柚子子
2024-12-08 21:20:09
61099文字
Public ベリーベリー
 
994881

記憶喪失の話(+8)

爆豪長編『ベリーベリー』の番外編。本編最終話および掲載済の他番外編のネタバレを含みます。

 その日のすべての仕事が終わったのは、夕方を少し過ぎた時刻だった。出久にはああ言ったものの、やはり苗字をひとり自宅に待たせているのが気になるため、現場での仕事が終わったのをきりとして、事務所に戻ることなくそのまま直帰する。
 このあとの夕飯の準備は、昨日のうちにととのえてある。ついでに苗字の昼飯も用意していった。過保護かとも思ったが、こういうときだから仕方ない……そう自分に言い聞かせていたが、出久と会話したことで、今は少し考えが変わっていた。
 昼間の出久との話で、とっ散らかってどうにもならなくなっていた自分の思考回路が、いくらか正常に働きだしたような気がする。やはりこういうねちねちした思考を重ねていくのは、苗字や出久のような人間の得意とするところらしい。結果としては、俺もその恩恵に与ったといえる。
 出久の言ったことが、どの程度まで的を射ているのかは分からない。あいつの言っていることが正しいのかは、結局のところ苗字にしか分からない。
 ただ、出久の持論がそれなりの信憑性を持っていたことは、悔しいことにたしかだと思う。さすが、あいつもそれなりに苗字と付き合ってきた人間だと思わされた。ほどほどの友人という立ち位置だからか、下手をするとこの状況においては俺より出久のほうが、苗字の思考を読み切れている可能性すらある。
 普段の苗字の思考回路は、単純明快で分かりやすさの極致にある。だが、それはあくまで中学時代から俺がよく知る、俺のもんになった苗字のことでしかない。思考の足場を失っている今の苗字が、一体どんなトンデモ思考をするのかは、俺にもいまひとつ予想がつかない。
 予想できないなら、本人の口から聞くしかない。
 実際、それしかねえだろ。
 信号で停車中、首をぐるりと回すと、ごきごきと物騒な音が鳴った。
 腕づくでも追い詰めて、苗字の口を割らせる。最終的には、それが一番手っ取り早く、なおかつ簡単な方法だった。問題は、どのタイミングで、どうやって口を割らせるかだ。今の果てしなく他人行儀になりつつある苗字を、どう白状させ殺すか。
 車のアクセルを踏み込む。幹線道路を気分よく走行しながら、俺は帰宅後の計画について思案し始めた。

 と、穏やかじゃない計画を練りつつ帰宅、リビングダイニングに通じるドアを開けたまではよかった。しかしドアを開けたその先で、俺はさっそく出鼻をくじかれた。
 苗字はなぜか、慣れないキッチンとネットのレシピを前に、悪戦苦闘を繰り広げていた。
 帰宅するむねを連絡し忘れていたせいで、いきなり帰ってきた俺に驚いたらしい。苗字はやたらと慌てふためいたのち、最終的には呆然と、帰宅した俺を見返してきた。
「あ、ええと、あの……
「何やっとんだ、おまえは」
「ごはんを……、作ろうと思って」
 なぜか言い訳じみた調子でごにょついたことを言う苗字に、俺は「ハァ?」と思わず呆れた声を発した。
「今日のメシなら冷蔵庫に入れてあっただろ。朝そう言っといただろうが」
「あの、でも、あったけど、足りないかなと思ったし……あと、夕飯作ったりしたら、なんか嬉しいかなって……思って」
「嬉しいかって……
 なんだその、妙に感情に訴えかけてくる感じの理由は。おまえ、そういう感じのキャラじゃないだろうが。
 思わずそう言いたくなるものの、そもそも今の苗字には「そういう感じのキャラじゃない」という自覚もない。これはあれか、記憶が戻らないのをどうにかするため、試行錯誤した結果、ということか。キャラの模索というか、アイデンティティの確立というか。
 唐突な苗字の奇行を怪訝に思いつつ、俺はふたたび苗字の顔に戻す。
 と、そこでふいに気が付いた。苗字の顔に今まさに浮かんでいる表情。俺はその表情を、過去に何度か見たことがあった。
 高校生の頃、思い詰めた苗字が、ふとした瞬間に浮かべていた表情。俺の恋人としてのみ扱われ、希望する進路との板挟みになり、自分が嫌いになっていくと苦しんでいた頃の苗字と、限りなく近い、何か諦めたような、うかがうような、固い笑顔。
 そのことに気付いた瞬間、胸がぐっと締め付けられたような気分になった。腕に鳥肌がたつ。
 おいおい、まじか。そんなもん、心安らかどころの話じゃない。なんといったってその表情は、考え得るかぎり最大級に、苗字がストレスを感じまくっているときの顔のはずだった。
 こいつ、そんなにか。
 そんなに、メンタルにきてんのか?
