柚子子
2024-12-08 21:20:09
61099文字
Public ベリーベリー
 
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記憶喪失の話(+8)

爆豪長編『ベリーベリー』の番外編。本編最終話および掲載済の他番外編のネタバレを含みます。

 翌日、俺は苗字を家にひとり残して、二日ぶりに事務所に出勤した。
 個人事務所である以上、俺が働かなければ食いぶちが稼げない。むろん苗字の職場からは補償が出ているし、苗字の休みが多少長引いたところで、今すぐに家計が痛手をこうむるわけではない。が、とはいえ俺までいつまでも休んでいるわけにもいかない。
 午前いっぱいを、休んでいたぶんの雑務と、たまりにたまった事務仕事の片付けに費やした。三日前の仕事をかなり慌てて切り上げたせいで、やらねばならない仕事は山積みになっている。それはそれとして、パトロールにも出なければならない。
 代打を頼んでいたミルコからの申し送りはすでに済んでおり「礼はいらねえ。そのうちいっぱい奢れ」と太っ腹なコメントをもらっている。俺が休みのあいだにでかい事件はなかったから、さぞかし暇だっただろうとは思うが、それとこれとは別問題だ。
 どうにか午前の仕事を終えると、午後からは久しぶりに出久と同じ現場だった。仕事の切れ間、休憩時間に缶コーヒー片手に寄ってきた出久は、「苗字さん大変だって聞いたけど、どう? 大丈夫?」と、前置きもそこそこに切り出した。こいつもまた、どっかしらで事情を聞きかじっているらしい。
 建物の裏手に用意された簡易休憩所の、崩れんじゃねえかと思うようなぼろベンチに、俺らは並んで腰かける。今日の現場には、ほかにも何人かプロヒーローが呼ばれている。しかし今はあたりに人影もなく、妙に静まりかえっていた。建物のなかからは、慌ただしい声と足音が聞こえ続けている。
 手の中のコーヒーのプルタブを開け、喉にぐっと流し込む。うまくもない液体が、義務のように喉の奥に流れていく。
 缶から口を離し、舌打ちをひとつ打ってから、俺は出久に返事をした。
「どうもこうもねえ。あの根暗、思い出すそぶりすら、ちっとも見せやしねえ」
 数日間、物言いに気を付けていた反動か、ついつい口汚くなってしまう。苗字を根暗と呼んだのも、思えば数日ぶりだ。
 出久は今更俺の物言いに眉をひそめることもなく、顎に手をあて考え込む姿勢をとった。
「まだ思い出さないんだ。それは心配だね……。今日は家に苗字さんひとり?」
「ガキじゃねンだ。留守番くらいできねえでどうすんだよ」
「そういう意味じゃなくてさ」
「平気だろ。焦れったくはあるだろうが、思ったより平然としてやがる」
 そう言いつつも、その言葉にどこまで信憑性があるのかは、言っている自分でも分かったものではなかった。
 表面上はそうは見えないが、苗字がときどき見せるうつろな顔は、もしかしたら潜在的な不安感のあらわれなのかもしれない。何せ苗字は昔から、肝心なことほど口に出さない。本人が口に出さない以上は、見える範囲から、こちらが推測してやるしかない。
 出久が「そっかぁ」と、やけに実感のこもったしみじみした調子で、毒にも薬にもならない相槌を打った。
「焦れったいし、不安だろうな。記憶がないって、想像するしかないけど多分、ものすごく怖いことだよね」
「だろうな、知らんけど」
「人間って、ほかの何も信用できなくても、自分がやってきたこと、してきたことだけは基本的には信用できるでしょ。でも、それがないのって、本当に寄る辺ない感じなんだろうなと思うよ」
「まあ、だな。特に根暗はそういうタイプだ」
 苗字は他人からの意見に左右されることが少ない。自分の経験と思考に立脚して物事を推し進めるタイプだ。だから記憶喪失になっている今の苗字は、ふだんとまったく違う人間といっても過言ではない。
 苗字の思考のスピードが目に見えて落ちているのも、そういうあたりに事情があるのかもしれない。処理するために必要な経験や思考が、自分のなかから失われている。なるほど、こうして言葉にされると、いろんなことが腑に落ちる。
 しかし、だからこそ俺だって、この二日はとことん苗字に付き合ったつもりだった。何はなくても、俺だけはそばにいる。自分で自分のことすら分からず不安でも、俺が苗字の過去をちゃんと知っているから大丈夫だと、そういうつもりでいた。どの程度、苗字に伝わっているかは分らない。自己満足だといわれれば、それまでだ。
