よるうみはる。
2026-06-08 22:44:06
52790文字
Public パロ
 

If you wanna Dance,

マジックマイクとダンスは僕の恋人を参考にしてます。
叶がストリッパーやってて、投資家の敬一くんに出会うという話。とんでもねえな。
あんまり媚びることはしてほしくないものの、ある程度性的な行動をしてますのでご注意を。



 航空券のチケットを握りしめ、足早に空港ロビーへと着いていた。日本にある獅子神の所有物は、弁護士に一任して解約を頼んでいる。
 無機質なアナウンスが響き渡る国際線の出発ターミナルは、先ほどまでいたあの地下劇場の熱気とは対極にある、ひどく冷たくて静かな空気に満ちていた。獅子神は歩きながらスマートフォンを取り出し、画面を見つめる。時刻は間もなく、新劇場の幕が上がる時間を示していた。今頃、叶はあの円形のステージに立ち、幕が開くのを待っている。仕事があるからギリギリまでいけないということは事前に伝えていた。
 親指を動かし、スマートフォンの電源を完全に落とす。黒く沈んだ画面をジャケットの内ポケットへ滑り込ませた瞬間、叶黎明という規格外の重力から、ようやく物理的に切り離された気がした。
 搭乗ゲートをくぐり、機内へと向かうタラップを上る。歩みを進めるごとに、すべてを捨てて逃げ出す自分への自嘲がこみ上げてきた。群青のドアを揺らして、獅子神は自分の席を探しながら視線を巡らせた。
 これでいい。ピカピカとした一等星を、どうにかできるなんて思ってもいない。白昼夢のようなものだったと思えばいい。獅子神は指定された深く柔らかいシートに身を沈め、静かにシートベルトを締めた。
 機体が重力を振り切ってふわりと宙に浮いた瞬間、獅子神敬一は窓の外に広がる東京の夜景へそっと視線を向けた。
 無数の光の粒が、まるで宝石箱をひっくり返したように瞬いている。あの無数の瞬きの中に、今まさに狂熱の渦を生み出している真新しい地下劇場がある。
 オープン初日のメインステージ。今頃、叶黎明という煌めき、あの円形のステージの中央で視線を独占し、観客たちの理性を鮮やかに剥ぎ取っていることだろう。スポットライトが瞬き、彼が放つ圧倒的な熱量と、甘く危険な色気。それらすべてを浴びて、フロアは地鳴りのような歓声に揺れているはずだ。
 そして叶は、最高潮の熱狂の中でふと視線を上げる。もぬけの殻となった自分のいないその席を見た時、あの瞳は歪むんだろうか。
 どうだろう。きっと、それは獅子神の希望でしかない。
……悪いな)
 心の中で呟いた謝罪は、誰に向けたものだったのか自分でも分からなかった。叶に対してか、それとも、あんなにも彼に惹かれていた自分自身に対してか。
 獅子神は深く息を吐き出し、そっと目を閉じた。
 鼻先を掠めるのは、機内の無機質な空気だけだ。数時間前まで獅子神の全身を絡め取っていた、あのコットンキャンディのような甘ったるい香水の匂いは、もうどこにもない。
 首筋に残る痛々しい痕だけが、昨夜の狂態と、確かに存在した熱の記憶を証明していた。獅子神はシャツの襟を無意識に引き寄せると、シートへともう一度深く身体を沈み込ませる。獅子神敬一は日本から、そして叶から物理的な距離を取ることを決めたのだ。
 ――飛行機のエンジン音が、心地よいノイズとなって耳を塞いでいく。
 これでいい。すべては、なにもかも、うつくしい、きらめきだった。