 愕然として言葉を失った俺に気付き、苗字がおずおずと「勝己くん?」と声をかけてくる。その声も、今は遠く感じられる。苗字がそこまで思いつめていたことに、俺は今の今まで、まったく気付いていなかった。
「ごめん、……勝手にキッチン使って、迷惑だった?」
 苗字が困ったように、トンチンカンな言葉を投げかけてくる。そんなふうに気を遣われると、余計にいたたまれなくなってくるだろうがと、そう思うのに、うまく言葉をひねり出せない。
 こうなれば、事態は一刻を争う。愕然としながらも、俺はどうにか気持ちを立て直した。
 どのみち、帰宅したら機を見て苗字を問い詰めようと思っていたのだ。むしろ苗字が思いつめているのがはっきりしたぶん、こちらも心置きなく問い詰められるというもの。
「別に、迷惑とかはねえ。勝手にやっていいっつったのは俺だ」
 溜息をひとつ吐いてから、俺は気持ちを切り替えた。
「で、それ。何作ってたんだ」
 俺に聞かれ、苗字ははっとしたように、視線をコンロの上のフライパンに向けた。やたらと慌てふためいていたものの、普通にうまそうなにおいがするし、調理に失敗しているわけでもないらしい。
「一応、中華炒め」
「んなもんおまえのレパートリーにあったか?」
「分かんないけど、ネットで見ながらつくった」
「そうかよ。……じゃあ、メシにするか」
 このまま話し合いに突入しては、せっかくの料理が冷めてしまう。それにメシを食いながら尋問したほうが、すんなり口を割るだろう。そんな俺の思考など知るよしもなく、苗字は「じゃあ、準備するね」といそいそと夕食の支度をし始めた。

 異常なまでに空気が重い夕餉に、苗字は終始居心地が悪そうにしていた。たいていのことには動じない苗字だが、さすがにふたりきりの室内で、俺がガンガンにプレッシャーをかけているなかで、物怖じしないでいられるほどには肝が太くない。
 ガン詰めの下準備は、まあこの程度でいいか。苗字の顔色を見て、そう判断した俺は、いよいよ話し合いに進むことにした。
苗字
 箸を置かず、できるだけ何気ない調子で呼びかける。苗字はしばらくぽかんとしていたが、まもなくはたと思い当たったという顔をして、
「え、はい。あれ、私のこと?」
 と、間の抜けた返事をした。
「おまえ以外誰がいんだよ」
「いや、それはそうなんだけど……
 何かはっきりしないことを言う苗字だったが、そこをいちいち浚っていては、一向に話が進まない。進行のことを考えて、ここはひとまず、苗字の困惑を無視することにした。
 優先順位の一番は、とにかく今苗字が抱えていることを吐かせること。口を割らせ、場合によっては精神的に殴り合うことだ。こっちはとことんやってやろうと、すでに構えをとっている。
 とはいえ初球。まずは軽めの、様子見の球を放ることにした。
「言いてえことあんなら、そのまま喋れ」
 言いながら、我ながら芸がないと思った。これは苗字の口を割らせたいときの、俺の常套句だ。もう少しひねりがあってもいいものをと思いつつ、こうして直球で尋ねるのが、結局のところ一番話がはやい。
 放られた初球を、苗字は戸惑い顔で受けた。
「言いたいこと……ありそうに見える?」
「見えるから聞いてんだよ。おまえの言いてえことあるときの顔なんざ、こっちゃ見飽きてんだ。見りゃ分かんだよ」
「そうなんだ……
