アルバムなんてものを纏めてはいなかったので、仕方がないから俺の携帯に入っている、高校時代に撮った写真やら結婚式の写真やら、そういうものを見せることになった。
苗字は興味深そうに見てはいたものの、だからといってそこから何か思い出すということはなく「これどこにいるの? 病院?」とか「あ、これ絶対不意打ちで撮ったでしょ」とか、気楽なコメントを連発している。
見せるといっても、高校時代に撮ったツーショット写真など、高一のときの大晦日の写真と、大戦のあと、ずれにずれた付き合って一年記念をやったときの写真くらいしかない。俺が勝手に撮った、多分苗字が気付いていないだろう写真は何枚かあったものの、ここでそれを苗字に開示する気はなかった。いくら記憶がないからといって、数日で元に戻るのだ。今更、ガキの頃に撮った写真のことで、苗字からわあわあ言われたくはない。
「勝己くん、写真を撮るときには笑おうとか、そういう意識は皆無なんだね」
限られた写真を何度も拡大したり縮小したりしては、画面を矯めつ眇めつしていた苗字が言う。
「デフォルトが真顔というか、険しめ?」
「面白くもねえのにへらへらしねえだろ」
「面白くないの? 彼女と写真撮ってるのに?」
「……」
「この病院の写真とか、絶対に記念日の感じなのに? ケーキと写ってるのに、楽しくも面白くもないの?」
記憶がないわりに、痛いところをついてくる。中学の頃からの付き合いである苗字からは、絶対に出ない疑問と発言だ。
俺は眉間に皺が寄るのを感じながら、
「別に、楽しくねえとは言ってねえ」
そんなしょうもない反論をする。我ながら苦しいにもほどがある反論だったが、苗字は「ふうん」と半笑いを寄越すにとどめて、それ以上の追及はしてこなかった。手心を加えられたようでむかつくが、深堀したところで俺が追い詰められるだけだ。これ幸いと俺は話題を流した。
「つーか、おまえにそんだけ余裕あんなら、写真なんか見てねえで会える知り合いに連絡とって、会いに行ってもいいな。どうする」
記憶喪失ということで、もっと取り乱しているかと思ったが、意外なほどに苗字は落ち着いている。となれば、大して収穫がないアルバムを眺めているよりも、誰か知り合いにでも会ったほうが、苗字にとっては刺激になるだろう。
仕事の肩代わりで声をかけてあるミルコはもちろん、時間さえ向こうの都合にあわせれば、苗字の知り合い何人かくらいは、今日のうちにでも会いに行ける距離にいる。時刻はまだ昼前。今からならば、どうとでも動ける。
「うーん、そうだねぇ」
苗字が考え込むように、視線を宙へ向けた。
昨日も思ったが、記憶を失ってからの苗字は、普段と比べると思考の速度がかなり遅い。たっぷりと時間をとってから、苗字は「せっかくだけど」と首を横に振った。
「今日は、勝己くんと一緒に、ふたりで過ごしてみたいかなぁ。ほかの人に会っても、ねえ。気を遣わせるだけだろうし」
「刺激されて記憶が戻るかもしんねえだろ」
「勝己くんが会えって言うなら会うけど」
どうする? と問う苗字が俺に向けた顔は、本当にすべてを俺にゆだねようとしているもののように見えた。
記憶がないから、今の苗字は自分のこともよく分かっていない。自分が考えて何かを判断するよりは、苗字のことをよく知っている俺の判断をあおいだ方が合理的だという、苗字のその思考は分らなくもない。
分からなくはないが、どうにも気持ち悪く感じてしまうのは、苗字本来の我の強さとのギャップが、どうしても気になってしまうからだろうか。少なくとも本来の苗字ならば、自分のことをこんなふうに俺に丸投げはしない。意見をあおぐとしても、それはそれとして自分の意見ははっきり主張する。
この状態の苗字を、外に出していろんなやつに会わせるのか。うっかりするとミルコあたりには「こんな面白くもなんともねえ苗字、連れてくんな」くらいのことは言われそうな気がする。
