旅と夢の狭間にて

FF14の二次創作です。
暁月のフィナーレ(6.0)までのネタバレを含みます。


 暗闇の中で誰かの声が聞こえた。
「思い……出して……?」
 いったい何を?
 目覚めたばかりの頭にはぼんやりと霞がかかっているようで思考が上手くできない。暗い底からわずかに拾いあげた何かも、繋ぎ留めることはできずにばらばらと霧散していった。
「ああ、目が覚めたのか」
 少々しわがれた低音。声はすぐ隣から降ってきた。
「このまま起きなかったらどうしようかと思っていたところだ」
 それから「目の前で子供に死なれるのはさすがに寝覚めが悪いからな」と、あくび交じりに続いた言葉に何かが引っ掛かった。
 子供? 誰のことだ?
 体に被さっていた毛布からもぞもぞと右手を出して顔の上に翳した。思っていたものよりも一回り以上小さい。触れたら柔らかそうだ。握って開いて、また握って。それを何度か繰り返す。
 どうやらこの小さな手は、自分のもので間違いないようだ。
「何やってんだ? 体が冷えるぞ」
 声の方に目を向けると、一人の男が肩肘をついて寝そべっていた。雑にそろえた黝い髪からは長い耳がぴんと上に伸びている。顎には同じ色の無精髭。同族の大人だ。いかにも眠たそうな仕草とは裏腹に、琥珀の瞳は異変を見落とすまいと鋭くこちらを観察している。
 たしかに男の言う通り、毛布から出した腕と肩がすっかり冷えてしまっている。吐く息が白い。ここは気温がかなり低いようだ。
 元居た場所に腕を収めようとすると、毛布の中で温かなものに手の甲が触れた。ぺたぺたとその感触を確かめていると隣の男がむず痒そうにしていた。
 状況を整理する。一つの毛布にくるまって男と一緒に寝ている。どちらも衣服は身に着けていない。
 この状況に至るには何か理由があったはずだ。すぐには思い出せない。思い出せないが、男に背を向けて少しだけ身体の距離を離そうとした。
「おい、離れるな。せっかく温まった体がまた冷たくなるぞ」
 首根っこを掴まれ、気付いた時にはすっぽりと腕の中に納められていた。
「性別も分化してない仔兎に変な気なんて起こさねぇよ」
 耳元でぶつぶつと呟く男の声。密着しているところからも振動となって直接響いてくる。
「もう一回寝とけ。まだ夜明け前だ」
 さっきまで死にかけてたんだからな、お前。
 それを最後に声は途切れ、互いの体温と鼓動の音を感じている内に瞼が重くなってきた。
 ああ、これはあの日の記憶だ。師匠と初めて出会った時の……
 眠りに落ちていく中でアゼルは思い出していた。まだその名で呼ばれていなかった頃の、冷たい森で過ごした日のことを。

 ある年の冬、三日三晩続いた雪が森の深緑を白銀に塗り替えた。
 それは数十年ぶりの大寒波だったという。聖地ゴルモアからはだいぶ北に離れた場所とはいえ、この集落でこんな異常気象は経験した覚えが無い。年配の者でさえそう口にするのだから、子供たちにとって、それは生まれて初めて目にする景色だった。
 ひらひらと空から降ってくる白くて冷たいものに、初めの一日は興奮で大騒ぎだった。しかし雪を知らない土地に備えは碌に揃っていない。次の日も、その次の日も続いた雪は森をすっかり閉ざしてしまった。家の外を歩くことすらままならない。子供たちは身を寄せ合い、寒さに耐え忍びながら雪解けを待つしかなかった。ただ一人を除いて。
 白に埋め尽くされた森。ざくざくと、辺りには赤土色の小さなヴィエラが雪を踏み鳴らす音ばかりが響いている。その子供は自分の膝下ほどもある雪をかき分けながら、形ばかりの防寒着も雪まみれにして一歩、また一歩と足元を確かめながら進んでいく。
 まだ仔兎と呼ばれる年頃の子供が、こんな時にどうして一人で集落の外に出ているのか。もしも大人が通りかかったならばすぐに連れ戻そうとしただろう。雪に閉ざされた森は普段のものとは勝手が全く違うのだ。何が起きるかわからない。
 はぁはぁと吐く息を荒くしながら子供は雪の森を進んでいく。水雪に濡れた衣服はずっしり重く、手足の指も冷たいのをとっくに通り越してじんじんしている。
 そろそろ戻らないとまずいかもしれない。冷静に考える一方で、ここまで来て引き返せるかと気持ちが反発した。
 母さんの誕生日に自分で狩った新鮮な肉をプレゼントするって、ずっと決めていたんだ。それにあいつら……この目の色をからかう奴らを見返してやるんだ。お前たちにできないことをやってやったぞって!
