柚子子
2024-12-08 21:20:09
61099文字
Public ベリーベリー
 
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記憶喪失の話(+8)

爆豪長編『ベリーベリー』の番外編。本編最終話および掲載済の他番外編のネタバレを含みます。

 しかし、俺の怒鳴り声を意に介した様子もなく、苗字はこほんとひとつ、咳払いをする。どうやらこの話にはまだ続きがあるらしい。
 言いたいことは山ほどあったが、とにかく今は聞き役に徹するしかなかった。
「とにかく、だよ。一度そんなふうに考え始めちゃうと、いろんなことが気になってきちゃって。こんな私が勝己くんからの優しさをただ享受しているだけなのって、なんだかものすごく恩知らずだよなって気持ちにまでなってきて」
「ほーぉ……?」
「それでまあ、勝己くんに対して好きだなって気持ちは、やっぱりまったくないままなんだけど、共同生活を送る同居人としてのギブアンドテイクというか、返せるものは返しておいた方が、今後のこと考えると後腐れなくて良さそうだな、と思って」
…………
「記憶が戻ったあとの私が、どういう人間に戻るのかは分かんないけど、……貸しをたくさん作ったままにしておくのは、もとの私のためにならないかなと」
「夫婦間かつ緊急事態で、そんな無味乾燥すぎる思考をするやつァいねンだよ」
「私の言いたいことは、大体そんなところです」
 突っ込みどころ満載の、というより突っ込みどころしかない苗字の話が、ようやくこれで片付いた。
 ひとつひとつ突っ込んで、苗字の首根っこを捕まえて揺さぶってやりたい気持ちは、当然ある。そうしてやりたいのはやまやまだ。が、今の話を聞いた俺の頭には、そういう目先の欲求よりも先に立つ、ひとつの思考が立ち上がっていた。
 何ということはない。
 記憶を失っても、こいつはとことん苗字だった。俺のよく知る、根暗女そのものだ。
 胸のうちに、悔しさともむかつきともつかない、しかしけして嫌な気分ではない感情が、こんこんと静かに湧き上がってくる。頭はひどく冷静で、しかし冷えきってはいなかった。
 そうだ、中学時代の俺を知らなかろうが、そんなことは根暗には一切、まったく、微塵も関係ないのだ。優しいだけの男に甘えてなつく精神性を、そもそもこいつは持っていない。優しくしてくれるだけの男なんか、こいつが好きになるはずがなかった。
 こっちがどれだけ振り回して、ぶん回して、どつきまくっても平然としている。同じだけの勢いで、こちらを否応なしに引きずりまわす。
 こいつはたしかに、そういう女だった。出会いからのすべてをやり直したところで、意味なんかあるはずがない。こっちが優しくしてみたところで、その優しさを無下にするのが根暗なのだ。
 考えてみれば、そんなことは分かり切っていたことだった。俺がそれで、何度苦渋を舐めさせられてきたことか。
 優しいだけの退屈な時間なんて、付き合っているあいだの俺たちには、一度だってありはしなかった。表面上静かな時間はいつだって、潜在的に大波をはらんでいた。
 結婚して、これでようやく落ち着いた。そう思えるくらい、俺たちはずっと、別れている八年間ですら、互いに相手を振り回し続けてきた。
 怒鳴って、貶して、舌打ちして。
 そうして完成した不格好な俺の気持ちを、勝手に汲んだり汲まなかったりするのが、苗字なのだった。
 生意気言って、口答えして、一方的に会話を打ち切って。
 そういう苗字のカス対応に、引いたり引かなかったり、膝詰めしたりするのが、俺だった。
 俺と苗字の関係は、ずっと中学時代の延長をやり続けているようなものだ。形を何度か変えながらも、その根っこの部分はずっと変わらない。
 変わらない根っこを無理やり捻じ曲げようとすれば、遅かれ早かれ行き詰まるのなんか、当たり前のことだ。これだけ大きく育った関係の根っこを無視して、まったく新しいものに挿げ替える──やり直すことなんて、できるはずがなかったんだ。
 それだけのことに気付くのに、えらく面倒な手順を踏んでしまった。
 目の前には、言いたいことを言いきって、でかい顔をしている苗字。自分は言うべきことを言ったから、あとは俺がどうにかしろという、そういう態度のでかさが態度と表情からにじみ出ている。つくづく神経が太い。
 しかし、なるほど。そのドヤ顔を見て、俺もようやく肝を据える決心が着いた。そっちがその気なら、こっちも打ち返すまでだ。
