松藤エヌ
35266文字
Public
 

文学フリマ東京42 サンプル『見捨てないでね、ハニー』




 大学時代の休日は、よく、山や海、川なんかへ遊びにいった。どれも香子からの発案だ。前世は自然に囲まれたアフリカの原住民だったのではないかというほど、香子は自然を愛していた。大学はそこそこ文明的な土地に位置していて、わざわざ遠出せずとも大抵の学生は遊びを楽しむことができる環境にあったというのに、私は休日の度、香子に遠くの自然まで連れ回された。しかも、運転手という労働者として。
「あんたはどうしてそんなに自然が好きなんだ」と、一度、香子へ訊ねたことがある。たしか渓流釣りに行く道中のことだった。レンタカーの中、発案者の香子が助手席で退屈そうに欠伸なんてしていたので、運転手としては呆れが先立ちながらも、話題を提供してやったのだ。
 大学近くの三車線道路から、既に中央線のない幅広の一本道に変わっていて、あたりは見回せども見回せども緑と青の綺麗なコントラストばかりだった。走行している道路の向かう先、目の前の山の中に穴場の釣り場を見据えつつ、私はまだ長い道中に若干、飽きが生じていた。それくらい、代わり映えのしないのどかな景色だった。
「まず、人混みが好きじゃない」香子は依然、退屈そうに車の窓で頬杖をつきながら、そう言った。「時代が時代なら、私は山に一人で篭って自給自足の生活を送っていたかった」
「でも時代の流れはそれを許さないと?」
「そう。今や山といえども必ずどこかに所有者がいるから。国でも個人でも自治体でも、誰かの所有物なんだよね。私が勝手に暮らそうものなら、それは不法行為に他ならない」
「じゃあ、将来は山を丸ごと買えば良い」
「他人事だと思って」
 香子は私を一瞥して一笑したが、実際、冷めた言い方をしてしまえば、私にとっては他人事だった。私には理解できなかった。私だって自然は好きだが、しかし都市部生まれの私にとって、人混みは苦手ではないし、むしろ人が多くいるのは安心した。金を利用した遊びはもちろん好きだし、文明の未発達な山の中で生活するなど、私には考えられないことだった。だから、上辺で同意しておく。「まあ、スローライフは憧れるよね」
「生きづらいんだよ」香子は言葉強く、そう言った。
 運転中、香子の方へ首を回すこともできず、目線だけ助手席の方へ、そっと動かす。
 香子は依然、窓に頬杖をつきながらも、顔は窓の外の広大な自然へと、向けていた。
「生きづらいですか」私は、どう返答すべきか分からず、前を向きハンドルを握ったまま、問い返す。
「生きづらい。人が苦手」吐き捨てるような言葉だった。「みんな私とは違う人ばっか」
「視えない人って意味?」
「そう。視えない人の中だと私はやっぱり浮いている。みんなにうまく馴染めなくって」
「あんたはファッションが個性的なだけで、馴染めてないようには見えないけど」
「それは私が合わせてるからだよ。合わせないと変人ってレッテルを貼られちゃうから」
「レッテル」
「先輩には分からないだろうね。疲れるんだよ、本当に」
 舗装されていた道が終わる。車は、山の中へと続く砂利道へと入っていく。四輪駆動の車をレンタルしてきたものの、やはり山道は体が酷く揺れた。不安定な軸は私の気持ちをかき乱し、私はますます、前しか向けなくなる。
 私といるのは疲れないのか、とか、合わせているという割に奇抜なファッションを貫いていることにも何か理由はあるのか、とか、色々疑問が浮かびつつも、タイヤが大きな石や太い枝を踏み、ガタガタと体が揺れるたびに、その質問は宙で弾けて、消えていく。口を開く勇気が持てなかったのは、口を開けば舌を噛みそうだったからだと、臆病な私は、頭の中で一人、言い訳した。
 暫くは、無言のまま車を走らせた。その間眠気が襲ってこなかったのは、車中の空気がピリついて仕方がなかったからだ。目的地の渓流へと到着するまで、香子は一度も窓の外から視線を逸らすことがなかった。首を回すことができない私は、横目で見にくいながらもその様子を確認する他なく、香子の見えない表情を一人で想像した。泣いているのか、怒っているのか、はたまた生きにくい世の中に絶望した顔をしているのか。どれも考えられて、しかしどれもしっくりこなくて、結局、私には分からなかった。
 渓流に到着すると、どちらからともなく私たちは車を降りた。トランクから釣り道具を引っ張り出す頃、香子の様子は、もういつも通りに戻っていた。
「先輩って、哲学、詳しかったりする?」
 釣りをしながら、香子は突然、そう訊ねてきた。私が釣り針を川底に引っ掛けて、どう引っ張り出そうかと四苦八苦していた頃だ。川底に針を引っ掛けることを地球釣りと揶揄する言葉もあるが、そんなエンターテインメント要素はいらないからとりあえず針を返してくれと、私は必死に釣竿を動かし続けた。
「今、それどころじゃない」しかし、釣竿はびくとも動かない。
「さっきの会話で思い出した、ニーチェの言葉にこんなものがあってね」
「先輩が必死こいてる姿、あんたには見えてないわけ?」
「われわらが広々とした自然にこれほどいたがるのは、自然がわれわれに関してなんら意見を持っていないからである」
……つまり?」要領を得ず、私は間抜けに竿を抱えたまま問い返す。
「母なる自然よ万歳、ってことかな」
「はあ?」
 意味がわからず、脱力する。途端に、ふと竿が軽くなる。引っ張ってみると、先ほどまで川底でびくともしなかった針が抜けて、それがするりと水面から顔を出した。針に引っ掛けた、大量の藻屑たちとともに。
「大漁だ。良かったね」
「他人事だと思って」
「ふふ、他人事だからね」
 釣り上げた藻屑たちを前に途方に暮れる私の横で、香子は、指をさしてけらけらと笑っていた。

