翌朝、携帯のアラームが鳴るより少し早く、俺は目を覚ました。ソファーの上で身体を起こし、そのままぐっと伸びをする。さすがにベッドで寝たあとに比べれば、身体が多少固まっている感じがする。とはいえ、ひどい寝起きというほどでもない。むしろ目覚めは上々だ。
携帯を手に取り、今日の予定を確認する。昨日のうちに、仕事の調整はあらかたつけておいた。俺がどうしても顔を出さなきゃならないことは、今のところはひとつもない。管轄区のパトロールは、周辺事務所のヒーロー何人かに連絡を入れて、少しずつ肩代わりしてもらっていた。
加えて、知り合い何人かが話を聞きつけ、うちの区内に顔を出してくれることにもなっている。どこから話がもれたんだ、とは思うが、おそらくはミルコあたりだろうと、頭の中であたりを付ける。あるいは苗字の職場に出入りしている、知り合いのヒーローの誰か。
事務所を持たず、あの年になってなお風来坊のようなスタイルをとっているミルコは、こういうときにスポット採用を頼みやすい。職歴で言えば大先輩もいいところだが、付き合いそのものが古いために、さほど気を遣わずに済む。
昨日のうちにミルコには連絡をとってあり、苗字のことも含め、だいたいの状況を説明してあった。苗字絡みの事情といえば、話が通りやすいのもいい。
ソファーから立ち上がり、キッチンに移動する。コーヒーを落としながら朝食の準備をしていると、ドアが開く音がした。
起きてきたか。
音のした方に顔を向ける。キッチンの入口で、スウェット姿のままの苗字が、おずおずとこちらの様子をうかがっていた。苗字の寝癖は毎朝毎朝、そりゃもう見事な芸術性を発揮しているが、今日の寝癖は多少ましだった。多分、どうにか髪だけ撫でつけてきたのだろう。
「あ、ええと……おはよう」
「おー、寝れたか」
「あの、はい、おかげさまで」
そういうわりに、苗字は寝不足の顔をしている。が、そこに突っ込むのはやめにした。いくら苗字の神経が太いとはいえ、記憶喪失初日から、一人ぐうすか呑気に寝こけられるわけがない。
苗字が遠慮がちにこちらに近づいてくる。ぺたぺたと素足がフローリングを歩く音が、フライパンでたまごが焼ける音に重なる。
「それ、朝ごはん?」
「目玉焼き、トースト、サラダ、コーヒー」
「いつもと同じメニュー?」
「大体な。ベーコンかフルーツが、ついたりつかなかったりする」
「この家の朝ごはんって洋食なんだ」
「共働きしてて、朝から和食作る時間なんかねえ」
「それもそうだ」
朝食は先に起きた方がつくることになっていたが、今の苗字は当然そんなルールも忘れている。物の場所が分らず、いちいちもたつく姿を見るのも面倒なので、今日明日は俺がキッチンに立とうと決めていた。
話をしながら、肝心な話題にどう切り込むべきか考える。
しかし俺から何か言うより前に、苗字が先に切り出した。
「あの、ごめんね。まだ何も思い出せてなくて」
「……まあ、一日二日でいきなり全部思い出せるとは思ってねえ」
というより、起きてきてからの会話を考えれば、苗字が何も思い出していないことなど、わざわざ改めて言われるまでもない。俺としては謝ってほしいわけではなく、何か少しでも、かけら程度でも記憶は戻っていないか、あるいは記憶が戻る兆候のようなものはないか、そういった話を期待していた。どうやら、それもなさそうだ。
たまごが焼きあがる。皿に朝食を盛り付け、マグカップにコーヒーをいれる。昨晩と同じように、向かい合ってテーブルについた。
「いただきます」
「ありがたがって残さず食え」
苗字が朝食をぱくつき始めたのを確認してから、テレビをつけた。昨日発生した事件がいくつか、現場映像とともに手短に報道されている。いずれも小粒の事件なので、管轄をまたいで俺が呼び出されることはないだろう。
「今日は勝己くんはどういう予定なの」
苗字がニュースに視線をやりつつ尋ねてくる。
「今日明日の仕事は休みにした。二日ありゃ思い出すまではいかなくても、どうにか生活やってけるように、基盤整えるくれぇのことはできるだろうからな」
「ありがとう、いろいろ考えてくれて」
「てめえが自分で考えられねえんだから、俺が考えるしかねえだろ」
「それもそうか」
困ったように苗字が笑う。普段の苗字ならばここで「言い方ね」くらいは言い返してくるが、目の前の苗字からはそんな気の強さは微塵も感じない。実際、俺におんぶにだっこの状態になっているのだから、言い返しようもないだろう。
……ものの言い方を考える。
昨日散々、自分に言い聞かせたことだ。どうにも面倒くさくてやってらんねえが、緊急事態だ。今回ばかりは仕方ない。
がしがしと頭をかく。苗字はきょとんとした顔をして、俺と目玉焼きを交互に見ていた。
朝食を片づけて朝の身支度を済ませると、苗字が「ねえ、勝己くん」と俺を呼ばわった。ソファーに座った苗字の横に、俺は腰をおろす。昨日よりは多少距離を縮めてみたが、苗字はそのことに気付いている様子もない。
