松藤エヌ
35266文字
Public
 

文学フリマ東京42 サンプル『見捨てないでね、ハニー』




 翌日が休日ということもあり、膨大に積み上がっていた書類の山をやっとのことで片付けた私は、定時から一時間過ぎてようやく、職場を後にすることができた。退社際、私を見た部長が何か口を開きかけた気もしたが、気がしただけなので、気にしないことにして、足早に去った。仕事熱心なことは結構だが、それを部下に求めないでほしい。と、常々思う。あの部長の頭には、定時という概念が存在しない。わずかばかりに残ったモラルがそれを阻止するが、世が世なら、あの部長はきっと、部下を死ぬまで働かせ続けていることだろう。「上に不満があるなら自分が上に立つか辞めるしかないね」と一人前に香子から説かれたこともあるが、膨大な仕事量を抱える部長を見ていて自ら上に上がろうとも思えず、かといってしかしやはり部長に対する不満が消えるわけでもない。不満はあれども、貝でいることが一番賢い生き方だと、そう思ってしまうのだから、こうして上昇志向のない若者が生まれるのだ。
 いったん家に帰り、私服へ着替えた。懐中電灯やビニール袋などをリュックに詰めて、マンションのエントランス先に呼んでおいたタクシーに乗り込む。タクシーの運転手に行く先を伝える。そして、大いに顔を顰められる。それもそうだろう。と、納得する。時刻は夜の八時を目前に控え、私が運転手へ提示した行き先とは、いわゆる自殺の名所なのだ。それは、ここらに住んでいる人間なら知らない者はない、有名な橋だ。非常に高い位置に橋が架かっていて、下の川は流れが速く、底も深い。鉄線や落下防止ネットが張られた今は、あまり地元ニュースでも自殺者の話を見かけなくなったが、それまでは日々頻繁に見かけるほど、自殺志願者にこよなく愛される橋だった。
「お客さん、自殺志願者なら私は運転したくないんだけどね」と、タクシーの運転手が私に話しかけてくる。目的地のみを伝えタクシーを無言で走らせて、五分ほど経っていたころだった。
「自殺志願者かもしれない友人がいて、その友人が橋にいるかもしれなくて」
 そこで死んでいるかもしれなくて。私は、かもしれないばかりの、仮定の話を素直に話す。香子が自殺志願者で、自殺の名所にいるかもしれない、というのはあくまで仮定の話で、絶対ではない。今日はどうやって香子を探そうかと、仕事中に考えていた時に、この橋の存在を思い出したのだ。自殺志願者の行きそうなところなど、私にとってはその名所以外見当もつかないことだった。
 運転手は前を向いたまま、納得したように「ああ」と唸る。
「なら安心した。いや、つい昨日も自殺志願らしいお客さんを橋まで連れて行ったばかりでね」
「え」
「まだニュースで見かけてはないんだけど、見つかってないだけじゃないかなあ、ご遺体」
 言われて、私は居心地が悪くなり、後部座席で座る場所を改める。そんな私を見て、運転手が軽く笑う。まさか冗談か? とバックミラー越しに運転手を睨むものの、しかし、冗談であると簡単に言えるほど、その橋はいわくのないものではなかった。
「運転手さんは最近、目が見えないほど前髪を伸ばした、長身の女性を乗せてませんか。ファッションも奇抜だから、印象に残りやすい外見なのですが」
 まさかその先日連れて行った客とやらが香子ではないかと、念のため、訊ねてみる。
 しかし、運転手は首を振る。「あいにく、あの時のお客さんは男性だったよ」
「そうですか」
 ほっとしたような、しかしまた何の手掛かりも得られず落ち込むような、そんな気がして、窓の外を眺める。外の風景は暗く、しかしすでに郊外らしい自然が少しずつ見えてきており、目的地が近づいてきていることを、知らせてくれる。
「でも、この時間に橋の下へ行くことはお勧めしないよ。暗いし、万が一足を滑らせて川へ落ちたりしたら大変だ」運転手が言った。
「橋の上を見ようと思っているだけなんです。遺書とか、靴とか、無いかって。じっとしているよりも、何かしらの可能性をつぶしたくて」
 思わず、香子の、踵が踏まれ、くたびれた黒い靴が、橋げたに置かれている様を想像して、頭を振る。
 すると、顔を上げた時、バックミラー越しに、運転手と目が合った。
「ご友人はお客さんみたいな友達がいて幸せ者だね」運転手は、そう言った。
「そんなことないですよ」
 私は、否定する。謙遜ではなく、そう思う。眉を顰める。私は香子に対して何もできていない、してやれていない、臆病者だと、自己嫌悪に陥る。
 しかし、運転手は前を向いたまま首を振る。
「お客さんは、もしご友人が遺体となって見つかっても、きっと無意味に責め立てたりはしないだろう? ちゃんと理由を考えようとするはずだ」
……
 運転手に言われて、想像する。もし、今から行く橋に、その下の川に香子の遺体を発見したとして、私はいったいどうするだろうか。悲しむのは悲しむはずだ。想像するだけで胃液がこみ上がってくる心地さえする。しかし、悲しむが、香子を責めるだろうか、私は。そう自問して、頭に靄がかかる心地となる。何をしているんだ、何故死んだんだ、何故生きてくれなかったんだと、香子に対して、私は果たして声を大にしてそう言うだろうか。思いの丈をぶつけるだろうか。それを想像すると、何とも言えない気持ちとなり、答えが出ない。答えを出せない。むしろ、よかったな、とその死を祝福している自分さえ、思い描ける。どの感情が正解なのだと、自問する。
 橋が近づき、タクシーは、街灯の少ない道路をまっすぐ進んでいく。窓の外はすでに夜の深い暗闇に包まれており、タクシーのヘッドライトが照らす明かりだけが、今はこの道を進む唯一の頼りだった。
「私は、あの子のこと、何もわかっていません」
 何故だかはわからない。しかし、ため込んでいた弱音が、つい、こぼれてしまった。喉の奥に突っかかっていた言葉が吐き出されて、咽頭が痙攣しているような、そんな不快感が襲ってくる。胃には岩でも詰められているような、そんな圧迫感を感じた。
 私は、香子のことを何もわかっていない。何もわかってやれていない。わかってやれない故に、香子の苦悩、生きづらさをともに悲しんでやれない。そのことが、非常に歯がゆくて、仕方がない。だから、香子がもし自死を選んだとして、私に何が言えるだろうか、と、どうしようもない感情が襲ってくる。
 しかし、運転手は「いや」と言う。首を振って、バックミラー越しに私を見る。「それが普通だよ」と、そう言った。
「どれだけ仲が良くても、所詮は他人さ。他人の考えていること、感じていることをそっくりそのまま理解できる人間なんて、世界中探しても一人だっているはずないだろう。良い友人っていうのは、楽しい時も、つらい時も、どんな時も傍で寄り添って道を微かにでも照らしてやれるような、そんな存在のことを言うんだと、私は思うよ」
 そう言って、運転手が鼻を掻いた姿が、バックミラーに写る。「いやだな、恥ずかしいことを言ってしまったよ」と、照れているようだった。
 運転手の言葉に、私は胸の真ん中を強く殴られたような、そんな気がした。それほどの衝撃が、その言葉には込められていた。胃を強く圧迫していた岩が砕け散り、胸までも軽くなったような、そんな気さえした。そして、一つ、香子との会話を思い出す。「先輩だけは私に同情しないでね。いつもみたいに手を引いてくれるだけで充分だよ」
 確か大学時代、嫌なものを視たと体調を崩した香子のことを看病しているときに、そう言われたのだ。
「同情も時には必要じゃない?」
 私は、寝込んだ香子のその苦しそうな様に、「辛いよね、大丈夫?」と、香子の苦しさを理解できないながらも、しかし思いつく言葉の限りで看病の折に同情を示していた。それが香子の気持ちに寄り添うことだと思ったからだ。しかし、それが不要だと言うのか? と、ひどい衝撃と罪悪感で、香子に訊ねる。
「先輩は純粋に優しい人なんだとちゃんとわかってはいるけどね」香子はひどく柔らかく微笑んだ。「私に友情を示してくれるなら、同情だけはしないで」
 あの時の香子は、微笑みながらも何故か泣きそうな顔をしていたことを、私は今でも忘れることができない。