 顔を上げ、二色の瞳で前を見据えた。金と紺青。それは昼と夜の色。
 後にアゼルと名乗る彼が住んでいた集落の中には、他に持つ者のない色だった。
 気持ちを奮い立たせたその時、前方の木立の間で草葉が揺れた。ドサ。枝の上に積もった雪が落ちてくる。そこに目を凝らしていると、雪に紛れて白地に青の混ざった獣の足が見えた。あの鱗の柄はラプトルだ。それほど大きくはない。上々、これならきっと自分でも仕留められる。
 背中に括りつけていた木の弓に手をやったが、かじかんでぶるぶると震える指先ではなかなか取り出すことができない。早く、早くと気を焦らせながら、なんとか結び目を解いた。
 矢を番える。狙うのは頭。一撃で仕留めなければ。
 それなのに指が、指の震えがおさまらない。早くしないと逃げられてしまう。落ち着け、落ち着け……
 大きく息を吸って、止める。ひゅっと吐き出しながら矢を放った。
 手応えはあった。しかし矢は獲物の頭を貫いたのではなく、足の付け根のあたりに刺さっていた。ギエエェと叫びを一声あげて、獣は反対の方向へ駆け出した。
 逃がしてたまるか!
 腰に付けていた小ぶりのナイフを手に持って、獲物の後を追いかける。ラプトルは矢の刺さった足を引き摺っていて速度はそれほど出ていない。雪に行く手を遮られているのもあるだろう。それはこちらも同じこと。転ばないように注意して、草も雪もかき分けて速く、速く!
 緩やかな上り坂に差し掛かり、ラプトルの速度が更に落ちた。少々きついがここで速度を落とさなければ、あと少し、もう少しでナイフが届く。
 眼前を走るラプトルが進路を右に変えた。その時。
「え……?」
 同じように曲がろうとして一歩前に出した右足。踏み抜く感触は得られない。足元が崩れていく。
 落下の浮遊感の後、背中に衝撃があった。それはたちまち激しい痛みに変わる。仰向けに見上げた少し先に、雪の庇が崩れる様がやけにゆっくりと見えた。
 次の瞬間、雪の滝が彼めがけて落ちてきた。叩きつけるような音。息ができない。窒息しないように咄嗟に鼻と口を手で塞いだ。どれだけの間そうしていただろうか。一瞬だったその時間は永遠にも感じられた。
 気が付いた時には、体の上に積もった重みが彼のことを地面に押しつけていた。体を起こそうとしても雪の塊はピクリとも動かない。
 雪というのはフワフワと降ってくるクセに、みんなで集まるとこんなにも重くなるんだな。頭の隅でそんなことを考えながらも、彼は最悪の事態を想像し始めていた。
 もしこのままずっと動けないでいたら……
 答えは明白だ。現に今も体から温度がどんどん奪われている。
 何とかこの冷たい重みから這い出なければ。藻掻いてみようとしても指先を動かすことすらままならない。
 何度も何度もそうしている内に、太陽の位置が低くなってきている。駄目だ、このまま夜になったら全部終わりだ。家に帰れない。死んでしまう。そう思った途端に、涙がこみ上げてきた。胸が苦しい。体中が痛い。なんなんだこれは。こんなはずじゃなかった!
「ああああああ……!」
 誰か、誰か助けて!
