フェイクファー

伊藤と一条と佐原 高校生パラレル
初出・Webサイト「残りの夜が来た」2009年

 一条の日課は、まず、電車の中から踏切の音が風に飛ばされていくのを聞くことだ。そして、半音階下がったその不快な音をバックに、毎朝同じ車両に乗る同じ高校の女のいじる携帯電話の画面を窃視する。
 女がどの学年のどのクラスなのか一条は知らないし、興味もないが、目立たない程度に短くしたスカートと、目立たない程度に着崩した制服、化粧をしない地味な顔に没個性的な眼鏡を掛け、垢抜けないストレートパーマの地味なこの女が、毎朝誰かと交わしている事細かな情事のフィードバックは、非常に悪趣味で、非常に興味深かった。一条は嫌悪感と軽蔑心と好奇心が顔に表れぬよう細心の注意を払いながら、絵文字の踊る画面を女の耳越しに眺めた。
 ふたつ重なった小さなハートマークが連打されると概ね女のメールは完結となり、電車は高校最寄りの駅に到着する。一条は女の前に滑り出て先に電車を降りた。毎朝ほとんど変わらない顔ぶれの学生達の間をすり抜け、挨拶をしたほうが良いと思われる者には挨拶をし、そうでない者は無視しながら校舎へと向かった。地方都市の通学路は恐ろしいほどに秩序だっていて、一条にとってはとてもやりやすい環境だ。

 音楽室の戸は古びたオレンジ色に塗られている。木造の戸はいつものように蝶番を軋ませながら開く。蓋を閉じたグランドピアノの上で書き物をしていた音楽教師は、けだるそうに「おはよう」と挨拶をした。
「おはようございます」
「最近《あされん》しないの」
「もう引退しますから」
「あ、そ、」
 オーケストラ部に所属している一条は、昨年度まではせっせと音楽室に通い、一人でチェロを弾いていた。オーケストラとは名ばかりの中途半端な集団で、そのようなことをしているのは一条一人だったが、無論、一条はその集団により多くの貢献をするために一人で練習をしているのではなかった。中途半端な集団でも、そこに所属する限りは唯一無二の抜きん出た存在になりたかっただけである。そういう自分がオーケストラの構成員として適材でないことは入部する前から分かっていたが、部の誰もそのことを指摘するものはおらず、むしろ一条の行為を褒め称える間抜けか腑抜けばかりだった。この教師以外は。
「つまんない、一条のへたくそなチェロが聴けなくて」
「それは大変心苦しいことです」
 ねっとりした欲望のようなものをうっすら声に絡ませながら、教師が日課のように自分のほうに歩み寄ってくる。
 一条は気づかないふりをして再びオレンジの戸に手をかけようとしたが、ハンドクリームでぬるりとした手がそれを阻んだ。切りそろえられた爪に媚びるように塗られた半透明のマニキュアが嫌に目に付いた。
何しに来たの、お前」
「ご挨拶を」
あ、そ。」
 一条は口紅の味が大嫌いだった。それを今再確認した。にやりと笑うと、教師は何を勘違いしたのか、ふふ、と笑った。どいつもこいつも盛りやがって。死ね、クズ野郎共。