フェイクファー

伊藤と一条と佐原 高校生パラレル
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2009年


 音楽教師とやることになったのは、単に偶然が重なったからに過ぎない。
 一条は、ある大学の教授に心酔していた。黒崎というその工学博士の教授は、鋭い観点を美しい理論で語ることのできる能力を持っていた。一条は、黒崎の論文の載った過去の雑誌を、3割も理解できないままむさぼるように読んだ。黒崎の研究は、微量ながらも着実に進行しており、学会誌にコンスタントに取り上げられている。ということは、黒崎は学会での地位も確立しているということである。いくら優れた頭脳を持っていても、学会の中で社交能力を発揮できなければ、学者など生き残ることはできない。黒崎はその点もクリアしているのだ。
 となれば、一条の歩むべき道は簡単に絞られる。一条は、黒崎教授と同じフィールドに立つために、何はなくとも勉強した。もともと一条は、努力をすることを全く苦にしない性質である。中学のときは同級生を見下すためだけに勉強していたために、教師間での受けは決して良くなかったのだが、黒崎教授という目標ができた以上、万全を期すために、内申点も稼ぐことが必要だと考えた。体育会は勉強の邪魔になるので却下した。生徒会も時間をとられすぎるので良くない。あれは政治ごっこが好きなやつに任せればよい。一条は考えた結果、全国コンクールに出たり出なかったりしているオーケストラ部を選んだ。
 どんぐりの背くらべの部員の中で突出するために、一条は、朝の時間だけは個人的な練習時間に割くこととした。チェロなどもともとやっていたわけではないが、練習の甲斐あり、2年生の半ばころには、3年生の生徒も一条の演奏には遠く及ばなくなっていた。
「それは、ソロの話でしょ」
 音楽教師は、そう言って一条の鼻をへし折る。
「オーケストラは、一条1人がちょっとうまくたって、そんなに関係ないんだよ」
 冬の凍りそうな空気の中、手を摩擦熱で温めながらチェロを触る一条に向かって、音楽教師はけだるそうに、楽しそうに言った。音楽室には2人だけだったので、彼女は暖房をいれようともしなかった。その代わり、あのぬるぬるした、ハンドクリームのたっぷりとついた手で、
「手、あっためてあげようか」
と言った。
 許せないのは彼女の苗字が黒崎教授と同じクロサキということであった。一条は彼女を呼ぶときは頑なに「先生」で通した。教師ばかりの職員室でもわざとそうした。それでも彼女は間違いなくこちらを見るのだった。
 頬がばりばり言いそうなほど寒い廊下から、その日も一条は「先生」とだけ声をかけた。目線で入室許可を受けた一条が、楽譜のコピーを受け取るために、吐き気のするほど温まった職員室の端に座っている音楽教師のところへ歩いていくと、彼女の隣に座っている白衣を着た理科教師が「そうだ。クロサキ先生」と言った。
「昨日見ましたよ、論文。旦那様、すごいですね」
 一条は後ろからいきなり殴られたような気分でそれを聞いた。奇しくも一条は昨日、駅3つ離れた国立大学で黒崎教授の最新の論文を読んだばかりだった。
 音楽教師は、わたし工学なんてさっぱりわかんないんですけどね、と言った。

 翌朝は雪が降っていたが、一条はいつもと全く同じ時間に登校した。音楽教師は底冷えする音楽室で、やはり暖房をつけずに、ピアノの前に座っていた。
「先生、伺いたいことがあるんですが」
何」
「先生の旦那様は帝大の黒崎教授でいらっしゃるんですか」
だから?」
 一条はジグソーパズルを完成させたような気分で、その日初めて、彼女の誘いに乗ってやった。すべては偶然だし、俺の階段の1段に過ぎない。一条はがちがちと歯を鳴らしながら、黒崎教授の妻と姦通した。