めまめ
2023-10-31 22:32:59
20595文字
Public 穂荒
 

穂荒ワンドロワンライ まとめ

穂荒ワンドロワンライ様用に書いたお話のまとめ。全体的に加筆修正済み。ハッピーエンドではないものが含まれますので、ご注意ください。


第二回お題「筋トレ」「秋の夜長」「洗濯物」

 そういえば、洗濯物を取り込むのを忘れているような気がする。荒船は文庫本を三分の一ほど読み終わったあたりで、ふと思い出した。
 夕方を告げる鐘が遠くで鳴っている。その音が、物語に没頭していた荒船を現実世界に引き戻した。座椅子に座ったまま、外界と繋がるガラス張りの戸を確認する。前の住民が残していったありがたい物干し竿には、やはりベッドシーツが一枚干されたままになっていた。
 映画の原作になった小説。続きが気になって後ろ髪がひかれたが、やるべきことを先延ばしにしても仕方がない。荒船は書店で購入した際に無料でついてきた栞を挟んでから本を閉じた。ついでに凝り固まってしまった肩をぐるりとまわす。
「手伝うか?」
 穂刈が腕立て伏せをしながら言った。腕をめいいっぱい伸ばした状態でも、苦しそうな素振りもなく荒船の方をしっかりと見ている。
「いや。シーツ一枚とり込むだけだから、別にいい。気にすんな」
 荒船は立ち上がり、ベランダに続く戸を開けた。からからと戸車がまわる。そよ風にのってきた甘い花の薫りが荒船の鼻をくすぐった。隣のアパートの軒先に植えられていた、小さなオレンジ色の花。あれはなんという名前だったか。
 部活帰りの学生の声に混じって鈴のような虫の声がする。夏の間は太陽が降り注いでいた時刻でも、秋の入口である今の時期は薄暗くなってしまうから、なんだか時差ぼけにでもなったみたいだった。荒船がサンダルをつっかけたままぼうっと階下を眺めていると、風に靡くシーツが忘れてくれるなとはためき主張を始めた。
 荒船は我に返り、洗濯バサミを外しにかかった。両端から中央に布を寄せて、一気に纏め上げる。放置されていた布は夜気を吸ってひやりと冷たい。日中に取り込んでおけば太陽でふわふわになっていただろうに、もったいないことをした。洗い立てのシーツに寝転ぶのはお預けだ。荒船は少しだけ残念な気持ちでシーツを胸に抱いた。
 掃き出し窓をあけて室内に戻り、片手でカーテンを閉める。暖房はつけていないが気温差で部屋の中が暖かく感じた。腕立て伏せを終えたらしい穂刈は、ヨガマットの上で腹筋を始めていた。その深緑色のマットは、穂刈が前触れもなく、ひとり暮らしをする荒船の部屋に持ち込んだものだ。
 筒状に丸められたヨガマットを背負う穂刈がインターホンのカメラに映し出されたとき、荒船は一瞬言葉を失った。
「床が汚れねえようにと思ってな、筋トレするときに」と穂刈は主張した。
「そこまでして人の家でトレーニングする必要があるか?」荒船が首を傾げると、「荒船の部屋に居る時間が多いからな。だから効率的なんだ、こっちでも筋トレができたら」
 穂刈は何食わぬ顔で答えた。
 そう言われたらそうか。
 荒船はあっさり納得した。各々テレビを見たりごろごろしたりと勝手に過ごしているのだから、そこに筋トレが追加されたところで何も支障はなかったし、置いていく代わりに自分もマット使っていいかと交渉すれば、穂刈はむしろ嬉しそうに頷いた。
 ヨガマットの上で、穂刈は淡々とVの字になるよう上体と両腕を同時に持ち上げ、腹筋に負荷をかけている。がっしりとした体躯は努力の結晶だ。組んでもらったトレーニングメニューを荒船が余裕で完遂できるようになっても、これほどの筋肉はつかないかもしれない。
 荒船は手に持っていたシーツを床に置いた。それから緑色のマットの端に寝転んでタイミングを計る。
「危ないぞ荒船」
「んー」
 穂刈の身体がマットに仰向けになった隙を突き、筋トレ真っ最中の腹に頭を乗せる。苦しげな唸り声をあがったが、荒船は気にせずに後頭部で腹筋の感触を味わう。贅肉が一切ない腹は、枕としては固くて寝づらいかもなと結論づけた。
 穂刈が上半身をゆっくり起こした。ずるっと滑り落ちかけた荒船の頭を片手で支えつつ上体を完全に起こし、首にかけたタオルで汗を拭いてから、荒船の瞳を覗き込んでくる。
「出ちまうだろ、内臓が」
 その苦情はもっともだ。それでも穂刈は声を荒らげずに、荒船の下唇を軽くつまむだけだった。影浦がここにいたら「荒船のことを甘やかすな」とまた怒る気がした。
「なあ。外、もう暗いから。泊まっていけよ」
 荒船は穂刈を見上げながら言った。気恥ずかしくて視線が泳いでしまったことは気付かれているはずだが、この精一杯の言い訳は茶化されなかった。
 穂刈は分厚い掌を荒船の頭と背中にまわして、そのままシーツの上にころんと転がした。トレーニング後で体温が高くなった身体が、上に覆いかぶさってくる。
 すると穂刈のこめかみから流れ、顎を伝った汗が、ぽたりとひとつぶ唇に落ちてきた。穂刈が指で拭おうとするが、その前に荒船は、それを自分の舌で舐め取った。
「しょっぱいな」
 そう呟いたことで、穂刈の眉間にしわが寄る。そこには衝動や我慢だとかそういった感情と、はっきりとした欲が混ざっていた。
 穂刈の顔がぐっと近づいてくる。やわらかい唇が表面に触れて、どんどん深くなっていく。呼吸は逆に浅くなり、荒船は白い波を掴む。冷たかった布はもうすっかり人肌に染まり、二人を受け止めていた。
 息を吸えばシーツから太陽の残り香がした。せっかく洗濯をしたのに、長い夜が明ける頃には、二人の汗のにおいで上書きされてしまうだろう。荒船が息を整えている間にも、穂刈は汗まみれのタンクトップを脱ぎ捨てていた。これも明日の洗い物に追加になる。
 ぐしゃぐしゃになったシーツも、それを洗い直す手間も、いつの頃からか愛しいと思えるようになった。
 しかし荒船にはもう、明日の天気を考える余裕は無かった。秋の訪れを歌う虫の合唱も耳に入ってこない。穂刈の声と手だけが、荒船を翻弄していく。