柚子子
2024-12-08 21:20:09
61099文字
Public ベリーベリー
 
994881

記憶喪失の話(+8)

爆豪長編『ベリーベリー』の番外編。本編最終話および掲載済の他番外編のネタバレを含みます。

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 そりゃ冷静に考えりゃ俺が悪かったと、そう思えなくもない。というか客観的に評価するなら、俺が悪かったとしか言いようがない。ないのだが、とはいえいつもの言い合いの延長ならば、俺がその場で完全に非を認めて謝るなんてことは、絶対に有り得ないことだ。
 だからいつもの調子で、いつもの口喧嘩の要領で、やや乱暴な論調で、苗字のことをやりこめてしまったのだ。口八丁で完封し、なかば無理やり俺の勝利に持ち込んだ。無理やり。そうだ、たしかにその自覚は、俺にもあった。
 が、俺にとっちゃそんなものは、いつも通りのやり取りのひとつでしかなかった。
 いつものこと、毎度のこと。
 だから俺はそのあと、てっきり苗字もまた、いつものようにむかつくクソ生意気論法で言い返してくるもんだと、そうだとばかり、思っていた。高を括っていたのだ。
 だから、気付かなかった。
 苗字の翳った表情に、ふざけたところがひとつも無かったことに。
「爆豪くんのそういうとこ、昔からずっと嫌だった」
「あ?」
「中学のときとか、ひどかったからね。爆豪くんは忘れてるかもしれないけど、私はこの先も一生、ずっと忘れないから」
 立ち上がり、俺との会話を拒むように寝室に向かった苗字の背を見て、俺は久しぶりに「まずった」と、己のひどい行状と失態を悟った。
 どうやら俺は本当に数年ぶりに、本気で苗字のことを怒らせたらしい。小うるさいことこの上ないわりに、滅多なことではマジギレはしない苗字を。
 これはなかなかただ事ではない。本来ならばすぐさま苗字を追いかけ、話をすべきだった。謝るかどうかは別にしても、拗れさせないためには、早めに手を打つに越したことはない。
 しかし俺にはそれでもまだ「こんな言い合いでいちいちキレんなや」という気持ちがあった。それは言ってみれば、俺の思考の癖のようなもんだ。もっといえば、中学時代から、空白期間を挟みつつも長年苗字と言い合いをやりあってきたなかで育まれた、甘えと傲慢を多分に含んだ都合のいい認知。この程度はコミュニケーションの範疇だと、自分に都合よく思考する癖。
 まあ、いい。一日くらいは時間をおいて、明日の晩になってもまだ苗字が怒っているようであれば、第二ラウンドに突入するまでだ。
 我ながら、同じ轍を何度踏めば気が済むんだと、後々になって何度も自己嫌悪するはめになる。これはだから、そんな俺に対して下された、当然の天罰、報いのようなものなのかもしれなかった。

 翌日夕方、もうじき仕事が一段落するというところで、デスクに置きっぱなしにしていた社用の携帯が、でかい音を立てて鳴り始めた。近隣の警察からの出動要請か、と画面を見れば、そこには意外な発信者名が表示されている。
 『ライトリーラボ』。
 緊急連絡先として登録されている、苗字の職場だ。その表示を目にうつし、俺は思わず眉をひそめた。
 時計を見れば、今はまだ苗字の勤務時間内だ。このところ仕事が落ち着いているとは聞いているが、とはいえ早上がりできるとまでは聞いていない。そもそも苗字から俺に連絡があるのなら、苗字の携帯から俺の私用携帯にかかってくるはず。急ぎの連絡で社用携帯にかけたとしても、発信元が苗字の携帯でないのは不可解だ。
 まさか間違い電話ということはないだろう。訝しく思いながら、俺は電話をうけた。
「こちら、大・爆・殺・神ダイナマイト」
「あ、もしもし、苗字さんのご家族のお電話ですか」
苗字がどうかしたのか」