 様子見のつもりだった初球を、こいつは見事に打ち返してきやがった。ならば今度は、こちらの番。
 要約と、解釈。上等だ。苗字の愚にもつかないカス発言を、最大限うまいこと換言してやろうじゃねえか。
 俺は指先でテーブルをひとつ叩いてから、対話を再開した。
「要するに、だ。おまえは、この俺がとことん優しくしてやってるにもかかわらず? 事もあろうにそのことに不満を抱き? あまつさえ、こんなクソつまんねえ男と夫婦になるとかありえねえ、もとの自分はクソほど男の趣味が悪いが、これも数日のことだと我慢して、同居人としての義務程度は果たしておくか、と思い、そのあたりを落とし所にしたと……、そういうことか」
「そういう要約のされ方をすると、私がものすごくカスみたいなんだけど」
「大きく間違っちゃいねえだろうが」
「最大限悪く要約したって感じ……
「そりゃおまえの原文の質が低いからだ」
 ハン、と鼻を鳴らして苗字の不満を一蹴する。ここんところ苗字相手にはかなり気を遣った物言いをしていたためか、久しぶりに普段通りの話し方をしていると、それだけで気が晴れるような気がした。
 気分がよくなるのを感じながら、俺は言葉を継ぐ。
「そこまで言うなら、正直に話してやるけどな……。いいか? 好きだのなんだのの話はひとまず置いておくとして、ひとつだけ教えといてやる」
 俺の前置きに、苗字がごくりと息をのんだ。そうだ、もっとビビッて緊張感を持て。そっちが「好きじゃないかも」と来るのなら、こっちにだって考えがある。
「まずそもそも、おまえは元から、別に役に立つ人間じゃねえ」
……ん?」
「同居人としてどうこう、貸しがどうこう言っちゃいるが、もとのお前も大概ポンコツだわ。役に立たねえことが分かってるから、端から俺ァおまえを戦力としてカウントしてねえ。よって、おまえが記憶喪失で役たたずの置物と化していたところで、別になんら問題はねえ。むしろ前より減らず口が少なくなって都合がいい」
「えぇ……? ちょっと……
「えぇ、じゃねえ。事実だろ。だから役に立とうとか、そういう殊勝なこと考えるだけムダ。一切、万事、すべてがムダだ。今すぐその思考を窓から投げ捨てろ」
「ひ、ひど……
 さすがに苗字が絶句する。これまでの記憶がないのだから当然だ。昨日まで優しいだけの退屈人間だった俺から、ここまでめっためたに言われるなんざ、まさか思いもしなかっただろう。
 ショックを受けているだろうか、とは思うものの省みてやるつもりはない。そっちが先に、上っ面の優しさを突き返したのだ。だったらこちらも、そのオーダーを呑んでやるまで。
 とはいえ、言い返すだけ言い返して、こちらもずいぶんすっきりした。まだびっくりしている苗字のアホ面をとくと眺め、俺は悪態を吐いた。
「こっちがちっと優しくしてやりゃ図に乗りやがって。なんだ、『なんか違う』って。どういう了見だっつーんだ、ったく……
「だから、それは、」
「うるせえ」
 何か言いかけた苗字を制して、俺は続けた。
「どうせおまえにぐだぐだ考えんな、っつっても無理だろ。おまえ、ぐだぐだ考えるために生きてるようなもんだしな」
「どういう人生……?」
「だからまあ、ぐだぐだ考えんのは勝手にすりゃいい。俺のこと好きでもなんでもねえなら、それもそれでどうでもいい」
……いいの?」
「好きでもねえもん、無理に好きになれっつったって無理だろ」
 そもそもガキの頃だって、面倒なあれこれを経なければ恋愛にならなかったのだ。結婚しているという土台があるとはいえ、数日ぽっちの付き合いで好かれようなんて、その方がよほど無理な話だった。そんなことにすら気付かなかったのは、俺も苗字が記憶喪失になって気が動転していたんだろう。
「どのみち数日経ちゃ、俺にべた惚れの苗字に戻んだろ。だったらもう、どうでもいいわ」
 話はこれで終わり、とばかりに、俺は話題を切り上げた。べた惚れ云々は、まあ若干話を盛った感がしなくもなかったが、そこまで大きく間違っているわけじゃないだろう。苗字はなんだかんだで、この俺のことが好きらしいのだから。
 苗字はまだ何か言いたそうにしていたが、言うか言うまいか悩んだすえに、けっきょく何も言わないことに決めたらしい。口をつぐむと、すっかり冷えてしまった夕飯をふたたび口に運び始めた。