「ひとりになると、いろいろ考えちゃうだろうし、苗字さん、落ち込んでないといいけど」
「つっても、二日間みっちり俺と過ごして何も思い出してねえんだ。そろそろひとりで考えてえ頃だろ。もともと根暗はひとりで考え込むのが生きがいみてえなやつだし」
「またそんな言い方を……。というか、苗字さんもだけど、かっちゃんこそ大丈夫?」
「あ?」
苗字さんのこと心配だろうし、フォローも必要だろうし、かっちゃん自身が疲れてそうだなと思って」
 うかがうように、無駄にでけえ目でこちらを見る出久の視線を、俺は舌打ちで振り払った。
「疲れてねえわ。出久のくせに、さっきから知ったような口きくじゃねえか」
 現場だというのに、うっかり本名の方で呼んでしまったことに、言ってから気付く。しかし出久はそのことに気付いた様子もなく、表情を厳しくして俺に詰め寄った。
「心配してるんだよ。君にとっては余計なお世話かもしれないけど。どっちのことも知ってるんだから、気になるのは仕方ないだろ」
「ハッ、おせっかい」
 そんなやりとりをしながら、懐に入れた私用の携帯を取り出した。何通かメッセージを受信しているが、そのなかに苗字からのものはない。こちらから何かを送った方がいいかとも思ったが、何を送ればいいのかよく分らなかった。
 そういえばあいつは結局、過去のメッセージ、トーク履歴を確認したのだろうか。気が咎めるだのなんだの言っていたが、どうしたのか聞くのを忘れていた。
 苗字とのトーク画面を開く。余計な文章はほとんどなく、お互いに最短の文章で構成した、事務連絡のようなメッセージしか交わしていない。結婚して一緒に住むようになってからは余計に、無駄なメッセージは送りあわなくなった。もしも今の苗字がこの画面を見たら、どんな感想をいだくのだろうか。
 ふと思い立って、俺は出久に尋ねた。
「心安らかにっつーのが、どういうことだか分かるか?」
 唐突な俺の問いかけに、出久が目をぱちぱちさせて戸惑った顔をする。
「えっ、どうしたの急に。心が何?」
「医者から言われてんだ。はやく記憶取り戻すには、苗字の心を安らかにさせておくのが一番だっつって」
「ああ、なるほど。精神的な安定が大事ってことか」
「放っといてもそのうち戻るらしいが、早いに越したことねえだろ」
 そう説明すると、出久は顔をわずかに俯けて、深く考え込み始めた。雑談の一種ではあったが、どうやら出久のなかのナード魂を、何かが刺激したらしい。
 俺としても、今は少しでも多くヒントが欲しい。しばらく出久がぶつぶつ言うのに辛抱していると、
「うーん、心安らか……。ふつうに考えれば、不安がないとか、おだやかな感じ……かな」
 長々考えたわりには、大して目新しくもないコメントを、出久はぶつぶつ発表した。
「まあ、そうだよな。俺もそう思った」
「でも、そもそも記憶がない状態のひとから不安を取り除くって、無理難題のような気が……
「だァから、余計な不安を増やすなっつーことだろ」
「そうなのかな? たしかに方向性としてはそうなんだろうけど……、でも、記憶がないっていう一番大きな不安がある以上、ほかに不安なことが増えたところで、些末な問題のような気もするなぁ」
 そこまで言って出久は、ようやく顔をこちらへ向けた。
「それじゃあ今かっちゃんは、苗字さんの心を安らかに保つために、いろいろ考えてるんだ」
「どの程度効果があんのか、分かったもんじゃねえけどな」
 現に、苗字の記憶はまったく戻っていない。それどころか、日に日に他人ぶりが板についていくのを感じる始末だ。正直に言えば、八方ふさがりのお手上げ状態に近かった。
 しかし、そこまで出久に言ったところで、どうにかなるものでもない。ワンチャン中学からの知り合いの出久に会えば、何かの刺激にはなるのかもしれないが、今の苗字はあまり人に会いたがっていないようにも見える。
「かっちゃんがそうやって心を砕いてくれてるっていうのが、一番大事なんじゃないかなぁ。はやく記憶を取り戻さなきゃって心が焦るときに、そのままで大丈夫だって思えることって、かなり『心が安らぐ』のに重要そうじゃない?」
 思案する俺に、やたらと耳あたりのいいことを言う出久。心の底から言ってくれているんだろうことは分かっている。が、俺はこの空気に耐えきれず、ついつい鼻を鳴らして茶化してしまった。