 水の音。肌を撫でる風に、獅子神敬一は大きく伸びをした。
 ニュージーランド南島。見渡す限りの広大な自然に囲まれたワカティプ湖畔の静かな町に、獅子神は滞在していた。
 都会の喧騒からは完全に切り離された場所だ。聞こえるのは、風が草の間を抜けていく瞬間と、遠くで水鳥が羽ばたく音だけ。ノートパソコンと通信環境さえあれば、仕事は地球の裏側でも問題なくこなすことができる。獅子神は、借り受けたロッジの広いウッドデッキに置かれたチェアに深く腰掛け、淹れたてのコーヒーに口をつけると、息をついた。
 知り合いの伝手を頼り、この穏やかな場所への滞在を許されていた。建前としては、ちょっとしたバカンスだ。いずれ日本に帰るつもりでいるものの、その「いつか」が具体的に何ヶ月後になるのか、今の獅子神にはまだ見当もついていなかった。
 そろそろ滞在してひと月ほど経とうとしているが、仕事としては問題なく進んでいる。オープンまでこぎつけた彼の城に関する経営は、すでに獅子神の直接的な手からは離れていた。信頼のできるコンサルタントと弁護士、加えて税理士にも頼んでいるので、恐らく軌道に乗せるのは容易だろう。仕事として、考え得る限りの布陣は敷いてきたつもりだ。
 彼らには守秘義務があるので、自分のことを漏らすような真似をすることはない。どこに行くかは誰に告げることもなく出立したので、獅子神の現状を知っているのは、この場所を融通してくれた知人だけだ。
 その知人でさえ、獅子神がなぜ突然日本を離れ、このような世界の果てとも言える場所に身を隠したのか、本当の理由は知らない。ただ「少し長く休みたい」という獅子神の言葉を鵜呑みにして、快くこの隠れ家を提供してくれただけだった。
 ウッドデッキの手すりに寄りかかり、獅子神はふうと静かに息を吐き出す。 絵画のように美しいサザンアルプスの山々と、空の色をそのまま吸い込んだような澄み切った水面。どこまでも静かで清廉な、獅子神がこれまで生きてきた世界とは対極にある場所。
 ここへ来れば、呼吸がしやすくなると思っていた。
 あの一瞬のきらめきに身を焼かれる前でよかったと、自分に言い聞かせていた。光に触れれば、自分もそのぴかぴかとした何かになれるのだという甘い勘違いをしてしまいそうになるから。
 だから、ここでなら、あの強烈な引力から逃れ、もとの静かで平坦な自分を取り戻せると思っていた。
 だが、目を閉じれば否応なしに蘇ってくるのは、極彩色の光の中で躍動する男の姿だった。
 鼓膜を震わせる重低音、むせ返るような熱気。その中心で、誰よりも眩く発光していた赤色の瞳。獅子神の堅固な理性を易々と溶かし、世界を鮮やかに塗り替えてしまった、圧倒的な熱量を。
 それは、ただ波風を立てずに生きてきた獅子神にとって、目を焼かれるような、あまりにも眩しすぎる光だった。これ以上近づけば、自分のすべてが呑み込まれ、自我すらも跡形もなく消え去ってしまうような気がした。だから、それが堪らなくなって逃げ出したのだ。
 でも、あの光の温度を知ってしまった今、この美しいはずの大自然の景色すらも、ひどく色褪せて見えた。一度知ってしまった体温を忘れるには、余りにも困難だ。
