松藤エヌ
35266文字
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文学フリマ東京42 サンプル『見捨てないでね、ハニー』




 私が社会人として、新生活にも慣れ始めた頃だ。
『貴殿を以下の場所にて待つ』
 そんな決闘状のようなメッセージが、居酒屋の地図とともに、香子から送り付けられてきたことがある。そのようなメッセージは、人の休憩時間を見計らったかのように、昼の十二時ちょうどに送られてきていた。そして、その下には、最初のメッセージから三十分毎に『今忙しい?』『もしかして:ブロック』『えっ無視? 本当にブロック?』『返事がないと寂しいなぁ』という鬱陶しいメッセージが続いていた。
 この後輩は、私の仕事は性質上、決まった休憩時間が無いのだということを、何度説明しても速攻で忘れる。いや、香子は記憶力は良く、洞察力もずば抜けた面はあるのだが、どこか抜けているし、自分にとって重要なこと以外は、きっと覚える気がないのだろう。私も、もう短くもない付き合いになるのだから、そういう人種なのだと考えて、覚えさせることを諦めている。
 結局、昼の三時頃に菓子パンを腹の中へ流し込みながら『奢りなら行く』という先輩らしからぬ返事だけを返して、久しぶりに会社を定時で退社した。
 呼び出された居酒屋は、私の会社から徒歩十分もかからない場所にあった。表通りから裏道へ入った場所に建つ雑居ビルの路面階で、辺りは既に薄暗くなってきているというのに、店の周辺だけはどこか明るい活気に包まれていた。平日の、まだ夕方の六時を過ぎたばかりの時間だというのに、店内はそこそこ人で賑わっている。数年間通いなれた見知った町の一角だというのに、この店に入るのは初めてで、なんだか不思議と、知らない空間に迷い込んでしまったような気持ちになった。
 そんな中、すぐに呼び出した張本人を見つけることが出来たのは、橙色の灯りに照らされた店内で、スーツ姿のサラリーマンや、陽気に語らう複数人のグループが多い中、ポツンと一人、真っ黒な塊がその場で浮いていたからだ。
 香子は鼠色のタートルネックに大判の黒いストールを肩にかけたファッションで、やはり長くて分厚い前髪で目元を隠し、四人用の小ぶりなテーブル席に腰かけていた。何をしているのかと覗いてみれば、場の雰囲気とは不釣り合いに、何も頼まず、ただひたすら携帯ゲーム機の中で偽りのスローライフに興じていた。香子が好んでいるサンドボックスゲームだ。店内で、明らかに香子のいる場だけが異質だった。せめてドリンクくらい頼んでおけば良いものをと呆れるが、初めて会った時から変わらない後輩のその雰囲気に、私が面白さを感じているのは確かだ。
 特に声をかけず、その香子の目の前の席に座る。香子はすぐにぱっと顔を上げたが、しかしまたすぐに視線をゲームへと戻した。手元を覗きこんでみたが、村を襲撃者から守ることに忙しいらしい。小さな声で「あっくそ」「こいつ」などと溢しながら、苦い顔をして、眼前に画面を突き付けながら苦戦している。これは長くなりそうだ、と、上着を脱ぐと、すぐに店員さんがやってきて、代わりにハンガーへかけてくれた。
 一先ず、店員さんにビールとレモンサワーを頼む。店員さんの背中を見送っている時に、尻のポケットからスマホのメールが到着した事を知らせるバイブレーションが鳴った気がしたが、気がしただけなので、そのまま放っておくことにした。どうせ部長だ。仕事に関するメールだ。退社した部下にメールを送ってまで、仕事に精が出ることだ。まあ、メールの到着は気のせいなので、そんな事はどうでも良いのだが。
 暫くして、先ほど上着をかけてくれた店員さんが飲み物を運んできた。愛想よくニコニコしていて、それだけで仕事で疲れた心が癒されていくような心地になる。そんなものだから、私もとびきり愛想よく飲み物を受け取る。部長から手渡される仕事の書類も、この店員さんから手渡されていたならば、きっと私は喜んで仕事に励むだろう。いや、まあ、喜びはしないかもしれないが、少なくとも前向きに仕事と向き合うはずだ。それくらい、人の笑顔は素晴らしい。
