フェイクファー

伊藤と一条と佐原 高校生パラレル
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2009年


 忌々しいことに3人の電車は一緒だったが、佐原とかいう男はかすかなギターの音をイヤホンから漏らしながら、カイジは所在なげにぼんやり外を見ながら、一条は参考書を読みながら、無言でそれぞれの駅で降りた。
 最後に残された一条は、全く頭に入ってこない参考書を読むのを止めて前を見た。明るい車内を反射する窓にはいつもと変わらない自分の顔が映っている。いつもと変わらないはずだ。

 しかし、一条は帰宅するなり制服も脱がずにベッドに倒れ込んだ。あのうちどちらか一人でも同じ駅で降りていたら、家までたどり着けなかったのではないか、というくらい疲弊していた。
 なぜこんなに疲れているのかわからない。
 暗闇の中、佐原の言葉が脳裏で繰り返して再生された。何度リピートしても同じだ。何度吟味しても、あの言葉が自分にとって特別意味のあるものには感じられない。音楽教師は黒崎教授への階段の1段に過ぎない。だからショックでも何でもない。ましてや佐原のいうように、大事だなんて一度たりとも思ったことはない。
 そこまで考えて、一条は、自分が泥沼のなかにすっかり沈み込んでしまっているような気分に襲われた。
 この階段がもし落とし穴だったとしたら、と考えなかったことがないわけではない。クラスの女子と比べても明らかにたるんでいた肌も、ハンドクリームでぬめる手も、ピアノを弾くために短く切られた爪も、そこに塗られた透明なマニキュアも、思い出すと嫌悪の感情しか沸いてこない。
 それでも一条は抱かれていた。音楽教師の先に、会ったことのない黒崎教授を見ながら。
 一度たりとも思ったことはない。が。
 泥沼から這い出す方法が分からず、一条はコントロールできない自分の感情に愕然とした。そのうちに、涙が出てきた。泥沼からの這い出し方どころか、なぜこんなに疲れているのかも、なぜ泣いているのかも、なぜ佐原とかいう奴の軽い言葉に動揺させられているのかも、なぜカイジにあんな話を聞かせたのかも、何もかもわからない。ああでも、いや、俺は、
 俺は間違ってなんかない。
 一条は起き上がった。
 物理の予習をするために、制服をハンガーに掛け、部屋着に着替え、スタンドのスイッチを入れた。