 電話口でのまどろっこしい会話を避け、単刀直入に話題に切り込む。この仕事を始めてついたくせだ。
 電話の向こうの相手は、さすがにヒーロー相手にやりとりすることにも慣れているのだろう。ほとんど怯んだ様子もなく、すぐに本題に入った。
「業務中の事故──個性事故に巻き込まれ、苗字さんが病院に搬送されています。詳しいことはのちほどお伝えしますが、ご家族にはできるだけ急いで病院まで迎えに来ていただきたく」
 その言葉を聞いた途端、どくん、と大きく一度、心臓が脈を打った。全身を嫌な感覚が走り、一瞬頭が真っ白になりかける。
 しかし、すぐに我にかえる。苗字が搬送されるという、まったく予期せぬ危機ではあったものの、非常事態は日常茶飯事だ。俺はすぐさま頭を切り替えた。
「病院って、どこの」
 問いながら、ざっとあたりを見回す。さいわい、今日の仕事はほとんど片付いている。手を付けようと思っていた雑務はあるが、急がなければいけない仕事はない。今すぐにでも片づけをして、事務所を出られる。
 電話の向こうの人間は、近所の大学病院の名をあげる。俺の管轄区内の病院だから、けが人の搬送でしばしば足を運んでいる病院だった。ヒーロースーツを着用したまま向かっても、それほど目立つこともないだろう。
 立ち上がり、事務所のドアを出た。通話はヘッドセットに切り替える。ドアにセキュリティロックをかけ、病院へと向かう。
 通話はまだ続いている。
「命に別状はありません。というか、身体的な外傷はまったくなく……
「あ? じゃあどういう状態なんだ。搬送されるっつーからには、何かしら診察か治療が必要な状態なんだろ」
 状況確認しつつ、往来へ出た。手のひらに熱を集める。たった今終業したので厳密には業務時間外だが、やむをえない。急ぎなので爆破を使い、空から最短距離を進む。
 同時にさまざまな思考を走らせる。苗字のこと、仕事のこと、諸々にかかる時間と引き継ぎと連携、情報共有。
 しかしその重なり合った思考もまた、次の瞬間、耳に飛び込んできた情報ひとつで、すべて吹き飛んだ。
「詳しくは病院でお伝えしますが、──苗字さんは今、一般的にいわれる『記憶喪失』の状態にあります」

 ★

 高校時代から何かにつけて病院とは縁があるが、さいわいなことに自分の通院が一段落してからは、個人的な事情での来院はほとんどなかった。
 そのせいか、病院というとどうしても、自分が患者の立場として扱われる場所という印象が強い。
 だから、事前に聞かされた外来患者用の簡易的な病室に通されたとき、そこにいるのが自分ではなく苗字であることに、まず俺は強い違和感を持った。
 おまけに、ベッド上でもなく備え付けの椅子に腰かけ、所在なさげにどこかぼんやりしている苗字の様子は、どこからどう見てもけがや病気で運び込まれた人間とは思えない。普段、自宅で気を抜いているときの苗字の姿そのものだ。
 それでも、入室してきた俺と視線を合わせる苗字の顔を見た瞬間、俺はそこにいる苗字が普段の苗字──俺のよく知る苗字でないことを、はっきりと悟った。
「ええと……すみません……
 ドアを開け、その場で苗字を見つめたまま動かない俺に、なぜか苗字は開口一番、謝罪の言葉を口にした。それだけならば、苗字らしいと言えなくもない。中身の伴わない口だけ謝罪は、昔から苗字の十八番だ。
 だが、俺に向ける苗字の視線は、心底申し訳なさそうな色を帯び、うかがうようにこちらに向けられている。ふてぶてしさを擬人化したような存在である苗字とは到底思えない、おどおどした視線。その視線が、俺の胸をひやりとたしかに冷たくさせた。
 ばくばくと心臓が嫌な鳴り方を続けている。室内にいるのは苗字と、付き添ってきたらしい苗字の会社の同僚、それに医師と看護師が一名ずつ。室内の空気はそれほど重くはなかったが、だからといって、ちょっとしたケガを負っただけというような、楽観的で気楽な空気でも有り得なかった。