 温めなおしてきてやろうかとも思ったが、俺も俺でそれなりに疲れている。面倒くさいことをするのはやめて、俺はテーブルの向こうの苗字がもそもそと夕食を食べ進める姿を、ぼんやりと見るともなく眺めていた。
 と、苗字がふと視線を上げて、俺に問う。
「というか、勝己くんって、私のこと旧姓で呼んでるの?」
「あ? ああ、そういやここんとこ呼んでなかったか」
 言われるまで、気が付きもしなかった。そういえば記憶喪失になった苗字に、わざわざ名前で呼びかけたりはしていなかったか。
 もともと普段からあまり呼ばないうえに、この数日はずっと二人きりだった。二人しかいないときに、名前を呼ばなければならないシーンは少ない。
「おまえに合わせて下の名前呼んでやろうか」
 試しにそう聞いてやれば、なぜか口をとがらせて顔をしかめる。
「ううん、苗字のままでいいよ。その方が、なんかしっくり来るから」
「ハッ、物好き」

 ともあれ、そんなこんなで苗字とのぎこちない距離感も元に戻り、俺と苗字はふたたび記憶がないなりに適当な距離感に落ち着いた。
 夜、寝支度を整えた苗字は、ソファーに寝床をこしらえていた俺のところに寄ってくると、やたらと気合いの入った顔をして、
「勝己くん、今日こそ一緒にベッドで寝よう」
 そんなバカげたことをのたまった。
 俺は毛布を整えていた手を止め、苗字の方を見る。気合い十分の顔つきをしちゃいるが、苗字の顔には恥じらいやら照れやら、そういった分かりやすい下心は、まったく、一分も浮かんでいない。
 そもそもこいつは今、俺に対して一切の恋愛感情を持っていないのだ。まさか夫婦らしいから、と義理だけで身体を許すようなタイプでもない。
 それでも、一応は聞いておく。
……誘ってんのか? おまえ、俺のこと好きでもなんでもねえんじゃねえの」
「一緒に寝るからって、別になんかする必要はないでしょ」
「一緒に寝るけど手は出すなってか」
「いつも通りに過ごしてほしいんだよ。もとの私としてたみたいに」
 苗字の言葉に、俺は思わず舌打ちをした。
 いつも通りにしてほしい──そう言われると、苗字のまあまあ際どい要求にも、一定の妥当性を認めざるを得ない。何せ俺は数時間前に、ここ数日の振る舞いが間違いだったと認め、方針を百八十度転換したばかりだ。
 すなわち、特別なことはせず、普段通りに苗字に接する。その方が、俺にとっても苗字にとっても気楽だし、引いては苗字の心を安らかに保つことに繋がるからだ。
 しかし、だからといって、一緒に寝るというのはさすがにどうなんだ。俺はともかく、こいつにとってはそれなりの問題行動にあたらないんだろうか。それとも、俺が絶対に変な気を起こすはずがないと、ゲロほど甘く見ているか。
「好きではねえけど、信用はしてるってか?」
 試しにそう尋ねると、苗字は苦いものを舐めたように顔を顰める。
「引っ張るね、その好きでもないって話」
「そりゃ引っ張るだろ。何様だおまえはって話だわ。こっちは死ぬほどはらわた煮えくり返ってんだよ」
「なんでも言っていいって言ったのは勝己くんじゃん」
「なんでもとまでは言ってねえ」
「うわ、そういうみみっちいこと言うんだ……
「おい、表出ろ」
「嫌だ、布団に入る」
「入るな。一生ベッド使うな」
 こうしていると、記憶がないなんて嘘なんではないかと思えるほど、慣れ親しんだテンポで話が進んでいく。正直に言えば、苗字の精巧な偽物と会話をしているようで、これはこれであまり気分がいいものではないのだが、まあお互いにストレスフルな状態で上っ面の付き合いをしているよりはましだ。そう思うしかない。
 と、苗字が「というかさ」とふたたび口を開く。
「そんなの、信頼は当然してるよ。だって勝己くんは、もとの私が中学のころから知ってて、いいところも嫌なところも分かってて、そのうえでちゃんと大好きになって、結婚したいとまで思えた相手なんだから。それで信用できない人間のはずがないよ」
 そうでしょ、と当たり前のように言う苗字は、多分特別に変わったことを言っているつもりではないのだろう。ただ、いきなりそんな言葉を聞かされるこちらの身にもなれ、と俺は思うし、そういうことを「好きでもなんでもない」と下げまくったあとに言うのは、卑怯なやり口のような気がした。
 溜息をひとつ吐いてから、俺は苗字の肩に手を置き、後ろを向かせる。そのまま背中を小突いて寝室のほうへと追いやってから、
……先に布団行ってろ。寝る準備したら俺も行く」
 むっとしている苗字に向け、そう声をかけた。