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柚子子
2024-12-08 21:20:09
61099文字
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ベリーベリー
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記憶喪失の話(+8)
爆豪長編『ベリーベリー』の番外編。本編最終話および掲載済の他番外編のネタバレを含みます。
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翌日もまた同じようにふたりで過ごした。依然として、
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に記憶が戻りそうな兆候はない。にもかかわらず焦りも慌てもしない姿は、泰然としているようにも見えるし、楽天的にも呑気すぎるようにも見える。
ただ、記憶を失った直後と比べると、
苗字
がひとりで静かに考え込んだり、真剣な顔をして自分の携帯を眺めたりする時間は、多少増えたように思う。
苗字
が俺に、そういう姿を見せないようにしているのも分かるから、余計に目につき気になるのだ。
言いたいことや聞きたいことがあるのなら、変に悩まずこちらに投げてこればいい。そのためにそばに俺がいる。そういうことを、多分こいつは分かっちゃいないんだろう。まるで甲斐性がない扱いをされているようで業腹なことこの上ないが、今の
苗字
にそんなことを言っても仕方がない。
黙っている
苗字
を見ると落ち着かない。やいやいうるさいことを言われていた方が、こちらとしてはずっとましな気分になる。
しかし、それすら
苗字
に直接言えはしない。微妙な噛み合わなさの手触りが俺にはあるのに、軌道修正の方法が分からないまま、時間だけが過ぎてゆくようだった。
その日の午後になってから、
苗字
とふたりで家の近所を少し、歩いて回ることにした。日頃使っているスーパーやらコンビニやらの場所を、
苗字
にひとつずつ教えていく。
もしも明日以降も
苗字
の記憶が戻らなかったとしたら、俺が仕事に出ている日中、
苗字
がひとりで出歩く可能性もある。そう考えると、周辺の地図はある程度伝えておかなければならない。
何もしなくても、数日中には記憶が戻る。
その言葉を信じてこの二日を過ごしてきた。が、ここにきて数日というのは具体的に何日なのか、詳細まで聞かなかったことを、今更のように悔い始めている。
医師の物言いが深刻ではなかったことから、楽観的に、長くて三日程度だろうと高をくくっていた。が、そうこうしているうちに今日で三日目だ。
苗字
には何の変化も見られない。
苗字
の精神状態が日数に影響を与えることは分かっているが、
苗字
は目に見えて取り乱すこともなく、落ち着いて日々を過ごしている。
三日か、五日か、あるいは一週間か。それとももっと長引く可能性もあるのか。そうなったとき、俺は今この
苗字
とどう接していくべきなのか。思いがけず先が見えなくなったことに、俺は情けなくも多少、うろたえていた。
それでもまさか、無様にうろたえている姿など
苗字
に見せるわけにはいかない。表面上はふつうに過ごしつつ、俺は注意深く
苗字
の様子をうかがうことに徹している。
街を歩く
苗字
は、あまり雑談をすることもなく、静かに自分が住む街の様子を見て回っていた。一見して特に変わったところはない。けれど、やはりよそよそしい雰囲気は拭いきれない。
昨日の昼間、一緒に映画を見た後あたりから、
苗字
の言葉数はなんとなしに減っているようだった。その理由がなんなのか、考えてみるものの、これといって思い当たる節はない。
昔一緒に見た映画を見たことで、
苗字
のなかで何か記憶が呼び起されそうになっているのか。楽観的にとらえればそうだが、あまりいい兆候ではないようにも思える。
一昨日よりも昨日、昨日よりも今日、
苗字
がよそよそしくなっているような気がするのは、多分俺の気のせいではない。日に日に心が遠ざかっていくような感覚には、嫌というほど覚えがあった。
高校のとき、
苗字
との別れ話が出る少し前あたり。あのときの空気と、今の空気が嫌な感じに重なり合っている。
むろん、あのときと今とでは状況が違う。あのときは、圧倒的に対話が足りていなかった。というより、俺にも
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にも対話するだけの余裕がなかったというべきか。