 私は、たまらず前のめりになって運転手に訊ねる。
「そんなので良いんでしょうか」
 気持ちを理解してやれない、そんな私を情けなく思わなくても良いのかと、目の前の啓示に縋る。
「良い良い。友たるものは、推察と沈黙に熟達した者でなければならないってね。気持ちをある程度推し量って、しかし求められるまま静かに傍にいてやるだけで、十分さ」
 そう、笑い飛ばしてくれた運転手は、私が橋を往復して帰ってくるまで、タクシーを橋の入り口に止めて待っていてくれた。

 生憎か、幸いにしてか、橋には、香子の痕跡など一つも見つからなかった。ひとまず安堵ののちに、自宅のマンションへたどり着いたのは、もう夜の九時近くになっていたころで、多くで世話になったタクシーの運転手へ手を振りつつ、マンションのエントランスへ入っていく。その照明の眩さに目をすがめた時、現実へ帰ってきたような、母のいる実家へ帰ってきたような、そんな安心感が襲ってきて、思わず肺の奥底から大きく息が漏れた。夜だというのに人工的に明るく照らされたエントランスは、道中の暗い空間とは対照的で、明るいというだけで、私の心に安らかな感情を与えてくれる。
 少し早いが、今日はもう寝よう。明日、休日を使ってまた香子を明るい時間に探しに行こう。そう決めて、五日ほどぶりに、郵便ポストを覗きこむ。日ごろ郵便ポストを確認する習慣は、残念なことに私には備わっておらず、以前、香子にも苦言を呈されたことがある。しかし、仮に一週間ほど確認しなかったとしても、きっと大した問題にはならないほど、私のポストには大した手紙は届かないのだ。案の定、今日もポストの中にはチラシや公共料金の葉書が乱雑に重なっているだけであり、わずかに煩わしさを感じながら、それを掻き出す。
 しかし、その中でも一通の封筒にどうしても目が止まったのは、それこそ神の啓示としか言いようがないだろう。
 その手紙を手に取った時、あたりがさっと無音になったような、そんな気がした。自分の鼓動だけが嫌に耳に響いていて、ひどくうるさく不快だった。
 宛名も差出人も何も書かれていないその真っ白な封筒をその場で開けて、中の便せんに目を通す。上から下まで、憑かれたように食い入って読んでいく。
 そして、私は走った。エントランスを飛び出て、全力で腕を振り、足を前へ進めた。
 飛び乗った電車の中、もう一度手紙を広げ、目を通す。がたがたと揺れる電車が私の体を揺らし、うるさいくらいの走行音が、私の鼓膜を大きく揺さぶっている。
──

5月4日 文学フリマ東京42
南1・2ホール B-84
松藤エヌ
新刊『見捨てないでね、ハニー』より