よるうみはる。
2026-06-08 22:44:06
52790文字
Public パロ
 

If you wanna Dance,

マジックマイクとダンスは僕の恋人を参考にしてます。
叶がストリッパーやってて、投資家の敬一くんに出会うという話。とんでもねえな。
あんまり媚びることはしてほしくないものの、ある程度性的な行動をしてますのでご注意を。




 喧騒から一夜明けた昼下がり。獅子神は自宅兼用のオフィスで大きく伸びをすると、掛けていたブルーライトカットの眼鏡を外し目頭を抑えた。為替の動向を見ている間に昼食を食べ損ねたことに気付いた。
 キッチンへ向かい、よく冷えたミネラルウォーターのボトルを喉に流し込む。冷たい水が落ちていく感覚に、ようやく少しだけ現実の輪郭が戻ってきた気がした。
 ――それにしても、最悪の夜だった。
 重低音が響く地下のフロアに、熱狂する女たちの悲鳴。そんな非日常の空間で、獅子神は完全にペースを乱されていた。背後から不意にのしかかってきた、あの男の圧倒的な体躯の質量。
『よそ見、しないでよ』
 耳元で囁かれたあの声と、まとわりつくような香水の匂いが、いまもシャワーを浴びた後の清潔な肌に残っているような錯覚に陥る。こんな都会の真ん中で、手に入らないものなど何もないとうそぶいて生きてきた。だというのに、昨夜の男が見せたあの余裕に満ちた笑みだけがどうにも苛立たしく、獅子神の平坦な日常にさざ波を立てていた。
 あれはただの虚飾の夜が作り出した、安っぽい幻影。
 そう結論づけたというのに、獅子神の網膜の裏には、なおもあの毒々しいまでの鮮やかな赤が焼き付いていた。唇に触れた瞬間の、甘くむせ返るような香料の味。それはまるで、自ら致死量の毒を飲み下してしまったかのような、恐ろしくも甘美な錯覚を獅子神にもたらしていた。
 誰もいない部屋に一人いるというのに、背後からふわりとあの濃紫の気配が忍び寄ってくる気がする。男の放つ退廃的な熱情は、すでに細い血管の隅々にまで入り込み、獅子神という強固な城を内側から静かに溶かし始めていた。
 一矢報いてやったつもりだが、自分でもダメージを受けているような気がする。触れた口紅なのか、リップの味がしつこく舌先に残っているような気がして、獅子神はもう一度、水を流し込んだ。
 先輩である彼女からは、昨夜のことについて謝罪の連絡が来ていた。だまし討ちのように連れ込まれたのは確かに良いものではなかったが、彼女が謝るようなことではない。確かに嫌な気分にはなったが、あれはパフォーマンスであると獅子神にも理解は出来ている。あの男も、それで食いつないでいるのだろうから、獅子神に手を出してきたことは何も間違ってはいないだろう。
 手に持っていたボトルの水滴がシンクへ落ちるのを眺めながら、獅子神は小さく息を吐き出した。
 夜の街には夜の街のルールがあり、プロフェッショナルが存在する。彼もまた、あの狂騒のステージで完璧なエンターテインメントを提供したに過ぎない。大人の男として、あんな挑発にいちいち乗っかる必要もなかったのかもしれないが。――獅子神とて男なので、女のような扱いは流石にどうかと思うのだ。
 あれが最適解だったのか、という問いかけはなんとなく先輩の話を聞いて理解した。
 【REIMEI】は、普段から女に手を出すこともなく昨夜のようにステージを降りてくることもほとんどない。基本的にはずっとステージ上にいて、時々思い出したように観客の席を縫って歩く。もちろんその時に客である女たちに、性的に触れるようなことはない。肩口にトン、と指先を跳ねさせてみたり、うなじの隙間を撫でてみたり。
 これらの行為はVIP席でしか行われないため、いくら高額だろうとあの男に触れてもらえるかもしれないという期待で、争奪戦だという。VIP席というのはそもそも、演者からの触れ合いを込みで了承しているという座席だというのも、先輩に後から聞かされた話だ。
 そんな話を終わってから言うのもどうなのかと思うが、彼女からすれば獅子神自身は男性であるし、滅多に客席にかかわらない男なので、こんなことが起こるとは思っていなかったのだろう。強く責めるつもりないが、流石に今度から一緒に行くことは遠慮願いたい。