「勝己くん、決めていいよ。私は従うから」
やんわりと促され、俺は溜息を吐いた。
「俺は……、別に、今日急いでどうこうする必要はねえと思う。けど、結局はおまえのことだろ。丸投げすんな、自分で決めろ」
多少、酷なことを言ったかもしれない。自分で決めろと言われたところで、苗字にはその決断をくだすだけの材料がないのだ。知り合いに会うと言われても、どんな知り合いなのかも分らなければどうしようもないだろう。
そう思ったが、しかし言われた苗字の方はけろっとした顔をして、
「うん、じゃあ今日はいいかな」
あっさりと、今日の方針を提示した。
「せっかく勝己くんが休みとってくれてるんだし。私と一番近しいのが勝己くんなら、まずは勝己くんと一緒にいて、思い出す努力をしてみるよ。それが一番、見込みがありそうな気もするしね」
「そうかよ」
「うん。でも、いろいろ考えてくれてありがとう、勝己くん」
苗字の返事に、俺はソファーから立ちあがった。なんとなく、なんの照れも衒いもなく「ありがとう」と口にする苗字の横にいるのが、心苦しいような気がしていた。
苗字の希望をかなえるというかたちで、その日は特に何をするでもなく、ゆっくり過ごそうということになった。記憶がない不安や焦燥があるのではと、それとなく苗字の様子をうかがってみるものの、苗字からはそういうたぐいの感情は、ほとんど見受けられない。
記憶を取り戻さなければならない、という明確な目標があるなかで、こんなふうに無為の時間を過ごすというのは、これはこれでプレッシャーを感じそうなものだ。普通、生産性のない時間は精神的な負荷になる。
だというのに、苗字のこの呑気なことといったらどうだろうか。心安らかに過ごせているのだからいいんだが、それにしたってもうちょっとくらい、焦ったりしてもよさそうなものを。
ただごろごろしているのも退屈なので、何か映画でも流しておくことにした。久々に動画配信サービスを開くと、新しい映画の配信が大量に始まっている。
配信サービスに加入こそしているものの、普段はそれなりに忙しく、滅多に使うことはない。ときどき苗字が、在宅で仕事をしながらBGMとして流しているくらいだ。
「見るのなんでもいい? 勝己くん見たい映画とかある?」
「好きなの見ろよ。どうせ何見てもおまえは初見なんだろ」
「そうなんだよね。見てたら思い出すのかもしれないけど、デジャヴみたいな感じで」
「映画の内容より先に思い出すことあんだろ」
言いつつ、苗字がリモコンでスクロールしていく。
「んー、じゃあ、これにしようかなぁ。勝己くん、これでいい?」
やがて苗字が選んだ映画のサムネイルを目にして、俺は思わず息をのんだ。
まだ俺と苗字が付き合う前、高一のころ最初のデートで一緒に見に行った映画。数えきれないほどの映画のなかから、よりにもよって苗字が選んだのはその映画だった。
いや、分かっている。苗字には大した理由はないだろうし、適当に目についた映画を選んだだけだということくらい想像がつく。評価がいい映画を選んだだけだとか、そんなところだろう。
それでも、そこに多少の光明を見出さずにはいられない。
「……これ、選んだ理由は」
「なんとなく、爆発とかバトルとかあって画面がハデな感じっぽいから」
「おまえ、その変な感性だけは変わんねえのか」
「えっ、なに?」
「別に、こっちの話」
戸惑う苗字を放置して、俺はキッチンに立った。ふたりぶんの飲み物を用意してから、寝室にブランケットをとりにいく。それを苗字に手渡すと、ソファーに座ったまま熱心に映画の内容紹介を読んでいた苗字が「わっ、至れり尽くせり」と声をあげた。
「ありがとう、ごめんね、何から何まで全部してもらっちゃって」
「どうせ物の場所とか分かんねえだろ。片づけは手伝え、んで物の配置覚えろ」