 ばれないように、そっと深呼吸を二度繰り返す。それからようやく、苗字の「すみません」に返事をした。
「何に対する謝罪だ、そりゃ」
「多分、なんか……あるんですよね、私と」
 さっきからいろんな人が来てくれるんで、と苗字がぼそぼそ続ける。いろんな人、というのが誰のことかは不明だが、それよりまず、苗字がごく自然に俺に対して丁寧語で話していることに、何ともいえない気分になった。
 まるで悪い夢を見ているようだ。
 苗字が今、俺に向けて発した言葉は、あたかも見知らぬ他人に向けたそれのようだった。実際、記憶のない苗字にとっては、俺はいきなり病室に飛び込んできた他人以外の何物でもないのだろう。とんでもない事態になった、と気が遠くなりそうだが、こんなところで意識を飛ばしている場合でもない。
 ひざを折って視線を合わせるべきか悩み、けれど結局その場に立って苗字を見下ろす恰好のまま、俺は口を開いた。
「爆豪勝己。聞き覚えは」
 短く問うも、苗字はゆるゆると首を横に振る。
 記憶喪失の人間を前にするのは、さすがにはじめてだ。が、こういうときは、くどくど説明しても仕方がないのだろう。
「俺は、おまえの旦那だ」
 端的に伝えると、苗字は「えっ」と声を上げて固まった。
「えっ……、だっ、え、旦那って」
「ご家族に連絡が付いたって、さっき伝えたでしょ。彼が、そのご家族」
 困り果て、すがるような目で苗字に見られた苗字の同僚が、子どもをなだめるような調子で言う。
「や、でも私てっきり家族って、父とか母とか、そういう間柄の人が呼ばれるんだとばかり……。というか、私の苗字って、苗字なんじゃ……
「あ、そうか。苗字さん職場では旧姓を使ってるから、ついついそっちで呼んでたよ。苗字名前さん、戸籍上の名前は爆豪名前さん」
「そ、そうなんですか……
 そうして苗字は、ふたたび困惑が色濃く滲んだ視線をこちらに向けた。
 俺はひとまず、黙ってうなずきをひとつ返す。この状態の苗字には、これ以上の情報をどかどか与えない方がいいだろう。苗字はすでに、目の前に急に現れた「旦那」の存在だけでいっぱいいっぱいになっている。ならば今は、自分の感情と脳みそで納得できるまで待った方がよさそうだ。
 俺たちの会話が途切れたのを見計らって、同席していた医師が俺に目配せを寄越す。
「爆豪さん、いいですか。少し」
「はい」
 いまだ混乱のただなかにある苗字のことは、付き添いの同僚に任せることにした。医師からの説明を受けるべく、俺は医師と看護師とともに病室を後にする。
 病室を出ていく直前、ちらりと苗字の様子を盗み見てみる。またぞろ不安げな視線にぶつかるかと思い、細心の注意を払って動作をおこしたが、そんなものは杞憂でしかなかった。
 苗字は真っ蒼な顔を俯けるばかりで、出ていく俺に視線を寄越そうともしなかった。

 苗字は仕事柄、多種多様な個性の持ち主と接する。個性因子とひとくちに言っても、その性質や作用の仕方は文字通り千差万別で、だからこそ面白いんだよね、というのが平素からの苗字の主張だった。
 サポートアイテムのデザイナーと装具の義肢、そして苗字たち研究者というチームで、ヒーローを対面にした装具の提案が、苗字の主な主戦場だ。しかしその前段階の研究では、必ずしも仕事相手をヒーローに限るわけではないらしい。
 分かりやすいところでいえば、ヒーローを引退したあとのエンデヴァーは、公共の利益のためという名目で研究にかかわっているし、逆にヒーロー稼業に無縁の協力者を得ることもあるという。
 今回の個性事故は、そうした一般の協力者の個性の暴走によるもの、ということだった。
 個性による記憶喪失なので、医療的なアプローチでできることはない。せいぜいが、精神が落ち着くよう薬を出すくらいだ。