 そんなくだらないことを考えていたら、ドリンクの到着に気が付いた香子が、ようやくゲーム機から顔を上げた。私の顔見て、前髪から僅かに覗く目元でも見て取れるほど、困ったような、呆れたような、そんな顔をされる。
「もー、待ったよ美空先輩。今、何時だと思う?」
「あんた、マジ?」開口早々、そうくるか、と呆れて笑えた。「今は夕方の六時二十分だね」
「そうだよね、遅刻だよね」
「でもね、私が店についたのは、六時十分過ぎだったわけなんだけど」スマホの画面を確認して、正確な時刻を伝える。待ち合わせの六時に少々遅れてきたのは事実なので、この後輩のことだから何か言ってきそうだと、店に着いた時間は控えていたのだ。
 しかし、香子はため息をついた。そして、静かに首を振る。溜息をつきたいのは私のほうだ。と思っても、無駄に口達者である目の前の後輩に討論で挑むだけ無駄なので、口には出さない。
「十分以上も待ち合わせに遅れるなんて、それでも先輩は社会人なの? 私が社長だったら、美空先輩みたいな社員は即刻矯正施設送りだよ」
「なに、矯正施設って」
「なってない若者を、こう、超次元的な脳波矯正ヘルメットで、ビビッと改造する施設だよ。知らないの?」
「きっと、今生まれたばかりの施設だろうから、知らなかったなあ」スマホがバイブレーションで揺れるのを、ポケットの中で感じながら、香子へ適当に返事を返す。どうせまた部長からだろう、しつこい男だ。なんて、面と向かっては決して言うことのできない悪態を心の内でつく。
 香子がレモンサワーのジョッキを持ったので、私もビールジョッキを持ち上げる。それに合わせて、香子から、飲み口を低く、ジョッキをぶつけられる。
「どうにもならない日々に乾杯」
「序盤からテンション下がること言うなって」
「あ、眼鏡変えたんだね。前の丸眼鏡、流行に乗って買ってみたんだろうけど、正直全然似合ってなかったから、今の方がデキる女っぽくて良いと思うよ」
「あんたは散々馬鹿にしてきたけど、職場では誰からも何も言われなかったんだからね」
 今は家の引き出しの中で眠る、先代の眼鏡の事を想う。自分では似合ったものを買ったつもりだったが、これが香子のお眼鏡に適わなかった。そして人に馬鹿にされると、元々自信があったとしても、やはりどうしても気になってくる。そうして仕方なく、購入して一ヶ月ほどで、今の眼鏡へ世代交代せざるを得なくなった。それを香子に見せつけてやろうと購入当初から飲みの誘いで連絡をするものの、素っ気なく「ごめん、最近忙しいんだよね」と振られ続けて、今日で三ヶ月ほど経っていたわけだ。
「それは、あれだね。人は、気遣いという事ができる生き物だから」香子は事も無げに言ってのけた。
「それで言うと、あんたは人じゃないことになるけど」
「私、気遣いはできる方だよ?」
「気遣いのできる人間は、もう少し先輩を敬うものだって」ジョッキを握ったまま、敬意のけの字も私に向けたことのない香子に向けて、指先だけを向ける。
「仕方がないなぁ」香子は楽しそうに、しかし心底面倒くさそうな表情を装って、肩をすくめた。そして食べ物のメニューを広げて、こちらへ寄越す。「約束通り今日は奢るよ。お腹空いたし、なに食べたいか早く選んで、先輩」
「敬うって言葉を一回辞書で調べてみた方が良いよ、あんたは」
 歯を見せて笑う香子へ突っ込みを入れつつ、いくつか食べ物を選んで、店員さんを呼ぶ。香子に何を食べたいか聞いても全く参考にならないので、こういう時、いつも料理を頼むのは私の役割だ。曰く「栄養として吸収されるなら何でも良い」らしい。
 実際、以前カエルの姿焼きを冗談のつもりで頼んだ時、この後輩は何も言わずにむしゃむしゃと食べてのけたことがあった。いや、見た目がちょっとアレなだけで、味は鶏肉に似ていて美味しいと思うのだが。でも、初めの一口は勇気がいる。そういうものだ。と、経験者の私は思っていた。にもかかわらず、こともなげに、躊躇することなく、皿がテーブルに着いた途端、まるで鳥の手羽先でも食べるように顔色も変えずカエルを食べ始めた香子を見て、入店時から香子の姿に目を引かれていた店員さんがドン引いていた様は、酒の肴とするにはちょうど良かったし、今思い返しても面白くて笑える。