「だから隠そうとしたとこで無駄だ。そもそもおまえが俺に対して、こそこそ隠し事をしようとしたところで、うまくいったことなんか一度もねえからな。おまえがバレてねえと思ってることまで全部ひっくるめて、実際は何もかもバレバレだ」
 はっきりそう突きつけてやると、苗字は変なものを飲み込んだような顔をしてから「そっかぁ」と呟く。
 そうだ、苗字の考えてる底の浅い思考など、この俺に看破できないはずがない。苗字はいまだにバレてねえと思ってるだろうが、高校時代に一瞬だけ変な男引っかけかけたことまで、全部まるっとバレている。
「今なら聞いてやる。言わねえなら、泣かせてでも言わす」
「そんな非人道的な」
「俺に人道に悖る行いをさせたくなきゃ、大人しく俺の言うことに従え。そんで何もかも洗いざらい吐け」
「すっごいこと言うじゃん……
 呆れたような顔をして苗字が笑う。その顔を見て、なんだか久しぶりに苗字らしい表情を目の当たりにしたような気がした。実際にはほんの一日二日ぶりだというのに、ずいぶん久しく感じられる。
 苗字はしばらく、視線を落として考え込んでいた。夕飯を食べる手も完全にストップし、傍目にはフリーズしているようにしか見えない。思考速度の落ちている苗字が、思考にすべてのリソースを割くとこういうことになる、ということだろうか。そんな推察をしつつ、俺は辛抱強く苗字の応答を待つ。
 ようやく苗字が顔を上げてこちらを向いたのは、たっぷり一分ほど経ってからのことだった。ゆったりとした動作で、苗字は視線を俺に寄越す。
 その顔を見た瞬間、こいつ腹を決めたな、と俺は直観した。
 こちらに向けられた苗字の顔は、うつろな雰囲気を完全に拭い去った、いつもの苗字の生意気ヅラだった。俺が見慣れた、限りなくいつもの苗字にちかい根暗ヅラ。
「昨日くらいから、しばらく考えてたんだけど」
 苗字はそう、やや固い声音で切り出した。一体、何を言い出すのか。俺もつられて、多少まじめな顔で苗字の次の言葉を待つ。
 果たして、苗字は言った。
「私って、本当に勝己くんのこと好きなのかな……
「死ね」
 なかば反射で言い返したら、苗字が「えっ」となぜか狼狽えた声を出した。なんでそっちが狼狽えるんだ。おかしいだろうが。
「えっ、いや、違う違う。違うな、そうじゃなくて……ちょっと、うまく言葉を選べる気がしないんだけど」
「そこからどう言葉を選ぼうが、直球のカス発言だっただろ今のは」
 一瞬、まじで耳を疑った。こいつ、さらっととんでもないことを言いやがった。夫婦関係の根底を揺るがすようなことを、ぺろっと言うな。
 しかし、ここで会話を終了しては、この場に臨んだ意味がなくなってしまう。苗字の考えなしすぎる発言には頭を抱えるが、だからといって俺が匙を投げるわけにもいかなかった。
 俺は苗字の旦那だ。目の前のドアホが腐っても俺の女である以上、いけるところまでは付き合ってやる必要がある。まあ、あまりにも根暗がカスすぎた場合には、我慢しきれず途中でベランダから苗字をぶん投げる可能性も、無きにしも非ずではあるのだが。
 むかつきをどうにか押し込める。とめどなく出てきそうな暴言は、一度大きく溜息を吐くことで身体の外に追い出して、それから俺はふたたび苗字に向き直った。
……この際、今のおまえの無礼千万クソカス発言は、いったん脇に置いてやる」
「置くんだ」