 元の状態に戻す──すなわち記憶を取り戻させるには、とにかく心安らかに、安心して日々を過ごすしかないとのこと。個性の持ち主から聴取したところでは、何もしなくても数日経てば記憶は戻るらしいので、そう深刻になることもないらしい。
 苗字の事務所からは、今回のことは仕事中の事故、つまり労災として、補償が出ることになっている。しばらくは仕事を休むように言い渡されもした。どのみち記憶がないのだ。出社させたところで、苗字にできることもない。
 記憶がない苗字を、一度親元に戻すかも悩んだ。が、苗字の両親とも電話で相談した結果、結局はそのまま、俺と暮らす家に戻すことにした。
 俺の実家に返すという案もあるにはあったが、それはさすがに却下した。今はとにかく、心安らかに過ごさせなければならないというのに、苗字にとっての義実家になんてあずけられた日には、苗字に潜在的な緊張を強いることが分かりきっている。
「それに、名前は多分、いろんな人に代わる代わる会うよりも、今の生活と慣れた家で、勝己くんとふたりでいた方が、落ち着いた状態でいられると思うんだよね」
 というのは、苗字の母親の言だ。
 俺よりも苗字をよく知る、苗字の母親にそう言われてしまえば、こちらとしても納得して引き受けるしかない。
 もとより、俺は丸投げ同然に実家に返すのではなく、今の自宅に連れ帰るつもりでいた。苗字の身元を任されたところで、特に困ることもない。
 さいわい俺の方の仕事は、ある程度の融通がきく。このところは仕事も軌道に乗って落ち着いているから、そうそう帰りが遅くなることもない。夜勤の日、あまりに不安なようであれば誰かしら呼んでもいいだろう。それこそ親とか。
 そんなわけで、苗字の検査の残りなどを待つあいだに、一通りの手続きと方々への確認、調整を済ませ、さらには一度、事務所ちかくまで戻り、着替えてから駐車したままだった車を病院まで回し、ようやく苗字とともに自宅マンションに帰り着いたのは、そろそろ二十一時になろうかという頃だった。
「着いたぞ」
 車をとめて、助手席の苗字に声をかける。ぼんやりと意識をどこかに飛ばしていた苗字は、俺の声にはっとして慌ててシートベルトを外した。
「あ、はい。ありがとうございます、ええと、……
 何やらもごもごと口ごもる苗字を、俺は辛抱強く待つ。
 病院からの帰り道、苗字はほとんどずっと黙りこくったままだった。聞きたいことも言いたいことも、おそらく山ほどあるのだろうが、ひとまず落ち着いてから話をしようとでも考えていたのだろう。記憶を失っていても、苗字の考えそうなことはだいたい想像がつく。
 しばらく待っていても、苗字はなかなか話を切り出さなかった。じれったくなって、俺は「なんだよ」と先を促した。
 車からおりた苗字は、困ったように眉尻をさげて俺を見た。
「いや、あの、名前、なんて呼べばいいかなと思って。あの、私たち結婚してるんですよね?」
 あまりにも他人然とした話し方に、腕に鳥肌が立った。知り合ったのが中学時代だから、俺と苗字のあいだに、こういう他人行儀な距離感が発生したことは、これまで一度だってない。出会ったその瞬間から、こいつは無礼千万な女子中学生だった。
 苗字を伴いマンションのなかに入り、自宅に向かう。歩きながら、きょろきょろと辺りを見回す苗字に、溜息を吐きたくなった。
「とりあえず、その話し方やめろ。ふつうの話し方でいい」
「ふつう」
「そうだ。結婚してんだから、んな他人行儀な話し方してねえ」
「そう言われても、実感がないのでなんとも……
「なくても、ないなりにふつうに、適当にしゃべりゃいいだろ」
「うーん、……じゃあ、わかった。ふつうに話してみる」
 ふつうにため口で会話をさせるだけで、この労力。まるでアンドロイドとでも話しているようだ。