「んだよ」
「あのさ、昨日も少し話してたけど……、この家にもしアルバムとかそういうの、あったら見せてほしいなと思ったんだけど」
苗字の言葉に、俺は「アルバムなぁ……」と、我ながらよく分らない返事をした。
「昨日あのあと、携帯のカメラロールを一通り見たんだけど、私ってあんまり写真とか撮らないタイプなんだね。思ったより写真残ってなかった」
「ほかの女に比べりゃ、なんでも撮るってタイプではねえか」
「けど、卒アルの話を昨日勝己くんしてたし、一応そういうの、あるにはあるんだよね?」
苗字に問われ、俺はついつい表情を険しくした。
「俺もあのあと、物置にしてる部屋をちっとは見たが、多分この家には卒アルはねえ。ババア……いや、うちの親に送れつっといたから、そのうち届くだろ」
「そっか……。それ以外のアルバムとかは?」
「まったくなくはねえが……、たいしたもん残ってねえぞ」
俺が言うと、苗字は意外そうにぱちぱちとまばたきをした。写真にせよ映像にせよ、記録として残っているのはせいぜい、結婚式の写真と、それから結婚パーティーのときの写真、映像くらいだ。俺の携帯になら、それこそ高校時代に撮った写真がまだ残っているが、出せるものといえばそのくらいだろうか。
「俺もおまえも、あんまそういうもん残さねンだよ。この家見てみろ、写真立ての一個もねえだろ」
「それはたしかに、昨日私も思ったけど……。でも、勝己くんと私って、中学の同級生で、高校のときから付き合ってるんでしょ? 昨日勝己くん、そう言ってたよね。そんなに長く付き合ってるなら、それなりにいろいろありそうなものだけど」
問い詰めるように言われ、俺の表情はさらに険しくなる。そうだ、たしかに昨日のあの言い方ならば、苗字がそんなふうに思い込んでも仕方がない。中学で知り合って高校で付き合って、そこから十年ちかく俺たちの関係が続いていると、そう誤認するのも当然だ。
誤認させようと思っていたわけではない。ないが、しかし、なんとなく、一度別れたということを話したくなかった気持ちは、事実俺のなかにあったのかもしれない。
溜息をひとつ吐き出して、俺は苦々しく打ち明けた。
「……高校で付き合って、いっぺん別れた。だから空白期間がかなりある」
「え? あ、そうなんだ」
こちらの苦い心情とはうらはらに、苗字のリアクションはバカみたいに軽い。実感のない恋愛話なんてこんなもんなのだろうが、俺としてはやはり面白くない。
思わずじとりと苗字を睨むが、苗字はどこ吹く風で、何やら考え込んでいるようだった。
「ふうん、そっか。私たちって復縁カップルなんだ……」
「なんだその、もの言いたげな物言いは」
「いや、別に。ただ、長く付き合ってんだなって思ってたから、思ってたのと少し違うなと思っただけ」
むかつく物言いは、記憶がなくなっても健在だ。どうやら苗字の人格の根の部分には、俺を苛立たせる何かが宿っているらしい。
苗字はさっきからしきりに、考え込むように視線を中空に向けている。しばらくそうしていたかと思うと、今度は顔をこちらに向け、
「知り合ったのは中学のときって言ってたよね。何年生のとき?」
なぜか妙に楽しそうに、そんなことを聞いてくる。
「中三。同じクラスんなったのが中三」
「なるほど。でも、同じクラスってだけでいきなり恋にはならないよね? それは何かきっかけがあって、仲良くなって付き合うことになったの?」
「……そういう感じじゃねえな」
「ふうん。じゃあ何か、もとから気になってたとかそういうことなのかなぁ」
苗字の声のトーンは、返事を求めているわけではなく、自分の中で考えをまとめているときの調子だった。話しながら頭のなかをまとめるということを、苗字は会話のなかで結構頻繁にやる。記憶がなくても、そういう癖は変わらないらしい。
「当たらずとも遠からず」
どうせ大して聞いてねえだろうと、適当な返事をする。と、苗字は焦点を俺にあわせて黙ったのち、今度は口角を上げて、にやりと悪戯っぽく笑った。
「やけにぼかすねぇ。もしかして勝己くん、昔の話するの恥ずかしい?」
「恥ずかしいっつーか、どう説明したとこで、どうせうまく伝わんねえよ」
「何それ、どういう複雑ななれそめなの」
「その『なれそめ』って言葉が、もうすでにそぐわねえ」
「全然分かんないよ。勝己くん、ふざけてる?」
「こちとら大まじめだわ」
「じゃあいっそ、全部捏造して考えてみようかな」
突拍子もないことを言い出す苗字。一体何をどうしたらそんな発想になるのか。記憶を取り戻さなければならない過程で、ない記憶を作り出すな。最悪、あった記憶とない記憶が混線して、余計にややこしいことになるだろうが。
しかし俺がそう言うより先に、苗字は勝手に話を始める。