 短い感嘆の息とともに、空になったペットボトルをゴミ箱へ放り込む。獅子神は首の後ろに手を当てて、凝り固まった筋肉をほぐすように軽く首を鳴らした。
 思考の連鎖を物理的に断ち切るように、重だるい足取りで冷蔵庫の前に立ち、白い扉を引き開けてみるものの、冷たい空気が顔に吹き付けてくるだけで、食欲を刺激してはくれなかった。作り置きのタッパーに手を出す気分でもない。
 料理は好きな方だ。無心になれるし思考が整理されていくような気がするから。しかし、今のオレにはまな板を出して包丁を握り、自炊をするだけの最低限の気力すらも完全に削ぎ落とされていた。日常のルーティンをなぞるような気分には到底なれない。
 なんだか自分自身の身体が、あの地下のフロアに置いてきた熱の残滓をまだ引きずっていて、日常に戻ることを密かに拒絶しているかのようだった。あの毒々しいまでに鮮烈な男の気配が、足元からじわじわと色濃く立ち上ってくるような気さえする。
 獅子神は頭を軽く振り、鼻先を掠めるような甘ったるさから抜け出すべく、スラックスに財布とスマートフォンだけを手に取るとさっさと家を出ることにした。こんな時、都心の一等地に建つタワーマンションは便利だ。近くに飯屋なんてごまんとあるし、ついでに良い気分転換にもなるだろう。
 高層用の高速エレベーターに乗り込み、エントランスへと降り立つ。二十四時間体制のコンシェルジュに、来客があれば教えてくれるように言付け、軽い挨拶を投げて外へ出て一歩、二歩、三歩。
「ケーイチくん」
 それは、鼓膜の奥を直接撫でるような、昨夜嫌というほど聞かされたその声。
 マンションの大理石の柱からぬっと現れたのは、昨夜スポットライトの雨を浴びていた男。レーザービームのように狂い咲く光線を一身に受け止め、指の先までうつくしく会場を魅了していた。そして獅子神の先ほどまで思考を埋め尽くしていた本人。
 驚きを隠せないまま獅子神は、思わず息を止めるようにして立ち尽くしていた。
 右目は赤くなかった。カラーコンタクトを外したアンバーの瞳が、無防備に獅子神を見下ろしている。襟ぐりがV字に大きく開いた淡いグレーの柔らかなニット。オーバーサイズの着こなしのせいで、袖口からは無垢な指先がわずかに覗いている。
 初夏の眩い光の中で見る男は、夜の支配者のごとき艶めかしさをすっかり潜めていた。昨夜の男は艶笑し、女たちを惑わせるような魅力を持ち合わせていたというのに、今はどうだ。メイクのない素顔は恐ろしいほどに純真で、年齢すらも曖昧に思えた。
 だが、その下に隠された骨格は紛れもなく屈強な雄のそれであり、美しさと野蛮さが同居する顔立ちは、芸術品のような残酷さを帯びていた。男の服の下に隠されたしなやかな筋肉の存在を、獅子神の背中が克明に覚えていた。
「あれ? 名前間違ってた?」
 返事もできずに立ち尽くす獅子神に、男は首を傾げて覗き込んでくる。大きな口がにこりと弧を描き、「もしもーし」とふざけた調子で手を振りかざした。
「なんで、ここに」
 獅子神が微かに戸惑いを乗せて唇を動かすと、男はクスクスと喉の奥で笑った。
「デートのお誘いだって言ったらどうする?」
「はあ?」
 突拍子のない言葉だ。からかわれている、というのは即座に理解が出来た。
「昨日のお礼、しにきたんだよ」
 男が一歩踏み出すと、周囲の空気が一変した。光あふれるエントランスが、男の影に侵食されていく。獅子神がわずかに後ずさるのを追いかけて、男の身体が追いかけてくる。自分よりわずか高い顔が近付き、瞳が三日月のように細められていた。
「ショーは終わっただろう。もうオレを舞台に引き上げる必要はないはずだ」
「いいや、お前はオレの手を取らなきゃいけない。【REIMEI】に大金を払った対価を、オレは返さない礼儀知らずじゃないからな」
 そんなものはいらない。獅子神からすれば、男の礼なんてものはどうでもいい。そんなのは、この目の前の男の独りよがり。自己満足ではないか。
 濃紫の髪色が、太陽の下でさらりとほどけた。昨夜のことを悪びれた様子もなく、するりと獅子神のパーソナルスペースへと侵入してくる。煌々と照り付ける世界の下、あの退廃的な香水の匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
