08.天邪鬼な神様
川にて幸有り、注視せよ。
欲するもの手に入らず、失うのみ。
階に足を取られる、手当怠るべからず。
失せ物有り、暫し静かに待て。
失せ物出る、周囲を見返すこと。
言い掛け有り、ひたすら耐えよ。
獣に注意、されど吠える他に害は無し。
職務に度々の厄介ごと有り、逃れる機は無し。
(
………しばらく家で大人しくしてろ、ってか)
所々分からない部分はあるが、いずれにせよどれもあまり良いことではなさそうだ。
三琴は自室で布団に寝転がり肘を付きながら青緑色の経本
――ではなく、手帳を開いていた。
正確に言えば、いつの間にか手帳になっていた、経本。
初めてそれを発見したときには確かに経本の形をしていたのだが、つい先日足立と沖奈へ行く際なんとなく鞄に詰め込んでからアパートへ帰ってくるまでの間に経本は陰も形も無くなっていて、代わりにこの手帳が入っていたのだ。
経本を持ち歩いているところを他人に見られたら、と思っていなくはなかったので実質的にはどちらかと言えば好都合なことであったのだが、如何せん不可解すぎる変化に当初は若干の戦慄さえ感じた。
とはいえ、中身を確認してみればいくつかの怪しげな言葉が書いてある以外には至って普通の手帳であったし、その怪しげな言葉もカレンダーの日付にそのまま結び付けられているらしいので、勝手が良くなったのは間違いない。
書いてある言葉こそ不吉なものだが、持っていて特別不幸に苛まれたという感じもしないので、
三琴は取り敢えず引き続きこの不思議な経本、もとい手帳を保有していようと決めたのである。
手帳の中の言葉は一日に一句で、3月26日現在書かれているのは31日まで。
3月24日の欄に書いてある言葉「川にて幸有り、注視せよ。」と、3月25日の欄に書いてある言葉「欲するもの手に入らず、失うのみ。」との間で視線を行き来させ、
三琴はうーんと唸り声をあげた。
(どっちも覚えがないんだよなあ
………)
はぁ、とため息を吐いて
三琴は先日と先々日の出来事を思い出す。
3月24日、晴、川辺で魚を見ていたら背後から子供がぶつかった衝撃で川に落っこちる。
3月25日、曇、沖奈でクレーンゲームをしたらあっさり狙いが当たって景品を獲得する。それも、二つも。
どちらのケースも、それぞれの言葉とは正反対のことだ。
(逆のことを予言するのか
……だとしたら、不親切な手帳だな
………)
内心で手帳相手に悪態をつき、
三琴は付いていた肘を崩して手帳を手に持ったままごろりと仰向けになった。
もしこの手帳がこれから起きることに対して反対の言葉を
――予言をするならば、逆に明日からはいいことだらけなんじゃないのか?
一瞬はそう思ったが、しかし、となると「失せ物有り」と「失せ物出る」の関係がおかしくなってしまう。
それに「職務」とはどういうことだろう。
手帳を閉じて胸の上に抱え持ち、もう少し思考を巡らせようと
三琴が目を閉じかけた瞬間、
ゴッ!
べちゃっ!
ガターン!!
敢えて形容するならそんなような、とにかく、なんだかものすごい音が玄関扉越しに響いた。
三琴が何事かと飛び上がり急いで外へ出てみると、階段を上がってすぐあたりの廊下に一人うずくまり呻き声を上げている足立の姿。
どうやら階段で足を引っ掛けたか滑らせたかしたらしい。
「あ、足立さん、大丈夫
……じゃないですよね
………擦り傷とかの怪我は無いですか」
相当に痛そうだったので思わず駆け寄り声をかけると、案の定足立は苦悶の表情を浮かべていた。
「あ
……あー、平和島さん
……ごめんね、騒がしかったかな
………っ」
「いえ、お気になさらず
………あの、よかったら消毒液とか絆創膏とか、持ってきましょうか」
「い、いやーそんな、わざわざ悪いし。これくらい唾付けときゃ治るって」
そう言って申し出を断ろうと手振りをした足立の右手の掌にいくつかの小さい擦り傷を確認した後、
三琴は足立の顔を見た。
眉尻を下げて困ったように笑っている足立の額には少しだけ汗が滲んでいる。
顔には怪我はないようだったが、未だ左手は膝小僧をかばうように押さえていた。スラックスに隠れて見えないだけで、もしかすると切り傷か、そうでなくとも青あざくらいはできているかもしれない。
「
………冷やすものもあれば持ってきますね。ちょっと探しますんで、お部屋で傷口洗っといてください」
「え、ちょ、ちょっと!」
「怪我人が遠慮しないでください」
おそらくは制止のために声を上げる足立にきっぱりと返し、
三琴は自室に向き直る。
消毒液や絆創膏の類は念のためと思って買い揃えていたが、冷やすものは何かあっただろうか。あざに効くものってなんだろう。
そんなことを考えながら部屋へ戻ると、丁度布団の上に置かれた青緑色を視界が捉えた。
……そういえば、あの手帳に書かれていた、今日の予言は。
「
………足立さん、明日、大事な物が手元にあるか逐一確認しておくといい
………かも、しれません」
「え?」
「っあ、
………えーと、その、占い。みたいなもので」
消毒薬と絆創膏、それからいくつかの保冷剤を詰め合わせた袋を足立に手渡し、
三琴は視線を下方へ落としながら気まずげに言った。
<了>
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.