「おれ、あんたの弟になる。なるから。兄さんって、いつでも呼んでやるから、だからお願い、こんな悲しいことは……嫌だよ。兄さん、兄さん、にいさ……

「誰の弟になるじゃと?」

 ぱちり。
 ロナルドは瞬く。牙が離れる。
 状況を把握するよりも、振り返ったタロウが誰かに殴り飛ばされた方が早かった。
 タロウの小柄な体が横に吹っ飛び、地面に激突する。
 ただの視覚情報としてそれを目撃したロナルドは、続いて、起き上がったタロウの胸倉を掴んで頬をもう一発殴ったその袖が白くて、飛んだ血が目立ってしまうという感想を抱き、「ヒエッ」と一気に理解した状況に悲鳴を上げた。
 白い制服。
 吸対の隊服。
 髪も白い。お揃いのピアス。ロナルドより低い声。間違えるわけがない。
 ロナルドの兄、ヒヨシが目の前にいる。
 ヒヨシはタロウをそうやって二発殴り地面にぶっ飛ばしたあと、へたり込んだロナルドにゆっくりと歩み寄り、ロナルドの持つ銃にのみ視線を注いだ。
「借りるぞ」
 と極めて静かに言われる。自分の力の入らない手から銃が抜き取られていく。
 それを呆然と見送ったロナルドは、銃口がタロウに向いた瞬間、弾かれたように兄の腕へと飛びついていた。
「だ、だめ! お願いやめて、死んじゃうよ!」
 ヒヨシがどうしてここにとか、そんなのは後でいい。今最も厄介な現実として、銃には銀弾を装填してある。タロウが真実、悪党だった場合に、お見舞いしてやろうと思っていた弾丸だ。こんな唐突に、話もせず、ヒヨシにタロウを殺させたくはない。
「た、隊長さん! 誤解なんだ! あいつはそんな昔程のワルじゃなくって、信じてくれ!」
「吸血鬼の肩ァ持つんか、ロナルド」
 ロナルドの尊敬するいちばんの兄が、真っ直ぐタロウへと狙いを定めたまま地を這う声でそう言うものだから、ロナルドはびくりと震えて「ち、ちが、」と途端に涙を滲ませながら言い募った。
「ちがう、おれは、そんなつもりじゃ……だ、だってそいつ、ただ弟に会いたくて、それで俺を、俺なんかを代わりにするくらい、さびしくて、だからおれ、兄さんて呼ぶぐらい、」
 ぴくり、ヒヨシの目尻が痙攣する。「……おみゃあの兄貴は俺じゃろうが」
「た、たいちょうさ、」
「おみゃあのッ兄貴は! この俺じゃろうがッ!」
 ヒヨシが、取り縋るロナルドの胸倉を掴んで叫んだ。
 かちあった青い瞳には、生まれて初めて見る途轍もない怒りが煮え滾っていて、ロナルドはほとんどびっくりして涙を溢れさせた。
「おまえがこの世で一番初めに呼んだんじゃ! 俺を、にーにと、おまえが……!! ほかの誰でもにゃあ、お前が俺を一番の兄貴にしてくれたのに、お前がそれを無かったことにするんか!!」
「う、え、あ、あに、」
「絶対に許さん」
「へ」
 掴んだ胸倉を引き寄せ、ロナルドの頭を強引に抱き込む。そしてタロウに向かって大気を震わせるほど声を荒げた。
「こいつは、俺のじゃ! 俺のいっちばん大事な弟じゃ!! 貴様なんぞにやるものか!!!」
「に、にーちゃ、」
「必ず心臓ぶち抜いてやる」ロナルドの頭を抱え込んだ手とは反対の手を再び持ち上げ、引き金に指をかける。「心臓ぶち抜いて、木の下に吊るして、お天道様に晒してやる。念仏を唱える準備はできとるな」
「に、にーにっ、」
 兄が何か怖いことをしようとしている!
「やだ、おねがいやめて……!」
 
「お待ちください!!」

 その時知らない声が響き渡った。
 声と共にヒヨシとタロウの間に飛び出してきた人物は、ロナルドの知らない男だった。
 白髪にしては輝きをもつ髪と、病的なほど白い肌、瞳は両目とも薄青い。人間か吸血鬼か、ダンピールか、耳と牙は尖っている男は、タロウの前に膝をつくと、ヒヨシに向かってその牙の覗く口を開いた。
「どうか、お待ちください。このひとが、この吸血鬼こそがわたくしの兄でございます。兄の悪行は、あなたの弟君を見れば重々お察しするところではございますが、どうか、これを最後のお情けと思い、僅かばかり、話をする時間をいただけないでしょうか……

「は」

 と零したのはタロウか、ロナルドか。
 ズガンッ、凄まじい音がした方を振り向けば、住職も呆然とこちらの様子を窺い、銀の卒塔婆を取り落としている。
「ひ、ヒヨシさん」
 今度聞こえた声は鈴を転がすような女性のものだった。そちらを見れば、同じく吸血鬼かダンピールか判断つかない女性と、なぜかその隣に正真正銘の吸血鬼ドラルクが佇んでいる。頭の上にはジョンもいる。
 白髪の男性と、若い女性、おまけにジョンの懇願する瞳を向けられたヒヨシは、最後にロナルドの涙に濡れた顔に目をやり、やがて肺いっぱいの溜め息を吐き出すと、渋々、銃を下ろした。ロナルドの頭を柔らかく叩く。
「あー……、悪どいお奉行やりに来たわけじゃにゃあ。すまんかった、つい。取り乱して。時間ならどうぞ、まだ夜は長い。……ただしそばで見守らせてもらいますが」
「ありがとうございます」

 ヒヨシに向けて深く頭を下げ、タロウと向き直った白髪の男性の手は、酷く震えていた。

「あにき」ロナルドはそっと自分の兄に訊ねた。「なにがどうなってるの」
「説明する」ヒヨシはロナルドの抱き込んだ頭を離さず、つむじに落とすように言った。「全部な。よく聞いとれよ、ロナルド。おみゃあは俺の弟なんじゃからな」