「出会いが中三なのは、さっきの話からして固定なんだよね。同じクラスなのも固定として……。で、勝己くんは多分あんまり女子と仲良くするタイプじゃなさそうだから、何かきっかけがないと仲良くならないと思うんだよね。同じ委員会とか、席が隣とか……」
「クソテンプレ設定のわりにそこそこ良い線いってんのがむかつく」
「本当? じゃあこの路線でいこうかな」
そう言って、苗字は楽しそうに笑う。そんな苗字を見ていると、アホなことしてねえでさっさと思い出せ、とも言い出しにくかった。
昨日病院で苗字を拾ってからというもの、苗字の表情はずっとどこか固いままだ。それも仕方がないことではあるのだろうが、とはいえそれが良い状況であるとは、到底言えない。
こんなアホみたいな妄想を繰り広げるだけでも、それで気が紛れて苗字が楽になるのならば、それはそれで意味があるのかもしれない。少なくとも、心安らかに、という医師からの指示には適っている。
「私と隣の席になった勝己くんが、私が落とした消しゴムを拾ってくれたんだ。どう? それが仲良くなったきっかけ」
「おい。死ぬほど遠のいたぞ」
「うそー、落とした消しゴム始まりの恋、鉄板だと思ったのに」
「おまえの鉄板はどこの世界の鉄板だよ。んな鉄板はねえ。二点」
「何点満点?」
「百」
「逆にどこに二点とれる要素があったのか、そっちのが気になってくる」
そういうわりに苗字は、残念がる様子もまるで見せない。
「おかしいな、このあと勝己くんが私に夢中になったり駆け落ちしようとしたり、泥沼三角関係になったりするはずなのに」
「おまえに創作の才能が皆無だってことは分かった」
「しょうがないよ、私って理系なんでしょ?」
「高二までは文系」
「まあ、文系の人間みんなに創作の才能があるわけじゃないし……」
貶されつつも笑っているあたり、それほど真面目に考えていたわけではないのだろう。席が隣、という設定に一瞬感心しかけた俺の方こそバカみたいじゃねえか、と内心で悪態を吐く。
しかし、こうして話をしてみると、苗字は本当に俺たちのことを何も覚えていないのだと、当たり前のことを実感させられる。
むろん、覚えていないのは俺たちのことに限った話ではないのだが、俺にとって一番の重大事がそれなのだから、この事態を「俺たちのことを覚えていない」と、そう捉えてしまうのは仕方がない。
今の苗字は何も覚えていない。高校の頃のよかったことも悪かったことも、それから、クソみたいだった中学の頃の俺のことすらも。
「爆豪くんのそういうとこ、昔からずっと嫌だった」
一昨日の晩の苗字の言葉が、ふいに脳裏によみがえる。
中学時代の俺のふるまいのカスさについては、自分が一番よく分かっている。自分でも、折に触れて直視してはいたたまれない気分になるくらい、浅はかでガキくせえことばかりしていた。何でもできると思い込んで、図に乗って、本当のところは何も見えちゃいなかった。
出久を相手にしていたときのカスさほどではないにしても、苗字にだって十分、嫌な思いをさせてきた。よくもまあ、そこで縁を切られなかったと思う。
が、縁を切られなかったところで、過去がなくなるわけではない。俺はもちろん苗字だって、あの当時されたことをけして忘れたりはしていない。
普段はけして口に出さないが、苗字のなかにはずっと、中学時代の俺に対する感情がわだかまり、くすぶり続けている。そもそも俺だって、中学時代の苗字との距離感や、最初の付き合い方をそのまま引き摺っている。だからこそ、結婚した今になってもまだ、俺と苗字は「爆豪くん」と「根暗」のままなのだ。
「勝己くん? どうしたの、食べる手止まってるけど」
何も知らない苗字が、不思議そうにこちらを見ている。
今目の前にいる苗字は、中学時代の俺の素行も、俺がこれまで苗字に対してやらかしてきた褒められない行いについても、何も知らずにそこにいる。クソガキの俺を知らず、プロヒーローとしてそれなりのキャリアを持ち、自分の女のために朝っぱらからうまいメシを用意してやるような、そういう俺しか知らないのだ。
今更心根を改めて苗字に優しくしよう、とは思えない。優しくてやりたいとは思っているし、実際それなりに努めてはいるが、それはあくまで中学から続く俺たちの関係において、不自然でない程度の優しさでしかない。
しかし今の苗字になら、正しく優しくしてやれるかもしれなかった。本当の意味で、昔のことをなかったことにはできなくても──少なくとも今の苗字とのあいだなら、なかったことにしておけるのではないか。
あの頃のやり直しが、できるのではないか。
どのみち俺は、苗字を心安らかに過ごさせなければならない。それならば、俺がこれまでできなかった、してこなかった、目に見える形での「優しさ」を苗字に与える大義名分は、十分すぎるほど十分にあるのではないか。
うかがうような苗字の視線を受け止めて、俺はそんなことをつらつらと考え続けていた。
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