 どれほど澄み切った空気を吸い込んでも、肺の奥底にこびりついた、あの甘ったるく退廃的な香水の匂いばかりを探してしまう。穏やかな朝の光を浴びても、いつか無防備に笑いながら落とされたキスの熱が、唇の裏側でじくじくと疼いて離れない。
 魂ごと焦がされるようなあんな時間は、きっとこの先の人生で二度と訪れない。 間違いなく、獅子神のこれまでの平坦な日々に突如として降り注いだ、たった一度きりの特別なものだったのだ。
 自分が逃げ出したあの夜。彼がどんな顔で喝采を浴びたのか。もぬけの殻となった席を見て、あの瞳は何を思ったのか。
 考えないようにすればするほど、獅子神の思考は叶黎明という男の存在に侵食されていく。毒を抜くために遠くへ来たはずだったのに、気がつけば、獅子神自身がその猛毒の味を渇望してしまっているという矛盾に、笑いすらこぼれそうだった。
 拒絶は正しかったのだ。その手に落ちないように逃げまどっていたのは、間違いではなかったのだろう。恋だの愛だのという、不確定で非合理な感情。それに呑み込まれれば、自分が自分でなくなってしまうという根源的な恐怖から逃げ出した。だが、結局のところ、獅子神は自分自身の心から逃げ切ることなどできなかったのだ。
 隣にいれば灼け落ちてしまうと恐れた。けれど、叶のいないこの静かな世界は、あまりにも色褪せていて、それでいて――ひどく退屈だった。
 感傷に浸るのはこの毎日嫌というほど繰り返していた。無意味な行為だ。けれど、叶黎明は、獅子神にとって間違いなく唯一の後悔となっていた。
……今更、だ」
 誰に聞かせるわけでもなく、獅子神はぽつりと自嘲気味に呟いた。
 勝手に逃げ出しておいて、勝手に喪失感に苛まれているなんて、ただの傲慢でひどく滑稽な一人芝居だ。
 自分が傷つきたくないばかりに、あいつの舞台を無残に裏切った。あの傲慢で自信に満ちた男のことだ、自分のために用意したという特等席に穴を空けられたと知れば、怒り狂うか、あるいは、興味などなくしたかもしれない。
 自分がこんなにも未練に縛られているというのに、あの男はもう自分がいなくなったことなど気にも留めず、今もステージで別の誰かに極彩色の熱を振りまいているのだろうか。そう想像するだけで、胸の奥を鋭い刃で抉られるような痛みが走る。これすらも勝手に傷ついている自分に嫌気が差した。
 手元のコーヒーは、とうの昔に冷めきっていた。
 獅子神は深く息を吐き、泥のように苦い液体を胃の腑に流し込む。まとわりつく執着を無理やり飲み下すように。いつまでも過去の亡霊に縋っていても仕方がない。この静かで何もない世界で、もう一度、孤独だったころをやり直すしかないのだ。
 沈黙を裂くように、手元の携帯が鳴った。
 この番号を知っているのは、現地の知人数人と、日本の弁護士だけだ。画面に目を落とすと、表示されていたのは、この隠れ家を手配してくれた知人の名前だった。獅子神は小さく息を吐き、通話ボタンを押して耳に当てる。
「もしもし」
 電話の向こうからは、いつもならゆったりとした英語が聞こえるはずだった。食料は足りているかとか、気分転換に街へ出ないかとか、獅子神を気遣う人の良い声。
 しかし、受話器の向こうから響いたのは、そんな朗らかな声音ではなかった。