 二人で渓流釣りへ行ったのは、確か喫煙所で知り合って、半年も経っていなかった頃だと思う。その後に香子と長谷川が親しくなって、二回目以降は長谷川もついてくるようになったから、多分、その筈だ。だから私はそれ以降、香子の自然好きについて突っ込んだことはない。正直、触れない方が良い気がしていた。どれだけ休みのたびに連れ回されようとも、私はただ黙って、運転手の役目に没頭した。聞く機会も、勇気も持てなかった。どれもこれも、私が腰抜けの臆病者だからだ。
 しかし、懐かしいことだ。釣りのセンスは、長谷川がピカイチ、次点で香子。私はダントツのドベだった。私は魚に嫌われているのではないだろうかと、あの時期は、本気でそう思ったほとだ。だからか、社会人になって香子と休みの予定が合わなくなってからは、釣りなど一度も出かけたことがない。
 香子は、今もたまに釣りへ出かけているのだろうか。
 定時後、電車に乗り二駅で辿り着いた香子の住むアパートの部屋の前、外から見える風呂場の窓に、内側から釣竿が立てかけられているのを廊下から見つけて、そんな回顧をする。
 呼び鈴を鳴らす。軽い電子音が、部屋の中と外に響く。しかしやはり、何秒待っても応答はない。そのため、やはり合鍵を使う羽目になる。家主に了承を得ることなく合鍵を使ったのは、これが初めてのことだった。
 香子の家へ来たのは久しぶりだった。前回、香子とともに居酒屋で飲み、珍しく私の方が酔い潰れて世話になった時以来に、ここに来た。
 大雑把な奴の性格がよく家の中に表れていて、廊下にはいつ出すのか分からない書類のゴミが積まれており、キッチンは汚くこそないものの、食器やレトルト食品で溢れかえっている。寝室のベッドの上、布団は畳まれることもなく、くしゃりとひと山にまとめられていて、床の上には着替えたのであろう、寝巻きが上下とも、散らばっていた。
 トイレも風呂場も確認したが、やはりどこにも香子の姿は見つからなかった。香子は完全に留守だった。今度こそ床の上で死体を発見するかもしれないと気を張っていただけに、脱力する肩の力も大きくなる。
 しかし、今度は新たな問題が浮上する。香子はいったいいつから留守にしていて、どこに行っているのだろう。
 念のため、心当たりのあるデスクの引き出しを確認する。封のされた封筒なんかを探してみる。そこに遺書など入ってやしないかと、そう思ったからだ。しかし、幸いにしてそれらしい書類は一つも見つからなかった。
 勝手にベッドへ腰掛けさせてもらう。見慣れた天井を見上げ、堪えていた肺の奥底の息をどっと吐く。目を瞑り、考える。どこへ消えたか知れない、この部屋の主のことを想う。
 静かな部屋の中、壁掛け時計の秒針の音だけが、虚しく盛大に響いている。