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松藤エヌ
35266文字
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文学フリマ東京42 サンプル『見捨てないでね、ハニー』
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夜中の一時、カホンを背負い自転車を漕ぐ。まだ静けさを知らないネオン街を左手に、夜中の静寂さを抱いた城下公園を右手に、その境界線である遊歩道を、ひた走っている。私は何をしているんだ、との自問も浮かぶが、切れる息と、少しだけ早く脈打つ鼓動を耳に、城下公園の西口を目指している。城下公園の西口を入ってすぐのベンチから、後輩に呼び出されたからだ。
「カホンを持ってきてよ」
そんな唐突な申し出は、突然、スピーカー越しにやってきた。日付が変わって三十分ほど経った頃、非常識にも電話を鳴らしてきた後輩は、挨拶だと言わんばかりにそう言った。
「カホン?」
私は、その言葉に暫く頭を働かせて、そして、首をひねる。部屋の隅に置いていたカホンを見て、そして時計を見る。「馬鹿言うなって」
カホンは、私が趣味にしている楽器だ。大学からドラムを始めて、その延長で手を出した。箱の形をした打楽器で、叩く場所によって様々な音色が出すことができる、面白い楽器だ。そう、音が鳴るのだ。
今を何時だと思っている。私は立派な先輩として、後輩を諭す。大人しく寝て明日に備えろと、直近の目標を立ててやる。しかし、スピーカーの向こうでは、後輩のせせら笑う声が聞こえている。
「城下公園のいつものところにいるから」
後輩は手短にそれだけ告げると、私の返答など全く待たずに、電話を切った。彼女は、後輩の風上にも置けない奴だった。
後輩の名前は、原香子という。学年は二つ下の後輩で、大学のサークル経由で知り合った。とは言っても、同じサークルに所属しているわけではない。私のサークルと香子のサークルは同じサークルボックス棟に部室があり、喫煙所で何度か顔を合わせる内に、自然と言葉を交わすようになっていった。確か、香子が毎度、あまりにも長く残したままタバコを消して出ていくので、それが気になって、私から声をかけたのが初めだったと思う。私は、香子のことは言葉を交わす前から顔を覚えていた。というよりも、あまりにも個性的なその風体を、覚えていた。
香子はいつだって目元を隠している。まっすぐ伸びた長い前髪で、目元に分厚い壁を立てている。服はいつもゆったりとしたラインの服を着込んでいて、それでいていつも気難しい顔をしていて、しかし長身の猫背が、それをより一層雰囲気のあるものに変える。一度目にすれば、忘れるには難しい見た目をしていた。
「もっと軽いものにでも変えたら?」と、私は香子に声をかけた。いつも通り、香子が長いままのタバコを灰皿に捨て、喫煙所を後にしようとした時だ。香子は、いつもピースを吸っていた。タバコは吸えれば何でも良いと考え、あまりタバコに関心がない私でも知っている、タールがなかなかに濃い、玄人向けのタバコだ。
香子は、まさか話しかけられるとは思っていなかったのだろう。その口を開くまで、数秒かかったような覚えがある。私の顔を見ては、しばらくぽかんと呆気にとられていた。
「不味い方が良いから」そして得られた返答は、至ってシンプルなものだった。目元が見えないながらも、綺麗に口角を上げた奴は、存外低く、しかし穏やかな声で、そう言った。
「何それ」
訳がわからないと、そう思った。奇人は見た目のみならず、思考もやはりぶっ飛んでいるのかと、そう、言葉にせずとも私の顔も物語っていたのだろう。そんな反応の私を見た香子は、一人で静かに笑うと、そのまま喫煙所を去っていった。
香子の方から私に話しかけてくるようになったのは、その翌日からのことだった。
「良かったら仲良くしてください、先輩」と握手を求めてきたあの頃は、まだ、可愛げもあったように思う。
城下公園の西口を入ってすぐ右手には、屋根がついた休憩所のようなロッジスペースが設けられていて、そこにはベンチが二つ、置かれている。私たちはよくそこで、学生の余りある空虚な時間を潰してきた。香子の言う「いつものところ」というのは、まさに、その空虚さの象徴たるその場所だ。
自転車に乗ったまま、西口から城下公園へ入る。入り口にはポールが四本立っていて、減速せねばそのポールにぶつかりかねない、そんな絶妙な間隔で並んでいる。
西口すぐ近くの駐輪場へ自転車を停めたところで、ロッジスペースの方から、何か鈴のような音が鳴っているような、そんな気がして、首を回した。
香子がタンバリンを片手に、私に向かって手を振っていた。
「やっほー、良い夜だね」
香子らしい、間の抜けた挨拶を投げられる。
私は、カホンを背負ったまま、ロッジスペースの方へ足を進める。何をしているんだ、とか、どうして私を呼び出したんだ、とか、そのタンバリンはなんだ、とか、色々聞きたいことがこみ上げてきて、しかし、楽しそうに笑っている香子の顔を見て、その全てが泡となって溶けていく。
