花筵シヂマ
2026-05-22 12:04:36
24424文字
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蛇蝎1~3

妻生存if、父と水は愛人関係、ゲタくんとは体関係なしの婚約者.いずれ黒父になる話



 家に帰る気になれなくて、喫茶店に続く路地まで戻ってしまった。
 あの喫茶店には妖怪が何匹か来ていた。なら、地獄への行き方を知っているものがいるかもしれない。
 もしまた、地獄に行けたなら、確認したいことがあった。
 やがて、ドアベルを鳴らして客が一人出てきた。
 真夏だというのに茶色いロングコートにシルクハットを被ったおとこに、ゲゲ郎は掴みかかった。
 「うぐっ!」
 突然ゲゲ郎に掴まれたおとこの頭からするりと帽子が落ちて転がった。
 黒髪の頭上から二本の角が生えている。
 見る間に、おとこの顔は燃えるように赤くなり、鬼へと変化を遂げた。
「ゆ、ゆうれいぞく」
 震えるような声でそう言う鬼を引きずって壁を走って駆けあがった。飛び上がったビルの屋上に、鬼のからだを投げ捨てた。壁に強かに背をぶつけた鬼はくの字に曲がってせき込んでいる。
 ゲゲ郎は鬼のその腹に、下駄を履いたつま先を叩きつけた。
「あの喫茶店には何の用で行っておる」
「ぐ、ぅう、ぅっ」
 鬼は吐きながら身もだえている。額には脂汗が滲み、ただただ、怯えた目でゲゲ郎を見上げていた。
「答えよ」
「た、ただ店に客として行っただけだ!」
「質問を変えようかのう。あの店には猫妖怪と、おとこが一人おるはずじゃ。おとこは、随分前に地獄に暮らしていたはずじゃが……おかしな話でな、地獄から戻ってきたのじゃ」
 鬼の赤い顔が色を失い、小さく萎縮していく。鬼の頭上の角を掴んで顔を上向かせてやった。
「地獄で何があったんじゃ」
「何も、何もない……!」
「なら儂を地獄に連れていけ。……でなければ、生きたまま、その角を折ってやろう」
 鬼は小刻みに震えながら何度も頷いた。
 普段温厚なゲゲ郎は怒ることなど無い。だからこそ、一度怒ると自分でも冷静さを保てなくなる。
 鬼は揉み手をしながら墓場に案内し、柳の木の下で立ち止まった。足を二度、三度鳴らすと、地面が液状化し始めた。鬼のからだがずぶずぶと沈み始めるのを視界の端に留めながら、ゲゲ郎もまたそのからだを地獄へ堕とした。

 瞬きをすれば、薄暗い空がゲゲ郎を見下ろしていた。
 荒れ地が広がるばかりで、周囲に誰の姿もない。生ぬるい風が肌をくすぐり、ゲゲ郎の輪郭を確かめる。
「あの鬼め、逃げたな」
 先ほどの臆病な鬼はどこにもいない。案内役がいなくなってしまった。
 仕方なく荒野を歩きながら、記憶を頼りにある建物を探した。やがて特徴がない荒れ地のなかに、黒い花が群生した場所を見つけた。花に囲まれるように佇む家屋を見つけるやいなや、ゲゲ郎は走り出していた。
 近づけば近づくほど、小さな一軒家に思慕に似た思いが押し寄せてくる。
 引き戸に手をかけて勢いよく足を踏み入れていた。下駄を脱いで、這うように廊下に上がっていた。じめついた空気を肺一杯に吸い込んで壁を撫でまわす。
 ————何と懐かしいのだろう。
 襖を一枚ずつ開けて中を改めると、敷きっぱなしの布団や、ちゃぶ台が視界に入る。
 座って畳を掌で撫で上げた。ところどころ、鋭いかぎ爪で畳を引っ掻いた痕が残っている。
「なんと……この家はそのままであったか」
 敷きっぱなしの布団を引きずり寄せてその場に寝転んだ。甘い、煙草の残り香がゲゲ郎を包む。
 まだ生温かい気すらする。
 水木は現世に出るまで、ここで住んでいたのだ。
 そんな水木が地獄から現世へ戻ってきたなら、この家は既に焼き捨てていると思っていた。
 ーーーーこの家はゲゲ郎が用意した、水木のための家だ。
 この家には、村から帰って弱ったゲゲ郎と水木がかつて共に暮らしていた場所だった。
……ここにいた頃は、水木はあんなおとこではなかった」
 記憶の中の水木は控えめに笑い、ゲゲ郎を見て目元を細めている。
 そんなからだを抱きしめて貪り尽くすことがなんと幸福だったことか。
 無論、妻のことを気にかけていた。
 その一方で、水木のことも愛していたのだ。
 もしかすると。
 この家に連れて帰れば水木は元に戻るのではないだろうか。
 今の水木はおかしい。
 憑き物に憑かれたようだ。ゲゲ郎を追い詰めて楽しむような真似は「ゲゲ郎の」水木はしない。
 急に思考が纏まり始めた。
 そうだ。ゲゲ郎の水木はこんなことはしない。
 息子のそばにいるからおかしいのだ。
 間違っているーーーーだから正してやれば良い。
 妻にだって理解してもらえばよいのだ。
 天啓を受けたようにゲゲ郎は晴れやかな心地になった。
 布団から起き上がり、操られるように足が動く。
 水木のかけらを追い求めていた。
 どこか、どこかに何かないだろうか。
 水木の衣服を入れていた箪笥を開ける。
 もうそこに一枚の服もない。手を突っ込んで確認すると、指先に何か冷たいものがふれた。
 鈍く光るそれはライターだった。水木が煙草を吸うのに使っていたものだ。
 そっと懐に入れると、その場所だけが温かくなっていく気がした。