フェイクファー

伊藤と一条と佐原 高校生パラレル
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2009年


 一条は、薄暗くなった校舎を、上へ上へと登っていた。新年度になってからしばらく経っているはずだが、文化部も運動部も、大半が、普段の活動よりも新入生の勧誘に力を入れているようだった。中途半端なこの進学校は、部活動も中途半端なのに、こういった類のイベントごとには余念がないようだ。
 伊藤カイジは屋上にいるらしかった。なんでも朝からずっとそこにいるらしい。何もない屋上で半日、一体何ができるのか、一条には全く理解できない。
 もう1つ階段を上れば屋上というところで、一条は空気が動くのを感じ、顔を上げた。誰かが屋上から出てきたところらしかった。カイジかと思い、一条は目を凝らす。
「もう、返事ちょうだいよ」
「ごーめんごめん、ちょっと話してて」
 カイジの声ではない。降りてきたのは、短い髪を金色に染めた男と、男と比較すると若干地味な女だった。二人は一条をちらりと見、一条も彼らをちらりと見、一条だけが少しだけ面食らって足を止めかける。女のほうに見覚えがあったからだ。しかし、特別声をかけることはしない。2つの軽い会話の声は階下へと降りていく。
 すれ違った女、毎朝卑猥なメールを打っている彼女とは、一方的な面識だった。隣の金髪は情事のお相手の一人なのだろうか。 まあ、お似合いだ、と思いながら、一条は鉄の扉に手をかけた。
 カイジは入り口のすぐそばの高いフェンスに寄りかかってタバコをふかしていた。足元には結構な数の吸殻が散らかっている。一条を見てぎょっとしたような顔をし、姿勢を正したカイジの上履きがその吸殻のいくつかを踏んだ。
「やあ、カイジ。久しぶり」
……
 カイジは答えない。一条は沈みかけの夕陽に目を刺されて顔をしかめた。眼球に緑色の残像が焼き付く。
「今朝ぶりか」
「なんだよ、口止めか?」
 優等生も形無しだな。カイジは吸殻をぽとりと足元に落とし、上履きのつま先でちょっとこすった。一条はそれを目線だけで見ながら、
「分かってるじゃないか。それなら話は早いんだが、」
と、言葉を句切る。カイジは怪訝そうな顔をしてこちらを見る。
「せっかくだから、興味があったらカイジくんも混ぜてあげようと」
思って、と続けようとしていた言葉は、頬ではじけた衝撃のせいで消えた。
 一条は重心のずれた上半身を戻し、ぐっと踏みとどまった。口の中が切れているかどうか舌で検分する。血の味は今のところ無かった。
 一方、一条を殴ったカイジは、殴ってしまった自分自身に対して狼狽しているようだった。昔、カイジを《いい奴》と言ったことを思い出す。一条は単純におかしくて、口角をあげた。《いい奴》だよな。お前。
「この野郎
 一条は我慢しきれなくなり、声を出して笑った。屋上で一条の高笑いは「カカカ」と響く。
「嘘だ、嘘!じゃあ、これ、口止め料に、」
 一条はポケットから万札を数枚取り出して、カイジのほうに投げた。二つにたたまれただけのそれは、風に舞って、不安定に着地する。カイジが、今度こそ頭にきた、という顔で一条を見たので、半歩下がって不用意に殴られないよう距離をとった。
「いらないし興味ねえ
「それは残念俺のなけなしの小遣いなのに」
 なけなしの小遣いは、裏返ったり表になったりしながら、一条たちから離れていく。カイジはそれを目で追ったが、やはり拾いはせず、こちらを再び見た。
俺は、お前が誰となにやろうが興味ねーよなのにお前、何がしたいんだよ」
「だから、口止めだって言ってるだろ、」
 一条は、は、と短いため息をついた。
「お前がどう考えてるか知らないけどな、」
「だから興味がねーって言ってんの!」
「ホントか?」
 黙り込むカイジに向かって、なあカイジ、と呼びかける。それから胸中で、お前は、と続けた。お前はいい奴だから、多分聞いちゃうんだろうな。
 今になって切れたのか、一条の口の中に苦甘い血の味が広がってきた。