気持ちだけは通じていたのに、その気持ちが空回りしてしまった。その結果、心は近いままなのに噛み合わなくなって、離れざるを得なかった。
今は違う。記憶がないとはいえ
苗字
とは結婚していて、物理的な距離だけみれば、いつでも手が届くほどに近い。対話が足りていないというわけでもないだろう。そもそも対話のステージまで辿り着いていない、という問題はあるのかもしれないが、少なくともこちらには対話の準備がある。
それでも、心はだんだん遠ざかっていくように思えた。
苗字
が何を考えているのか、どう感じているのか、それを俺に話さないからだ。今この状況で、すべて打ち明けるよう迫るのが正しいとも思えない。
そんなことを考えながら歩いているうち、一通り回りたかった場所を回り終えた。もともとそれなりに便利な地域に住んでいるので、生活に必要な店や施設を回るだけなら、大して時間はかからない。
「覚えといた方がいいのは、だいたいこんなとこか。あと何か知っておきてえ場所とかあるか」
「いや、ないと思う。いざとなったら、携帯でナビ見るよ」
「いざとなる前に思い出せるのが一番だけどな」
苗字
の頭に手を伸ばす。いつものくせで、撫でるというには少し乱暴な手つきで軽く押さえつけようとして、やめた。今の
苗字
とは、そんな距離感じゃない。
俺の躊躇に気づいたのか、
苗字
は困ったように笑う。その顔を見て、また腹の底がむかついた。
そんな顔が見たいわけじゃねえ。そんな他人に向けるようなクソみてえな顔を、よりによって俺に向けんな。
考えても仕方がないことを考え、胸のうちに暗澹とした気分が広がってくる。今の
苗字
に「他人扱いやめろ」といったところで、土台無理な話だということくらい分かっているはずなんだが。
どちらからともなく、自宅マンションへ向かって歩き始めた。大通りを通っていくので、土地勘のない
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でも、なんとなく方向は分かるものらしい。
苗字
は鈍くさくてとろい人間ではあるものの、方向音痴というわけではない。ときどきこうして一緒に散歩のようなことをすることがあっても、適当にルートを決めるのはいつも
苗字
だった。行きと帰りでまったく同じ道を通らないのに、なぜか最後はうまく家までたどり着く。
苗字
は運動嫌いのくせに、歩くときの勘だけはいいのだ。
近所を歩いて回った帰りの道中、視線の先にコーヒーショップの立て看板が目に入った。最近オープンしたばかりの店で、
苗字
が気になると言っていた店だ。評判もなかなかいいらしい。
その店は、土日は閉店している商売っけのなさのうえ、平日でも閉まるのが早いらしい。
苗字
の普段の生活ではこの店に来るのは難しいようで、そのうち平日に休みが取れたら、といっているうちに、ずるずる今日になっていた。
ふと隣を見ると、
苗字
の視線も俺と同様に、コーヒーショップの立て看板に向いている。
苗字
は真剣な表情で看板をじっと見つめたあと、俺のほうへと顔を向けて尋ねた。
「ここも、ふたりで来たことある店?」
「いや、ねえな。来てえとは言っていた」
「ふうん、そうなんだ
……
」
「寄るか」
せっかく店の前にいるのだから、飲み物くらい飲んで帰ってもいい。一応、最低限の身バレを防ぐ変装はしてきている。だいたい平日の真昼間なのだから、それほど混んでもいないだろう。
俺の問いに、
苗字
は「どうしようかなぁ」と間延びした返事をする。けれど結局、悩んだ末に
苗字
は首を横に振った。
「うーん、せっかくだけど、やめとく」
「いいんかよ。おまえ、平日休み少ねえから、これ逃すとかなり先になるかもしんねえぞ」
「でも、もともとの私が行きたいって言ってた店を、私が先に行っちゃうの、なんか悪い気がするし」
なるほど、
苗字
はもとの自分に義理を立てているらしい。心情として分らなくはないが、合理的ともいえない発想だ。
「もともとも何も、ひとりの人間だろ。ここでおまえが店に入ったとして、その記憶はふつうにもとに戻ったおまえに引き継がれんだから、別に問題ねえんじゃねえの」
「そうだけど、
……
でもやっぱり、やめておく。勝己くんと一緒に来たいと思ってたのは、もとの私だよ」
「
……
おまえがいいなら、俺はかまわねえけど」
「うん、それに今の私には、もったいないよ」
分かるような分からないようなことを言って、
苗字
はふたたび歩き出した。隣をついていく俺に、
「また全部思い出したらにしよう」
そう言った
苗字
の顔は、やはりどこか、他人のものめいて見えた。
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