「今日も狂ってんなぁ」
「あまりに月が綺麗だったから、こんな夜は月下の演奏会でもどうかと思って」
「タンバリンとカホンで?」
「だって私たち、ギターなんてイカした楽器は弾けないじゃない? 二人とも」
「自転車はどこに停めてんの?」
「歩いてきた。帰りは乗せていってよ」
「警察が来たら走れる準備だけはしといてよね」
私はカホンをケースから取り出す。ベンチに座っている香子の隣に、その四角い箱を置いて、上に跨る。カホンに跨る時、いつも図工室にあった木製の工作椅子を、思い出す。思い出して、体ばかりすっかり大きくなってしまったものの、幼少期に戻ったようなそんな心地で、カホンを叩く。簡単な四拍子を、刻んでいく。
「美空先輩のお歌が聴きたいなぁ」
香子は、機嫌良くそう言った。
私がカホンを叩く時、香子はいつだって私に歌わせる。自分は聞き手や盛り上げ役に徹して、決して自分では歌わない。「私、音楽は好きだけどひどい音痴なんだよね」と、以前何かの折に告白された。
リクエストに応えて、歌を歌う。大層なものじゃない、ただの童謡だ。どんぐりころころどんぶりこ。それを真面目くさって、ビブラートなんて交えながら歌ってやると、香子は子どものように笑う。楽しそうに、タンバリンをシャラシャラと鳴らす。
ネオン街のすぐ隣とはいえ、夜中の城下公園の静けさは、私たちの鳴らす音なんて全く意に介さないほどに、暗く、そして落ち着いていた。実際はきっと、公園のすぐ隣を走る車の走行音は聞こえているし、少ないながらも街灯に集まった羽虫が、その命を一心に灯りへぶつける音も、私たちの耳には届いている。しかし、私たちはもうこの空間には私たち二人しかいないのではないのかと思えるほど、この静けさの中、二人で鳴らす音に夢中になって、そして、熱中した。
「そろそろ撤退した方が良いかも」
どれほどカホンを叩き続けたか分からなくなった頃、不意に、香子はそう呟いた。ひらりとベンチから立ち上がり、軽い足取りで私が停めた自転車の方へ歩いていく。
私は数秒、呆気にとられ、そしてすぐさま荷物をまとめて、香子の背中を追いかける。追いついて、横に並ぶ。
「警察?」
「うん。近所の人が通報したんじゃないかな。先輩が捕まって、明日長谷川に笑われるところまで視えた」
「相変わらず便利なもんだね」
自転車のストッパーを外し、カホンを香子に背負わせて、荷台に乗るよう促す。
「相変わらず、ダサいママチャリ」と失礼極まりない言葉を吐きつつ荷台に跨った後輩の重みで、自転車のタイヤが深く沈む。
「置いてっても良いんだけど」
大学進学の際、母からお下がりで譲り受けたママチャリは、よく香子に馬鹿にされた。
「うそうそ。洒落たロードバイクだと二人乗りできないからね。ママチャリ様サマです」
助かってます、と香子は大袈裟に礼を述べる。私は、そうだ、もっと感謝しろ、と香子を睨む。実際、このママチャリは、酔い潰れた香子を何度も家まで送っている。あんたの恩人だぞ、と念を押した。
まだ何も事が起こっていない城下公園から早々に去り、二人乗りの自転車で、香子の家をひとまず目指す。右手の道路では酔っ払いたちがミニスカートの美女に囲まれながらタクシーを譲り合っていて、良い御身分だな、と陳腐な感想が頭に浮かんだ。
香子の家へ向かうためにはネオン街を突っ切る必要があり、夜中にも関わらず落ち着くことを知らない人混みを割って、自転車を進ませる。この街の喧騒は、まだ止むことを知らないらしい。色とりどりの光を浴びながら、飲み会終わりの学生や、夜の店の従業員たちは、忙しなく歩行者天国を行き交っており、自ずと自転車を進ませるスピードも遅くなる。客引きに声をかけられ適当にあしらいつつ、ゆっくり自転車を進めていると、露店の占い師が、偶然目に入った。
「美空先輩くらいだよ、信じてくれるの」
香子もきっと、その占い師を見たのだろう。不意に、背中から声をかけてきた。
「なんの話よ」
私は自転車を漕ぎ、前を向いたまま、空とぼけてみる。なんの話かは、詳細を聞かずとも分かっていたが、ずばりと言い当ててしまうのも、キマリが悪かった。
「さっきもそうだけど、私の話」
香子は、声のトーンを落として呟く。
私は、前を向いたまま、自転車を一人で走らせる。ネオン街の喧騒が横を過ぎ去っていき、先ほどまでの喧騒が嘘のような、静かなアパート街に、突き当たる。街灯もほとんどないその空間は、まるで異世界のように静かで、暗かった。
「あんたが視えているものを否定するつもりはないよ」
ネオン街の灯りを背後に、目の前の暗闇へ進んでいく。
途中、小さな段差に引っかかって、自転車が少し、ガタつく。支えに私の肩を掴んでいた、香子の手に力が入る。薄いTシャツの布越しに伝わる、温かな体温が、力を入れているというのに、しかし力なく、ようやくの様子で私の肩を掴んでいるような、そんな気がした。
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