「それはもう、もちろん。まかせて」
苗字はソファーの上で膝をたて、そばに置いてあったクッションを抱え込む。俺がふたたび隣に腰かけたのを待ってから、リモコンの決定ボタンを押す。
映画が始まる。見覚えのある映画会社のロゴ映像が流れるなか、ふいに苗字がぽつりと呟いた。
「本当、こんなふうに優しくしてもらって、私ってもしかしたら、ものすごく幸せ者だったのかな」
それは独り言のような声の小ささと、囁くような発し方だった。映画の視聴中だったら気付かなかったかもしれないような、そのくらいの些細な呟きだ。
けれどその囁きを耳が拾った瞬間、俺はつられるようにして苗字の方に視線を向けていた。
それは多分、遠い昔、高校時代の苗字が幾度か発したことのある、自分のなかに沈み込んでいくときの声音によく似ていたからだ。しかしそのときはもちろん、そんなことに気付き、考えていたわけではない。ただ反射のように、苗字の横顔を盗み見た。
見て、ぎょっとした。苗字は瞳をテレビの画面に向けたまま、まるでぽっかりと表情が抜け落ちたような顔をして、膝を抱えてそこに座っていた。
うお、っと思わず声を出しかけて、慌ててそれをふたたび飲み込む。
さっきまでの呑気な様子からはかけ離れた、魂がそっくり抜け出したような、うつろな瞳。俺の視線に気付いたのか、苗字はこちらに顔を向ける。しかしそこにはもう、今の今まであったうつろはなく、さっきまでと変わらない気楽なゆるい笑顔だけがある。
「ね、勝己くんもそう思わない? 俺って優しいな、こいつ幸せもんだなって、少しは思うでしょ」
そんなことを問われても、それどころではない。目撃したうつろな表情が、俺の脳裏に焼きついてしまったようだ。嫌な胸騒ぎを無理やりに抑え込み、俺は苗字の言葉に応じる。
「どうだかな。おまえが幸せ感じてたかなんざ、俺の知ったこっちゃねえ。案外、やってらんねえ、いい加減にくたばりやがれとか、そんなようなこと思ってたかもしんねえだろ」
「ええー、そこは疑うんだ。……それとも、普段の勝己くんはこんなに優しくないの? 今は記憶喪失待遇で特別?」
それもあながち間違ってはいない。が、今苗字にした程度のことなら、普段からしていることでもあった。もっとも、苗字も同じくらいの働きをするから、どちらかが特別優しいだのなんだの、そういう話にはならない。互いにこれが当たり前になっているだけだ。
「つーか、飲みもん用意したりするくらいで、ことさら優しいだのなんだの、そんな言われるようなことでもねえだろ」
「そうかなぁ。私は優しいと思うし、多分記憶なくす前の私も、そういうところに優しいなと思ってたんじゃないかな」
記憶がないくせに、やけに自信満々に言う苗字。俺は眉根を寄せて、微笑む苗字に尋ねた。
「んなこと、なんで分かんだよ」
「まあ一応、同一人物だから。そういう感覚というか感受性? みたいなものまでは、記憶のあるなしで大きく変わらないんじゃないかな」
ロゴ映像が終わり、映画の冒頭が始まる。視線を画面に戻し、苗字は言った。
「少なくとも今の私は、勝己くんのこと優しいなって思ったし、あと、私って勝己くんのこういうところが好きだったのかな、とも思った」
言いたいことを言うだけ言って、苗字は映画に集中し始める。わざわざ苗字には言わなかったものの、俺にとってはすでに何度か見たことがある映画だ。だからついつい、頭がほかのことを考える。
俺は視線だけ画面に向けたまま、頭の中ではまったくほかのこと──今苗字が言った言葉の意味、真偽、そして優しさというものについてばかり、ぐるぐる飽きもせず考えつづけていた。
結局それほど集中できないまま、気付けば映画は終了し、エンドロールが流れていた。画面下で、続編の再生が準備されている。このまま続けて二作目も見るつもりなのだろうか、と苗字のほうをうかがうと、苗字もちょうど俺のほうに顔を向けていた。