「まあ、それはちょっとした建前なんだけど」
 男の手がそろりと伸びてくると、指先が獅子神の下くちびるをそっと撫でた。全身の毛穴が粟立つような悪寒と、それに相反するような熱が腹の底で渦を巻く。獅子神がその手を乱暴に払い除けようとした瞬間、男の顔が傾けられる。逃げ場を奪うように影が落ち、触れ合った瞬間の微かな摩擦に、世界のピントがぐしゃりと狂う。
 くちびるを塞がれ、ぬるりと舌先が入り込もうとしてくるのを獅子神は慌てて男を突き飛ばした。
「な、っにしてんだ、この……ッ!」
 勢いで一瞬よろめき、たたらを踏み体勢を整えた。
 意味が分からない。昨日の仕返しのつもりなのか、獅子神は手の甲でくちびるを乱雑に拭いながら、声を荒げた。
「気に入っちゃったんだよね、オレ。ケーイチくんのこと」
……っ、はあっ?!」
 男はもう一度獅子神へ近づき、その都度後ずさる獅子神の身体はあっという間に、背中が壁にぶつかった。男の腕が壁へと迫り、獅子神を閉じ込める。それは、男自身によるうつくしい檻だった。
「なあ、名前を知って認識してくれよ。オレは、叶。叶黎明っていうんだ。ねえ、獅子神敬一くん」
 致死量の毒を盛ることに成功した暗殺者のように美しく目を細めた叶の声。鼓膜を直接撫で回すような低く甘い声で本名を告げられた瞬間、獅子神の背筋にぞくりとした冷たいものが走り抜けた。反射的に逃げなければという気持ちが強くなるが、ここは叶が閉じ込めた場所の中だった。先ほどのように突飛ばせばいいのかも知れないが、あれは不意打ちだったからに他ならない。
「そんなもの、覚える必要なんかねーだろ。お前とはこれっきりだろうが」
「やだよ、つれないな。言っただろ、デートのお誘いだって」
――……生憎、デートの相手には困ってねえんだよ」
 強がってみせる獅子神の手を、まるで恭しくダンスの誘いをするかのように持ち上げる。これもまるであのステージからの地続きのようだ。
「つれないこと言わないでよ。エスコートは得意なんだ。昨日実感しただろ?」
 何度断ってもこの男は、頷くまで追い詰めてきそうだなと頭の片隅で思う。おそらく、この想像は間違ってはいないだろう。
 個性的に切りそろえられた眉毛を跳ねさせて問いかける叶の顔を見つめ、大きなため息を吐きだした。「わーったよ」もうこうなったら観念するしかない。手っ取り早く、この男には納得してお引き取り願おう。そんな浅はかさをあざ笑うように、叶はゆっくりとまばたきをした。
「もう、なんでもいいから、さっさとどけろ」
「デートしてくれるってことでいいのか?」
「そうだよ」
 半ばヤケクソで放った肯定の言葉に、叶はゆっくりと瞬きをした。その瞳の奥に蠢く、どろりとした得体の知れない感情が溢れ出たような気がして、獅子神はびくりと肩をゆらす。
 なんなんだよ、お前。そう訴えられたらよかった。しかし、叶はうっそりと目を細め、口角を釣り上げた。尖った八重歯が鋭く光る。
「よかった。これで断られたら、次は何をして脅そうか考えてたところだったから」
……お前、頭おかしいんじゃねーの」
 なんで脅迫が前提なんだよ、お前。獅子神は眉間にこれでもかというほどに皺を寄せる。叶の手は、気付けば逃さないように獅子神の手を絡め取り、ぎゅっと引き寄せた。
「ほら、じゃあ行こっか」
「は? 今からか? 流石にオレにも予定が」
「リスケなら得意だろ? それに、そんな数字の世界よりオレの方が楽しませてやれるけど。オレなんかより楽しいなら、今すぐ部屋に返してやるけど」
 安っぽい挑発だ。仕事を蔑ろにする気は毛頭ない。けれど、ここで叶の言葉を突っぱねると負けたような気がする。なんなら、一生この男に見下される気がした。獅子神は舌打ちとともに空いてる方の手で前髪を掻き上げる。
「〜〜っ、わかったよ! 付いていけばいいんだろ!」
「そうそう。オレとデートしようぜ、敬一くん。まずは、腹ごしらえにランチでもどうかな?」
 軽やかに笑いながら、背中を押し出してくる叶の手に、もう一度大きく息を吐き出した。食いっぱぐれていた昼ごはんの提案に「従いましょう、王様」と獅子神は投げやりに返したのだった。