 もともと苗字は頑固な人間だし、自分が納得していないことに関しては、かなりしつこく説明を要求してくることが多い。とはいえ記憶喪失になっている現状ならば、ある程度のことはそういうものとして受け入れてもよさそうなものだ。
 しかし、経験によるさまざまな判断が失われた結果、逆に苗字本来の頑固な性質が、強く表に出てきているのかもしれない。そうだとすると、ここから先が思いやられて頭が痛くなってくる。
 エレベーターに乗り込む。最上階のボタンを押すと、ドアが閉まる。
 最上階、と隣の苗字が小さくつぶやいた。おおかた家賃のことでも考えているんだろう。苗字の独り言は無視して、俺は続けた。
「あとは、呼び方か。つってもな、ふつうに」
「ふつうに?」
「俺のことは、君付けで呼んでた」
「君付け……。じゃあ、ええと……勝己くん?」
 こてんと首をかしげて聞かれ、思わずぶふっと噴き出した。チン、と音が鳴って、乗っていたエレベーターのドアが開く。噴き出した俺に、苗字が困惑の表情を浮かべた。
「えっ、なんかおかしかった? ふつうに君付けって言ったから、そういうことだと思ったんだけど。勝己くん、だったよね? 下の名前」
「そりゃそうだけど」
 困惑しきりの苗字に、なんと返事をしたらいいものか分からなかった。
 考えてみれば、結婚している間柄で苗字に君付けは「ふつう」ではないだろう。以前に相澤先生にも突っ込まれた。そもそも今はこいつだって爆豪だ。
「私、なんか間違えた……?」
「別に。間違えてねえよ。つーか間違いもクソもねえわ」
 訂正すべきか悩んだのは、ほんの一瞬のことだった。勝己くん呼び、上等だ。本来の苗字からは滅多に聞かない呼び方に、多少そわついた気分になりはするものの、けして悪い気分じゃない。というかむしろ、これはこれで満更じゃなかった。
 どうせ長くて数日の記憶喪失だと分かっている。だからというわけではないのだが、俺はいまひとつ深刻な気分になれないまま、何なら若干おもしろがってすらいた。
 病院に駆け付けたときこそ、頭が真っ白になりかけたものの、外傷もないならそれほど大きな問題ではない。
 不安がるのは苗字だけでいい。俺は揺らがず、どっしり構えていたほうがいいんだろう。
 家の鍵を開ける。そういえば、とふと思い出し、俺はドアを開けつつ、かたわらの苗字に視線を向けた。
「鍵は持ってんな」
「うん、病院でかばんのなか確認した」
 うなずく苗字の腕にはたしかに、普段から職場に持って行っているかばんがそっくりそのまま、ぱんぱんに中身を詰め込んだ状態でさがっている。
 携帯や財布、社員証や鍵などの貴重品はそのまま持ち帰ってきているらしいから、当面は記憶がないこと以外で困ることはなさそうだ。もっとも、記憶がない以上の困りごとなど、そうそうあるとは思えない。
「出歩く分には構わねえけど、まあ当面は家にいた方が安心だろうな。おまえ、この辺の店やら道やら、そういうことも覚えてねえんだろ」
「さっき車の窓から見てた限りでは。歩いたら違うのかもしれないけど」
「それもおいおいだな」
 ドアを開け、家の中に入る。室内は今日の朝、俺が出ていったときのまま、寸分たがわない。
 靴を脱いで、苗字がおそるおそる部屋のなかに足を踏み入れる。しきりに周囲をきょろきょろしている姿は、もう何か月もこの家に住んでいる住人とは思えない。
 他人の家ならば、いっそここまで不躾にじろじろ見たりはしないだろう。モデルルームを見学にきた客っぽい、というのが一番しっくりくる。
 ちなみに写真や思い出の品のような、ぱっと見て記憶を刺激しそうなものは、この家の見えるところには一切置かれていない。そういうのは、俺の趣味でも苗字の趣味でもないからだ。
 だからいくら苗字がきょろきょろしたところで、苗字がこの家の住人であること、俺と暮らしていることの証左になりそうな、分かりやすい品はどこにもない。