 彼は叫んだ。残った力を振り絞って。声をあげて泣きじゃくり、助けて欲しいと叫び続けた。降って湧いた理不尽に、己の無力さに、ままならなさに腹が立つ。終わりたくない、こんなところで終わりたくない。精一杯抗いながら。
 やがてその声も涸れ果てて、とうとう身体の感覚も失われてきた。
「おい、誰かいるのか!?」
 声が聞こえた。男の声だ。
 冷たい胸の中にわずかに光が生まれた。しかし声の持ち主の姿を確かめるよりも先に、彼の意識は真暗な闇へと落ちていった。

 夜が明けて目覚めると、隣に男の姿は見えなかった。
 寝たままの状態で辺りを見回した。丸太を組んで出来た壁が四方を囲んでいる。この空間には大人二人がかろうじて寝転がれるほどの広さしかない。寝床の他に置いてあるのは粗末な物入れ程度。窓の代わりに切り取られている壁の四角からは、すぐ近くにある木の枝が真っ白な雪を被っているのが見えた。
 ここは森の中にある護人の隠れ家の一つだろう。外から見たことはあったが中に入るのは初めてだった。
 もっとよく見てみたい。起き上がろうとしたら背中がずきずきと激しく痛んだ。
……っ!」
 堪らず悲鳴が口から漏れる。それを聞きつけたのか、階段を登る足音がして、出入り口のところで男が顔を覗かせていた。
「生きてるかー?」
 痛む体をなんとか起こして頷いてみせた。その動作も背中に響いて痛みが走る。
「お。起きれるのか。頭が痛いとか気持ち悪いとか、そういうのはないか? 服は乾かしておいたから、大丈夫ならさっさと着がえてこっちに来い。火に当たって飯を食え」
 男が乾いた服と外套を投げて寄越した。立ち上がるのもやっとの有様だったが、時間をかけて男の言う通りにした。
 よろよろと細い階段を降りていくと、少し離れたところに焚火の煙が立ち昇っていた。風はないが雪の朝の空気は冷え冷えとしている。火の温かさがありがたかった。
 焚火の周りの雪は退けられていて、重ねた古布が敷かれている場所があった。ここに座れということだろう。
「森で火を使うのは護人に嫌な顔をされるんだがな。緊急事態だったんだと、あとで一緒に謝ってくれよ?」
 そう言って手渡されたのは金属製の使い込まれたコップ。湯気が立っていて食欲をそそる匂いがする。中の赤みがかったスープには豆と干し肉の欠片が浮いていた。
「いただきます」
 スープは熱かった。とても熱くて、それが生きていることを思わせられて、なんだか涙が出そうになった。火傷に気を付けながら、あっという間に平らげた。
「で、お前はなんであんなところで埋もれていたんだ?」
 隣で火の世話をしながら男が問いを投げた。
 まずは助けてもらったことに礼を言って、それからぽつりぽつりと説明をした。自分のこと。どこから来たのか。なぜ雪に埋もれていたのか。
 男はじっと聞いていた。右手が弄ぶように顎の髭に触れていた。
 話を聞き終わると男も自身のことを話し始めた。名乗った名前の響きは護人のものではなかった。男の顔は集落の近辺では見たことがない。護人でもない人間が、どうして雪深い森に立ち入っていたのか。それを聞くと男は口の端を上げて「何でも屋みたいなものだからな」と嘯いた。
「こんなところに雪が降るのなんて、めったに見れないからな。ちょいと調べたいこともあって、ここの知り合いに頼んで森に入らせてもらった」
 その道中で大きな音を聞き付けて、付近の様子を確かめていたところに子供が雪に埋もれているのを見つけた、というのが経緯らしい。
 焚き火の爆ぜる音が、会話の途切れ目にやけに大きく聞こえた。
「森を、自然を舐めるな」
 火に薪を投げ入れながら男が言った。平坦な声は叱りつけられるよりも深く胸に刺さった。
「俺が助けなければお前は死んでいた」
 返す言葉はない。全くその通りだ。膝の上で拳を強く握りしめた。雪に焼けて赤くなった皮膚が悲鳴をあげている。