「で、だ。そのうえで、言いたいこと言うのに言葉が選べねえなら、無理にきれいにまとめようとしなくていい。おまえが思考垂れ流しでも、こっちはそれなりに要約して解釈できる」
「そうなの? 本当?」
「当たり前だろうが。俺とおまえ、何年の付き合いだと思っとんだ」
「いや、だってさっき『死ね』って言われたし」
「それは忘れろ。事故みたいなもんだ」
「どういうたぐいの事故なの」
 そうそうそんな事故起きないよ、と言う苗字。こうしていると、だんだんと普段の苗字っぽさが戻ってきたように思える。記憶までは戻っていなくても、少なくとも昨日今日の苗字よりは、こちらの方がずっと話していて気楽だし、苗字自身楽しそうに見える。
 さっきまでのどんより重たい空気も、気付けばどこかへ消えていた。苗字はそれでもまだ、言葉を探しているように視線をさまよわせていたが、今度はそれほど長く考え込むこともなかった。
「それでは、言わせていただきますけど。あのさ、勝己くん」
「おー」
「勝己くんのこと、今、私、ぜんぜん好きじゃないのかも」
「それはさっき聞いたし、二度も聞く気はねえんだよ。まじでいっぺん、しばかれてえか?」
「違う、まだこれには続きがあるから。まずは続きを聞いてほしい」
 俺が苗字をぶん投げる覚悟を決めるより先に、苗字が言葉を継ぐ。ひとまずは苗字の言葉を信じ、俺は浮かせかけた尻をふたたび椅子へと戻した。
「なんていうかな……。記憶を失う前の、もともとの私が勝己くんのこと好きだったんだろうなっていうのは、もちろん当然、ちゃんと分かってるんだよ。自分のことだから、好きでもない相手と絶対に結婚なんかしないことは分かるし、自分の携帯に残ってたメモとか写真とか見ても、やっぱり……好きだったんだな、大好きだったんだなって、ちゃんと分かる」
 そこで一度言葉を切った苗字を、俺はまじまじと見つめた。
 昨日一日、言葉少なに自身の携帯を眺めていた苗字の姿を、俺はそこで思い出す。苗字の言葉を信じるのなら、あれはもとの自分がどれだけ俺を好きでいたか、そういう証拠を探す作業をしていたのかもしれない。記憶を取り戻すというよりも、本来の自分の姿かたちを、思考を、覗き見て、確認するような。
「だけど、それはそれとして、今の私にはどうしても分からないんだよ」
「分かんねえって、なにが」
「どうして、私が勝己くんのことを好きなのか。だって、優しくされたところでそれは『いい人だな』とは思うけど、『好きだな』にはならないでしょ。かっこいいなとは思うけど、外見で結婚するかどうかまで決めたりはしないでしょ。なんていうか、そういうことをさ……優しい人のなかでもどうして勝己くんを好きになったんだろうって思うと……その理由が、まったく少しも、分からなくて……
 苗字は溜息を吐き、箸を置く。両手で顔を覆うと、いかにも嘆かわしい、みたいなポーズをしやがった。
「なんかさぁ、勝己くんと一緒に過ごしているうちにどんどん、勝己くんっていい人だけど、別に……みたいな気持ちになってきちゃって……
「おまえ、まじで俺が怒らねえと思って言いたい放題か?」
「というようなことを、うまく要約して解釈してほしい」
「んなクソ原文、どう要約してもクソだろうが!」
 とうとう耐えきれなくなって、俺はバンッと食卓を叩いた。苗字は覆った手の指の隙間からこちらを見て、
「勝己くん、そういう感じの声出るんだ」
 クソみたいな感想を披露する。本当になんなんだこいつは。