 写真立てのひとつでも置いておきゃよかったか。一瞬だけそう思ったが、自分と苗字のツーショットが堂々と飾ってある家に住むというのは、想像しただけでちょっと気色悪い気もする。
「こんないいところに住んでるんだ……
「下手なとこ住んで何かあっても困るだろ」
「ああ、そっか。勝己くんヒーローなんだっけ。さっき待ってるあいだに聞いた」
…………
 苗字の口から呼ばれる、ほかの誰かの目を気にしたわけではない、俺だけのために向けられた「勝己くん」という呼称に、どうにも慣れられる気がしない。聞いているだけで、おさまりが悪いというか、なんだか落ち着かない気分になる。
 もちろん苗字は、俺の気まずさになど気付きもしないで続ける。
「ヒーローってことは、危ない目に遭う可能性もあるんだもんね。たしかに下手な家には住めないか」
「そういうことは覚えてんだな」
「一般常識とか文字の読み書きとかはね」
 これについては、俺も医師から説明を受けて知っていた。どういう機序でそうなっているのかは不明だが、個人的なエピソードに紐付かない、一般的な知識や記憶は一切失われていないらしい。
「仕事のことは」
「どうだろう。ちらっとかばんの中の仕事の書類見た感じでは、ぼんやりした感覚になっちゃってうまく意味がつかめなかったんだけど……
「望み薄、か。さっさとどうにかした方がいいな」
「うん、ごめんね」
 ついついため息交じりの物言いになってしまったことに、苗字の「ごめん」で気付く。はっとして、俺は一度、長く細く息を吐きだした。
 今のは良くなかった。個性事故に巻き込まれたのは苗字のせいではないし、罪悪感を抱かせたいわけでもない。心安らかに過ごさせるというからには、多少俺の物言いにも気を配った方がよさそうだ。
 いつもの調子で話すことはできない。そのことを、改めて実感する。
 今ここにいる苗字は、中学時代から俺の言動に晒され、耐性をつけてきた苗字ではない。これまでであれば受け流された多少の暴言も、今は慎重に取り扱わなければならない。
 ガワが変わらないから、うっかりすると失念しそうになる。しかし、ひとつでも対応を間違えば、それが致命的な断絶につながりかねない。
 根っこが苗字のままであるのなら、こいつは一度心のシャッターをおろしたが最後、二度と心を開くことはない。かりにそんなことになれば、数日たって苗字の記憶が戻ったところで、将来に重大な禍根を残しかねない。
 ただでさえ、記憶を失う前の苗字を、俺はとことん怒らせている。これ以上、余計な面倒を増やしたくはなかった。
 苗字は相変わらず室内をきょろきょろ眺めている。その様子を視界に収めたまま、俺は脳内で手早く反省する。それが済んでからようやく、俺は気を取り直した。
「夕飯は……作んのだりーな。なんか店屋もんとるか」
「デリバリー?」
 壁際の本棚を眺めていた苗字が、振り返って俺に尋ねる。
「寿司ピザ丼の三択」
「丼って何があるの?」
 寄ってきた苗字に、デリバリーの注文サイトを開いた画面を見せた。苗字は悩ましげに唸り、しばらく考えてから、
「うーん、じゃあ天丼にしようかな」
 と注文を決める。
 自分のぶんと合わせて注文を入力しつつ、俺は苗字の「天丼」という返事に、多少気分が軽くなるのを感じた。試していたわけではないものの、これはよい兆候だ。
 夕飯をデリバリーで済ませるとき、苗字がいつも注文するのが天丼だった。「美味しいって分かってるものがあるのに、ほかのものにチャレンジしたくない」というのが苗字の言い分で、それ自体はまあ分からなくはない。
 記憶を失っても、本来の苗字と同じものを注文している。たったそれだけのことが、なんとなく明るい兆しに感じられた。
 この分ならば数日なんて言わずとも、案外さっさと思い出せるんじゃないだろうか。注文を済ませた俺は、そんな楽観的な気持ちになっていた。