視線が合うと「面白かったけど、考えさせられる内容でもあったよね」と笑う。
「考えさせるような内容じゃねえだろ。ド直球エンタメ作品じゃねえか」
「うーん、でもヒーローの彼女って、大変そうだよねぇ、とか。私も大変だったのかなぁ、とか。そういうの、いろいろ想像する余地があったよ」
なるほど、たしかに今の苗字ならば、そういう部分に引っかかるのか。
個人的な記憶、エピソードではないので、苗字にヒーローという職業についての知識はある。一昔前、それこそこの映画の世界観ほどではないにせよ、今なおヒーローという仕事が危険を伴うものである事実は変わらない。このご時世になってもなお、ヒーロー養成は一部の専門の教育機関が担っているのが、その証左ともいえる。
テレビの画面が続編映画に切り替わる。漫然と眺めながら、俺は苗字の言葉に返事をした。
「多少の覚悟はしてんだろうが、そもそも結婚してからは、そうでけえ仕事にぶち当たってねえからな。むしろ学生のときのが、気ィ揉むこと多かったんじゃねえの」
「ふうん、そうなんだ……?」
不思議そうに相槌を打つ苗字。この感じだと、もしかすると苗字は大戦のことも覚えていないのか。そこをいちから説明するのは面倒くさく、また同時に思うところもあり、俺はそこで一度口をつぐんだ。
苗字にとって、学生時代の連合とヒーローの大戦は、個人的なエピソードに紐づく記憶らしい。当事者ではなかったのだから、あくまでそういう歴史的な事件として脳が処理していそうなものだが、そうではないのか。
そう思うと、いかに苗字があの時期、俺のことで気を揉んでいたのか、頭をいっぱいにしていたのかを時間差で思い知らされるようで、なんとなく居心地が悪くなった。仕方がないこととはいえ、あの頃の俺は本当に、苗字の心情に配慮するということを一切しなかった。つくづく、ガキだったと思う。
「私の性格から考えるとさ、勝己くんみたいに危険の伴う仕事をしている人と一緒になろう、結婚しようと思うっていうのは、結構な挑戦だと思うんだよね」
「そんな感じでもなかったけどな」
「うーん、じゃあ違うのかな。ま、分かんないけど」
「おい」
「私より勝己くんのほうが、元の私のことはよく知ってるでしょ。その勝己くんがそんな感じじゃなかったっていうなら、多分そんな感じじゃなかったんだよ」
あっさり持論を放棄する苗字に、俺は呆れて溜息を吐く。そこはもう少し粘れ、と思うのは俺の勝手な希望だろうか。記憶がない苗字に、言っても仕方がないことではある。
ふたりぶんのカップを回収し、腰を上げる。もう一作このまま見るのであれば、飲み物を作り直してきたかった。
苗字の視線を受けつつ、俺は言った。
「結婚はともかく……そもそも、そういうとこで気ィ揉まずに済むように万事整えてから、おまえんとこに行ったからな。そこで不安どうこうは、まあなかったんじゃねえの」
「それって復縁したときの話?」
「ん」
「ふうん……。じゃあ、別れちゃったときはやっぱり、そこがある程度ネックになってたってことか」
「そればっかでもねえけど」
別れた理由は、苗字の進路変更に俺の存在が邪魔になるから。俺と別れなければ、苗字がどんどんだめになっていくと、俺も苗字もそう思ったから。ただ、そういう事情の根っこの部分に、ヒーローを目指す以上は危険がつきものであるという、当然の事実が絡むのもたしかだ。
俺の回答に、苗字はまた何か考え込むような顔をする。
「はやく、全部思い出したいな」
そう呟いた苗字の表情に、感情の色はとことん乏しい。それはまるで、俺の知らない他人の誰かが、そこに存在しているみたいだった。
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