――敬一くん』

「え」
 思わず、返答が出来ず固まる。聞こえるはずのない、その声。獅子神が、聞き間違えるはずがない。鼓膜に掛かるような、低く掠れた甘い音を。
 思考が完全に停止した獅子神の背後、ロッジへと続く砂利道を踏みしめる足音が聞こえた。
『振り返ってよ、ダーリン』
 電話越しではなく、直接空気を震わせて届いたその声に、獅子神は弾かれたように振り向いた。携帯電話が手から滑り落ち、ウッドデッキに乾いた音を立てる。
 その瞬間、強く湖畔の風が吹き抜けた。
 視界の先、木漏れ日が落ちる小道の入り口に、一つの影が立っていた。
 緑の風景にはひどく不釣り合いな、仕立ての良い黒のスーツ姿。風に乱れた濃紫の髪。視線が合った瞬間、その男は――叶は携帯を切るとポケットに忍ばせてゆっくりとこちらへと歩いてくる。思わず及び腰になり、逃げだしたくなるが、それ以上に足がそこに縫い留められたかのように動かない。
 最後に見た日みたいに、叶の表情は変わりはしなかった。手元に持った花束をぶらりと振りながら、歩みを進めてくる。ポーチの階段へと差しかかっとき、獅子神の口からは「なんで」と枯れ果てた喉から、掠れた声が漏れた。
「いいとこだね、ここ。休暇には確かにもってこいだ。でも、一人で先に来ちゃうなんて、敬一くんはせっかちだな」
 叶は、まるで待ち合わせに少し遅れただけのような、ひどく軽やかな声で言った。だが、距離が縮まるにつれ、彼が纏う空気の異様さが獅子神の肌を粟立たせた。
「オレ、昔からかくれんぼは得意なんだ。オレが鬼になるとすぐに見つかるって嫌がられたりしたんだけど、今回ばかりは得意で良かったと思うよ。敬一くん見つけることができたし」
 目の前に迫った男はゆるりと手を伸ばすと、獅子神の頬をその甲で撫でた。びくりと震える肩に一瞬だけ目くばせを送ったが、その視線はすぐに、獅子神の上へと落ちてくる。
 勝手をしてしまった自覚があった。自分が悪いのだと分かっているので、叶の顔をちゃんと見れない。獅子神はきゅっとくちびるを噛むと、足元ばかりを見てしまう。それに、どうやってこの場所を見つけ出したのか。日本でのショーはどうしたのか。問い詰めたいことは山ほどあるはずなのに、喉が干からびたように張り付いて声が出ない。
「ハネムーンをするなら、ちゃんと連絡してくれなきゃ。――ああ、携帯のこと気にしてる? この人、とてもいい人だね。オレが、先に来ている恋人に会いに来たんだけど、サプライズがしたいって言ったら、携帯を貸してくれてさ。だって敬一くんは、オレからの番号じゃ、きっと出てくれないだろ?」
 事も無げに言ってのけるその唇は綺麗な弧を描いているのに、その瞳の奥には、地の果てまで獲物を追い詰める捕食者のような、仄暗い執着が渦巻いていた。
 言葉はどこまでも凪いでいた。しかし、全身で怒っているのが分かる。肌をピリピリとさすその怒髪天の感情に、獅子神はゆっくりと口を開いた。
……ステージは。まだ始めたばかりだろう」
「オレは元々、レアキャラ枠。そんなに頻繁に出なくてもいいんだよ、オレを観てきたやつならそれくらい理解してる。働きづめの恋人が、待ちきれずに先に飛び出しちゃったから、迎えに行きたいって言ったら、快く送り出してくれたよ」
 恐らく嘘だと思うが、獅子神にそれを否定できる材料はなかった。左目の泣きぼくろを親指の腹が、ゆっくりとこする。それはまるで、獅子神の輪郭を確かめるような動きだった。そこにいることを、認めるようにして。するりと顔のおもてにてのひらが這い、首筋へ落ち、肩口に到達すると引き寄せられるように抱きしめられた。
「なあ、知らないのか」
 耳元で掠れた声が落ちる。まるで何かを切望しているような、そんな声音だった。
「オレのショーは終わってないんだ」
 耳朶をなぞる叶の薄いくちびるの感覚に、獅子神の肌がわななく。背骨の数を数えるように動く指先は、鍵盤を叩くように軽やかだった。
 空気を撫でる笑い声を含んだ声に、何も言えないまま獅子神は恐る恐る男の背に腕を回す。――瞬間、掻き抱くような力強さに変わり、息が止まる。叶の手から花束がすべり落ち、バサリと、無残にも花びらがウッドデッキに散らばった。
(ああもう、だめだ)
 逃げるなんて無理だ。ここまで渇望されたら、どうしようもない。平坦で安全な人生に戻れると思っていた。けれども、この男の猛毒に侵され、彼なしでは生きている心地すら得られなくなっていた事実が浮き彫りになっただけだった。
「叶」
 名前を呼べば、骨が軋むほどに巻き付いた腕の力がわずかに緩む。
……ショーを終わらせるにはどうしたらいいんだ?」
 ショーが跳ねたら、と。獅子神は以前に約束した言葉を紡ぐ。
 代わりに叶の大きな両手が獅子神の顔を乱暴に持ち上げ、真っ向から視線を絡ませてきた。瞳に渦巻いていた暗い炎は、地下劇場で無数の観客を狂わせてきた、あの極彩色の熱へと変貌していた。獰猛で、傲慢で、ひどく美しい、その顔。
「敬一くんが、望んでくれるなら」
 その声はどこまでも、甘い音がする。獅子神は少しだけ角度を傾けると、男のくちびるを静かにふさぐ。膨らむ肺の中に初めて会ったときと同じように香水の匂いが混ざり、一瞬の輝きを手にした気が、した。

 そこにいたのは、オレを見つけた、夜の形をした男だった。



If you wanna Dance,