「さすがに年がら年中、ガキの面倒見てるやつはそれっぽいこと言うのがうめえな」
「すぐそうやって茶化す……
「おまえが真面目腐ったこと言うからだろ」
「真面目な話だからだよ」
 溜息まじりに言われ、俺は笑いをひっこめる。そういえば最近、こういうやりとりを根暗ともしたような気がした。記憶を失う前の晩、根暗が怒って寝室に引き上げていく直前のことだ。どういうやりとりの末だったかまでは覚えていない。が、たしかに根暗は今の出久と同じようなことを言って、それから──
「あとは、いつも通りに過ごすとか」
 出久の声に、俺ははたと我に返った。出久と話をしている最中だったというのに、いつのまにか自分のなかの思考の渦に飲み込まれかけていたらしい。さいわい、出久は俺が心ここにあらずになっていたことに、気付きもしていないようだった。まだつらつらと、自分の考えを述べている。
「いつもと同じように過ごすっていうの、結構大事だと思うんだよね。たとえ記憶がなくっても、ルーティーンみたいなものは体が覚えてるだろうし……
「ルーティンなァ……
「そう考えると、苗字さんにとってのおだやかって、ただ心を凪にしておくっていうのとは、少し違う気もするけど」
「は?」
 思いがけないことを言われ、俺は思わず聞き返した。出久はなぜだか照れたような顔をして「これは僕の推測っていうか、半分くらいは想像でものを言ってるだけだけど」と妙な予防線を張ってから言った。
「だって苗字さん、かっちゃんといるときは結構、感情ゆたかなんじゃないの? 僕はあんまり知らないけど、ふたりそれぞれから話を聞くかぎり、かっちゃんといるときの苗字さんって、言い合いして、笑って、怒ってって感じじゃない?」
 出久に言われ、考える。たしかに根暗はあれで結構、感情表現がゆたかなタイプだ。でけえ声を出すことは滅多にないし、話し方も起伏に乏しいところがある。苗字を知らない人間から見れば、おとなしく静かで、場合によっちゃ薄情にすら見えるかもしれない。
 しかし実際のあいつは、まったくそういうタイプではない。好戦的で導火線が短いし、気に入らないことや納得できないことがあると、言い返さずにはいられない。自分では自分を常識人だと思っているようだが、まったくそんなことはない。
 そもそもおとなしい常識人であれば、進路選択にせよその後の人生設計にせよ、こんな行き当たりばったりな人生を生きていない。学力はあるのかもしれないが、あいつは結構アホというか、あらゆる面で考えなしなのだ。
 俺の目から見た苗字は、よく笑いよくキレまくり、人生のほとんどをノリとクソガリ勉でなんとかしている、一言えば十言い返してくる口から生まれてきたような陰キャだ。俺がいなけりゃ、今頃あいつの人生はパッとしたところのひとつもない、陰キャ根暗街道まっしぐらだったに違いない。
「僕が一番苗字さんと親しくしてたのって大学時代でしょ。あの頃の苗字さんは、たしかに落ち着いているように見えたけど、でも心安らかでいられていたのかって考えたら、かっちゃんと結婚してからのほうが、穏やかには見えるよ」
 出久に言われ、俺はしばし沈黙した。
 この二日、記憶をなくしている苗字とのやりとりや、ちょっとした仕草のひとつひとつを思い出す。いつもと同じように過ごせたかといわれれば、まったくそんなことはなかったと思う。
 何せ日常的に交わしていたくだらない言い合いのひとつすら、この二日の俺と苗字の間にはなかった。俺が物言いに気をつけていたからでもあるし、苗字がクソ生意気なことを言わなかったからでもある。
 そうして普段とずれた生活、時間が積み重なった結果が、苗字のあのうつろな表情だったのだろうか。
 だとしたら、けれど──、それでも。
……それでも俺は、多分、やり直してえんだと思う」
 気が付けば、そんな言葉がぽろりと口からこぼれ落ちていた。気が付いたときには後の祭りだ。
 しかもさらに悪いことに、そのこぼれ落ちた最初の一言が呼び水になったかのように、言うつもりのなかった言葉は、あとからあとから喉からあふれてこぼれ落ちてくる。
「みっともねえと、自分でも分かってる。けど、今のあいつは俺のことも覚えてねえんだ。……つまり、中学のころの、クソみてえだった俺のことも知らねえまま、今の俺だけ見て、俺って人間を理解しようとしてる」