 ドサッ。背中の向こうで雪の落ちる音がした。この音は、よくないものだ。雪の滝が痛いほどに降ってきて、重くて冷たい塊に閉じ込められる……
 あの時の、死に至る温度が体の奥底に蘇った。唇が青ざめているのがわかった。嫌だ、もう一人で雪に埋もれるのは! ぶるぶると震える腕で膝を抱きかかえた。
「怖いか?」
 頷いた。
「森が怖くなったか?」
 逡巡して、頷いた。
 火の傍にいるというのに指先は震え、足の先からは凍える感触が這い上がってくる。
 雪の冷たさが、切りつける静寂が、凍える死の気配が、体の根幹に刻み込まれて離れない。
 森はこんな表情も持っていたのか。こんなのは知らなかった。誰も教えてくれなかった。森とは、こんなにも死と隣り合わせだったのか。
 森を生かし森に生かされよ。生まれた時からそう教えられ、木々の豊かな緑に親しんできたというのに。たった一度の失敗のせいで、今いるこの場所が恐ろしくて体の震えが止まらない。
 この震えは、これから先も自分の中に残り続けるのだろうか。嫌な考えが頭を過る。もしそうだとしたら、ラヴァ=ヴィエラの一人として「これ」を抱いたまま、はたして真っ当に生きることができるのか……
 当たり前にあった足元が、がらがらと音をたてて崩れ落ちていくような気がした。
 震える彼のことをじっと見守っていた男がゆっくりと立ち上がり、言葉を紡いだ。
「お前は今、恐怖を知った」
 俯く彼の前までやってきて足元に片膝をついた。男の動きに合わせて炎に照り返された毛並みが鈍く光る。その気配に視線を上げると、彼のことを琥珀の瞳がまっすぐに見据えていた。
「その恐れが、いつかお前を助けることもある」
 知るというのは力だから。謳うように男が語る。
「右か左か。進むべきか引き返すべきか。選ばなくてはいけない時に、その分岐点で、今得たものが教えてくれる」
 己を律せよ。恐怖を飼いならして力と換えよ。諭すように語る琥珀色を、しかし彼の二色はまだ真っ直ぐに見ることができない。
 でも、もしそれができなかったら?恐怖に飲み込まれてしまったら……
「知らん。泣いて震えて、そのまま一生閉じこもっていればいい」
 にこりとも笑わない男の言葉に胸が詰まる。そんなのは嫌だ!
「だったら強くなるんだな。鍛えて、学んで。力をつけろ。無謀と勇猛の区別がつくようになるくらいにはな」
 家にはお前を心配して待っている人もいるんだろう。
 ほんの少しだけ柔らかくなった男の声を聞いて、母と姉の顔が浮かんできた。目頭に熱いものがこみ上げてくる。
 ごめんなさい。ごめんなさい。危険な真似をして、心配をかけて、ごめんなさい!
 溢れる涙は拭っても拭っても止まらない。
 嗚咽がおさまるのをじっと待っていた男が、彼の呼吸が落ち着いてきたのを見て口を開いた。
「自分が思っている以上に、きっと周りはお前のことを大切に想っている。まずは自分を大事にしろ。それが周りを大事にすることに繋がるはずだ」
 わかったかと問う声に何度も頷いた。赤土色の髪に大きな手が触れた。優しく撫でたかと思ったら、すぐにクシャクシャと掻き回した。
「よし。飯を食ったら帰るぞ」
 里まで送っていってやる。そう言って男はスープのおかわりと、かちかちの黒パンを手渡した。
 それも食べ終わると集落へ戻る支度を始めた。支度と言っても彼の荷物は失われている。手持ち無沙汰したにしていたところに「忘れるところだった」と、男が懐から何かを差し出した。
 見覚えのあるナイフだった。小振りの刀身には鞘の代わりに布が幾重にも巻き付けられている。
「お前が埋もれいてた近くにこれだけ落ちてた」
 お前のだろう? と視線で問われ、頷いた。
「落ちた時に体に刺さらなくてよかったな。そういう意味では運がいいよ、お前」
 くつくつと男が笑う。反応に困っている内に男は火の始末を終え、彼の前にやって来るとその身を屈めた。大きな背中が眼の前にある。おぶされということらしい。慌てて断ったが男も引かない。
