花筵シヂマ
2026-05-22 12:04:36
24424文字
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蛇蝎1~3

妻生存if、父と水は愛人関係、ゲタくんとは体関係なしの婚約者.いずれ黒父になる話



ゲゲ郎たちが朝餉を食べ終える頃、息子は依頼があるので、と来た時よりも肩を落として出かけていった。
 玄関先で何事か話し合っている気配がした。
 いけないと理解しているのに、襖にひたと耳を寄せて二人の会話に耳をそばだててしまう。
「父さんや母さんに気疲れしてませんか?」
 気遣うような息子の声は今まで聞いたことがないほど甘かった。
 親に見せる顔でも、友人に見せる顔でもない。
「大丈夫だ。良くしてもらっている」
 微かにため息の音が聞こえた。
「母さんも母さんです、何も水木さんにお父さんの世話を頼まなくても……
「はは、むしろ俺を頼ってくれるほど信じてくれて嬉しいよ」
 襖に爪が引っかかる。無意識のうちに爪を立てていたらしい。
 こんなに力が籠っているなんて。まるで二人の関係に嫉妬しているようだった。
 この襖を開けて、夕餉も共に食べようと誘えば良いものを指一本動かせない。
 浅ましい嫉妬心がゲゲ郎を支配しているに違いなかった。

 玄関先に立てかけられた白い傘は妻のものだ。持ち手が竹製で少し重いそれを、苦も無く手にした。
「お出かけかい?」
 煙草を手にした水木は先ほどまでの無邪気な表情を消し、表情を無くしていた。
 片手で器用に割烹着を脱ぎながら、煙を吐き出した。
「お主は自分の本性を倅には見せておらんのじゃな」
 驚いたように水木は目を丸め、噴き出した。
 外された白い割烹着が床板に吸い寄せられるように落ちた。
「今度は親父の顔か。人のことを我が物顔で貪っておきながら説教たれてくるとは……お前は本当にくだらなくなったな」
 痛いところを突かれて声も出なかった。
 逃げるように、乱暴に引き戸を開けて外に飛び出した。じりじりと肌を日光が焼く。思い出したように日傘をさすと、気のせいか涼しく感じる。
 木陰に自然と足を踏み入れ、並木道を行く。
 住宅も減り、草木の多い繁る墓場の前でゲゲ郎は足を止めた。
 湿っぽい墓場の匂いが、いつもと何か違う。
 生々しい土の香りより、焦げ臭い匂いがする。
 まるでここで遺体を焼いたような。
 不審に思いながらも、いつものように古い大木の木陰に向かった。手の甲で木肌を叩くが、地面に異変が起こらない。
 いつもなら生き物の柔肌のように脈打つ土も、這い出てくる屍の手すらない。
 地獄の戸が開かないのだ。
……閉じておる……?」
 地獄への手順を間違えたのだろうか。
 地獄へ行くのは何にしろ、何十年ぶりか。
 それこそ息子が生まれ落ちてから行っていない。
 後ろ暗い罪を覗かれないように、行くことを避けていた。
 他の入り口もあるはずだ。
 下駄が泥に沈みこむのも気に留めず、焦ったように墓場を出た。
 枯れ井戸、山奥の沢、沼の底。
 あらゆる場所を歩いて回り、陽が傾き始めてよろめいてベンチに腰を落とした。街灯が点滅しながら頭上を照らしている。
 生温い汗がゲゲ郎の頬を伝っていた。
 手を尽くしたのにどこからも、地獄にいけない。
 まるですっかり地獄に拒まれているようだ。
 蜩が未練がましく鳴いている。帰りたくないと足が重くなる。
 家に帰らないといけない。
 だが気が重い。
 水木の顔を見ると、まるで砂のように貞操観念がぼろぼろと崩れてしまうのだ。
 きっと手酷く抱くだろう。
 自分の方が良いおとこだと、教え込むように。
 両手を羽のように広げて顔を覆った。手のひらから、ひどく甘い匂いがする。
 この匂いに、覚えがある。
 記憶の糸を手繰り寄せていく。
 ————水木の煙草が脳裏に過ぎった。
 水木の煙草の匂いだ。
 それが手に、染み付いている。
 まるで離れていても離れられないというように。
「こんなところで何をしてるの」
 すぐ背後から若い女の声がした。
 恐る恐る振り向くと、赤いスカートを履いた猫娘がゲゲ郎を見下ろしていた。記憶と違うのは、猫娘は髪を伸ばして一つに束ねていた。
「猫娘……なぜここに」
 長く伸びた髪を手で払い、ため息を吐いた猫娘は小脇に抱えたバッグから扇子を取り出した。
「仕事帰りに通りかかったら、知った気配があったから」
「仕事などしておったのか」
 猫娘も息子も、失礼だがあまり働いているイメージがない。
 知らない間に二人は大人になっているのだ。
 いつまでもそんなはずはない。
「ええ。お金が入り用なのよ。必要経費ってやつね」
 猫娘とお金のイメージが結びつかない。
 眉を寄せるゲゲ郎をどう思ったのか、猫娘は街灯に舞い飛ぶ蛾を見つめていた。
「親父さんは、何にも知らないのね」
 憐れむような眼差しに心臓の端っこが縛られたように痛む。
「私の店にくる? さっき締めたところだけど、コーヒーの一杯ぐらいご馳走様するわ」
 猫娘が差し出した名刺に、縋るように掴んだ。