 「勝己くん」と、そう根暗に呼ばれるのを聞くたびに、今ここにいるのは苗字であって苗字でないのだと、嫌というほど実感した。
 苗字が呼ぶ「勝己くん」は、持て余した能力を笠に着るようなマネをしない、暴力に訴えかけることも他人を見下すこともしない、ただただ優しく、甘ったるいだけの人間だ。この世のどこにも存在しない、虚構で糊塗された俺。その偽物の俺に、何も知らない苗字が笑いかけている。
「どのみち放っておいても数日で元に戻ると、分かっちゃいる。分かっちゃいるんだが」
 出久の言うとおりに普段通りの生活を営んだところで、本来ならばおそらく、何の問題もなかった。それならそれで、なるようになった。むしろ、そのほうが苗字の心は穏やかだったのかもしれない。
 それでもなお心安らかに過ごさせたいと思い、優しくしたいと、やり直したいと思ったのは、俺の傲慢なエゴだった。
 苗字は自分勝手な女だ。徹頭徹尾、そういうやつだ。わざわざ俺が過剰に気を回してやらなくても、最低限必要な情報と環境さえ整えれば、自分で自分の機嫌くらいはとっていくだろうと、本当のところ俺は分かっていた。
 分かっていて、気付かないふりをした。
「ずっと、中学時代のクソだった頃のことが、喉んとこに引っかかってるみてえな、……そんな感じ。あの頃の俺がやったことはどうにもならなくても、今の苗字になら、っつーのが、どうしても」
「だから今の、何も覚えてない苗字さん相手に、やり直しをしたいの?」
「そんなこと、できるもんでもねえけどな」
 分かっていても、今でも俺は、考えずにはいられない。苗字と一緒になった今ですら、考えてしまう。
 もしも中学時代の俺が、もっとまっとうな俺だったら。苗字を無駄に脅しつけたりもせず、怒鳴りつけもせず、罵りもしなかったら。
 そうしたら今頃、苗字が未だに捨てきれずにいる、中学時代の俺の行いへの嫌悪も、なかったことにできたのだろうか。
 俺は苗字がこれまでの人生で感じた嫌な思いのうちの、そのひとつにならずに済んだのだろうか。
……大学生のとき」
 奇妙に落ちた沈黙を破ったのは、おだやかな出久の声だった。
 声につられて、出久のほうを向く。出久はこちらを見ていなかった。おそらくあえて、視線をそらしてくれていた。
「大学二年になったばっかりの頃、かっちゃんに苗字さんを頼まれたときのこと、かっちゃん覚えてる?」
……忘れた」
 嘘だ。本当はちゃんと覚えていた。
 苗字にまつわる出来事のなかで、あれほどまでに情けなく自分の無力を噛みしめたのは、苗字に別れを切り出させたときと、あのときの二度こっきりだ。
「僕はあのときまで、かっちゃんと苗字さんは、なんていうか、フィクションのなかのふたりみたいな、……波乱万丈ないろんな壁をのりこえて結ばれるふたり、みたいなものだと思ってたんだよ。この話、したことあったっけ」
「初耳。けどま、クソナードらしいご都合思考回路だな」
「うるさいなぁ……。でも、そうじゃなかったんだなって、あのときかっちゃんの話を聞いて思ったんだ」
 出久の言葉を、俺は自分のなかで繰り返し反芻する。フィクションのなかのふたりみたい──換言すれば、都合のいい、理想的なふたり。
 想像するだけで、鼻で笑っちまいそうになる。
 どう考えたって、俺たちはそんないいもんじゃなかった。実際の俺たちなんか、ずっと、うまくいかないことばかりだった。それでもどうにか、ここまでやってきた。どうにかやろうと足掻き、もがき続けたから、ここまで来られた。
「中学時代のあのかっちゃんと、あの苗字さんだったから……だから今のふたりがあるんだって、僕は思うよ。ああいう出会い方をして、いろんな偶然とめぐりあわせが重なって、それで今のふたりになってるんだと思う」
「要するに、やり直しなんか意味ねえってことか? 奇跡的な、バグみてえなもんだからって?」
「バグって表現はともかく、少なくとも、苗字さんにとってはそうなんじゃないかな。そりゃあやり直しをすれば、かっちゃんの気持ちの整理にはなるかもしれないけど」
「ったく、おまえに独りよがりを指摘される日が来ようとは。えェ?」
「なっ、そんなつもりじゃないって!」
「へえへえ」
 ありがとうの一言も言えず、俺はまた茶化すように言う。礼を言うかわりに、出久の手から空の缶を取り上げると、出久は「素直じゃない……」と目を細めて、呆れたような顔をした。