「その怪我でちんたら歩いてたら里に着く前に日が暮れるぞ」
 子供が変な遠慮すんな。そうして彼のことを背中におぶり、雪の残る道を歩き出した。
 足取りに迷いはない。集落の場所はわかるらしい。しばらく男が雪を踏む音だけが森の中に響いていた。
 どうしても聞きたいことをひとつ、背中越しに投げかけた。
「どうしてこんなに親切にしてくれるんですか……?」
 見ず知らずの子供に男がしてくれたことを思えば、そう問わずにはいられなかった。
「旅をしていると、こういうことはたまにあるからな。困っている時はお互い様。これも何かの縁ってな」
 男の答えにはいま一つ実感がわかなかった。しかし、旅という言葉が妙に頭から離れない。聞いたことはある。名前を変え集落を離れ、森や山から出ていくヴィエラ達。別の土地に根を下ろす者もいれば、土地から土地へ渡り歩く者もいるという。
「旅とは、いいものですか?」
 うーんと軽く唸って、男は少し考える素振りをする。
「わからん。良いことも悪いこともあるからな。でも」
 俺は好きだ。
 続けられた言葉には、迷いの色は微塵も見えなかった。
「知識、見聞、人との縁。旅の中で得た全てが繋がって、どこまでも広がっていく世界を俺は見続けたいんだ」
 お前とこうして出会ったことにも、いつかきっと意味が生まれる。
 まっすぐに前を見据えて男は話す。その視線の先に、何かとても美しいものが手を広げて待っている。そんな気がして、胸の鼓動が高鳴った。
 彼は旅の話を聞かせてほしいと男に頼んだ。
 男は語った。それは西を目指した旅の話。
 見渡す限り一面の砂景色。喉はカラカラ、砂に足を何度も取られて、もう嫌だと見上げた熱波の夜空。星たちの河がとても綺麗に見えたこと。
 豊穣海を船で渡る。まるで宝石のような空と海。美しい碧に夕陽の色が混ざっていく。その色合いを見ている内に、そこはかとない寂しさが胸に生まれたこと。
 時に船旅は嵐に見舞われることもある。うねる波、叩きつけるような雨。喉の奥からこみ上げそうになるものと闘いながら、怒涛の向こうに見えた朽ちた船影。途端に背筋が凍りついたこと。
 西へ西へ。荒野を越え北州イルサバードを抜けて、目指すは西州アルデナード。そこはエオルゼアと呼ばれる、神々に愛されし土地。
 砂漠の商都、精霊の森の都、白い岩礁の海洋都市。そこでは人々と冒険者とが手を取り合って、まっすぐに前を向いて生きている。困難を超え、出会いと別れを繰り返しながら。
 男の背中に揺られながら、彼は想像の翼で世界を翔け巡った。
 たくさんの砂、たくさんの水、たくさんの人がいる街。見たことのない景色は、いったいどんなところなのだろう。
 いつか自分も行けるだろうか。
 旅をして、訪れた土地の音や匂いを身体に刻んで。風や水の色を記憶に刻んで。
 いつか自分も得られるだろうか。
 旅をして、訪れた場所で出会った人と喜びも悲しみも共にして、結んだ絆を胸に刻んで。
 たくさんの場所へ行き、たくさんの人と出会って。それらが繋がる先を自分も見てみたい。
 この世界のことを、もっと知りたい。見てみたい!
「思い出したか?」
 いつしか寒さも震えも消えていた。
 ああ、そうだった。これが一番はじめに胸に思い描いたもの。これさえあればどこにだって行くことができる、大切なたからもの。
「目指す場所がない? ぬるいこと言ってんじゃねぇ、この馬鹿が」
 雪の森の景色が急速に溶けていく。
 溶けた後には光があった。茜色の優しい光。それは辺り一面に広がって、雪解けの後に春が生まれる。
「もう見失うなよ」
 すぐ傍にあったはずの声が、春の向こうに遠ざかっていく。
 この世界は、俺達が思うよりもずっと広くて面白いんだからな!
 最後に届いた声に、アゼルは男が満足そうに笑っているのを見た気がした。