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松藤エヌ
35266文字
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文学フリマ東京42 サンプル『見捨てないでね、ハニー』
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無心で目の前のパソコンと向き合っていた時だった。
「なあ」と白い歯を見せながら、高橋が私のデスクにコーヒーを一杯置く。時刻は昼の三時を過ぎており、ちょうど、どの社員も集中力が切れ始める頃合いだった。
「前言ったトロッコ問題、答えは出たかい? 本田くん」
「その鼻につく話し方やめて。あと用が無いならどっか行って」
私は定時に上がるため、山のような仕事を無心でこなしていた最中であり、高橋の暇つぶしに付き合ってやる時間などない。しかし、高橋は私のあからさまな邪険さなど気にすることはなく、むしろ楽しそうに、ちょうど空席となっていた私の隣の席に腰かけた。
「あれさ、あの後もっといろいろ調べてみたんだけど、俺の考え方は功利主義ってのに当てはまるらしい。ジェレミ・ベンサムやチェーザレ・ベッカーリアが唱えた考え方さ。人の行動はその効用によって決定されるべきっていうものだ。つまり、大が助かるなら小は切り捨てろって言うことだ」
「そうですか。私は忙しいんだけど」私は、高橋のことを見向きもせずに、言い放つ。
「聞けよ、面白いんだって」しかし、高橋は折れなかった。
「高橋さぁ。見てよ、この書類の山を。どの社員も定時に上がる自由があるって言うのに、私はおよそあと三時間弱で終わらせることができるとは思えない量の書類を抱えてんの。おかしいでしょ、ねえ」
私は大げさに、両手を広げて空を仰いでみる。嘆いてみる。
しかし、高橋はやはり引かない。「そうか」と私に同情のこもった視線を向けてくるだけで、気を使いこの場を去ろうなどという気配は一切見せない。
「根を詰めすぎるのも良くないぞ。たまには小話をはさんだりしてブレイクしないと」
「あんたはブレイクを楽しみすぎ」
「それで、トロッコ問題の話だけど」
「まだ続くんですね」私は半ば、あきらめた。
「功利主義と異なる思想を持っているものとして、義務論ってものもあるんだ。誰かを目的のためにつかうべきではなく、自分は何もするべきではないって考え方。つまり、分岐器の前にいて、選択権を持っているとしても、何もするなってこと。これ、おもしろくないか?」
目を輝かせて語るその圧についに耐え切れなくなり、先ほど差し出されたコーヒーを啜りながら、高橋の方へ椅子を向ける。コーヒーはひどく薄味で、高橋が特製のアメリカンを淹れてきたものだと予想できた。エスプレッソ好きの身からすると、コーヒーのお湯割りのような味で、思わず、舌を小さく出す。
私がようやく話へ関心を向けたことに、高橋はことさら満足そうに私の顔を見ると、まだ語り足りないのか、「それでな」と身振りを付け加えてつづけた。
「もっと調べたんだ。面白くって。トロッコ問題と似たようなものはないかなって。そしたら、便器の蜘蛛って思考実験があった」
「便器の蜘蛛?」
聞きなれない言葉に、首をかしげる。便所にいる蜘蛛を思い浮かべる。「ああ、いるよね、公衆トイレに蜘蛛」なんて、浅はかな思考を披露する。しかし、突っ込まれるかと思いきや、高橋は「そう」と指を立てて、私の発言を肯定した。
「まさしくその蜘蛛のことだ。これはな、人生の意味について問いかける思考実験らしい」
「そんな、仰々しい」
「提起者のネーゲルは、幼いころに校舎のトイレで一匹の蜘蛛を見つけるんだが、巣を張っている場所が薄汚い便器だったもんで、この蜘蛛はこんなところで生きてて楽しいのだろうか、って思ったわけだ。それで、便器から蜘蛛を助け出そうとする。そして、誤って蜘蛛を殺してしまう」
「嫌な話」
「ネーゲルからすれば、善意で蜘蛛を救い出そうとしたものの、結果として蜘蛛を殺してしまったわけだろう? これは、他者が本当に望んでいるものをどうやって知りうるのか、っていう問題の投げかけらしい」
「蜘蛛からすると、死ぬよりは便器で生きていた方がマシだったって話?」
「便器を不快だと思っていなかったら、ネーゲルの手助けは余計なお世話だったかもしれないし、便器で生きることに絶望していたら、ネーゲルによって殺されて、満足しているかもしれない。それこそ、考え方はそれぞれさ」
満足気に語る高橋の傍ら、私はぼんやりと、香子のことを思い浮かべる。今朝、相川から言われたばかりの「生きにくそうだったでしょう」という台詞が、頭の中で何度も回る。「生きづらいんだ」と吐き出した、香子の顔が、脳裏をよぎる。
香子が便器の蜘蛛だったとして、私は、どうするべきなのだろう。
「どうやったら蜘蛛の本当の望みを知ることができるかな」
私の問いに、高橋も難しい顔をして、首を傾げた。
「それがわかれば一番良いんだが、わからないから、こうして思考問題になっているわけだ」
「学者様なら、そのあたりの答えをばっちり出しておいてくれないものですかね」
「答えを出すことができない問題を提唱してこその哲学者だろ?」
高橋が、得意気に語る。
私は顔を歪めるほかなく、ひどくまずいコーヒーに再び、口をつける。
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