「美空先輩は私の事、人でなしだと思うの?」
「うん?」
 唐突な問いかけに、突きだしの落花生を口に含んでたため、反応が一瞬遅れる。香子は落花生を手に取り、殻から中身を一粒ずつ皿の上へ出しながら、長い前髪越しでも分かりやすく、視線はどこか遠くへ投げていた。
「人じゃないって言うから」
「言葉の綾でしょ」
「じゃあ、私は普通?」
「普通普通」相槌を打つ。そして「いや」と少しだけ首を捻る。「人でなしとは思わないけど、常人離れしているとは思う」脳内では私と香子を比較している。「私みたいな一般人と比べると、こう、全然違う人種ではあるよね」
「視えるから?」
「それもあるとは思うけど、それ以外の要素の方が強いかな」
「美空先輩は一般人で、私は一般人じゃないと」
「違う」何でそう卑屈に捉える。と、首を振る。「香子は私みたいに、型に嵌まらず生きていてすごいって意味」
「私だって、好きでこんなになったわけじゃないんだよ」
 香子は笑いながら、テーブルに頬杖をつく。
「こんな、って」
 私は言葉が続かず、誤魔化すためにビールジョッキを傾けた。
 香子は大学卒業後、就職の道へは進んでいない。と聞いている。何をしているのか、どうやって生計を立てているのか、何度か聞いたことがあるが、あいまいな返答しか返ってきていないので、深くは突っ込んで聞いたことがない。やんわり聞いてもはぐらかされるし、ということは、香子の中でそこは触れられたく無いと言う事だろうと、私も深く突っ込まずに今日まできた。だから香子の言う「こんな」現状というものが、いったいどのようなものなのか、私は知らない。
 いや、私が知らないのは、卒業後の香子の生活だけではない。むしろ、私が香子について知っている事など、たかが知れている。
 私が知っている原香子という後輩は、私の大学の後輩で、人から一歩下がった所が常の立ち位置で、近寄り難い雰囲気からは想像がつかないほど、話しかければ意外とフランクで、それでも根底は真面目で、少し不器用な人間だ。霊の類が視える故にすこし常人離れしたところはあるが、それでも人間臭いところは視えない人と何も変わらない。そして、趣味はゲームだ。曰く、現実を忘れることができる唯一の娯楽らしい。
 定職についている雰囲気では無いし、かといって、金策に困っているという話も聞かない。外で身に着けている衣服も、むしろかなり気を配っている方だと思う。それを考えると、ますますどのように生活しているのか謎ではあるが、それを深く聞いても良いのか、聞かない方が良いのか。この絶妙な距離感を保ってきたからこそ、今日まで香子が私との関係を続けているのだと考えると、私にはその一歩を踏み出す勇気がどうしてもつかなかった。
「私は、あんたみたいに自由に生きられるのを羨ましいと思う」
「私は、先輩みたいにいち社会人として真っ当に生きられるのを羨ましいと思うかな」
「そう突っかからないでよ」先ほど言葉を誤ったことを後悔し、頭を掻く。香子は小さく息を吐き出すと、口元を和ませた。
「先輩って一見ヤンチャそうだけど、根はすごく真面目だもんね。こうあるべきって自分像がすごくしっかりしてる。その分、社会の荒波に揉まれて色々苦労してるだろうけど……でも、頑張って生きてる人間って感じがして、私は好感が持てる」
「それって褒め言葉? それとも嫌味?」
 照れ臭いやら、胡散臭いやらで、思わず、香子を見る目を細める。
「褒めてるよ。私は先輩と違って人でなしだから」卑屈に捉えないでよ、と、香子はわざとらしく肩を竦めて見せた。先程の意趣返しだ、とでも言いたい事が丸わかりだった。
「卑屈さでいったら香子に敵う奴はいないでしょ」
「先輩だって彼氏にフラれたら暫くは『私が悪かったんだ』『私があの時』『私が』てぐちぐちねちねち言うじゃない」
 痛いところを突かれ、一旦咳払いで誤魔化す。学生時代、フラれた私を慰めると張り切った香子から呼び出され、挙句に私より先に酔っぱらって「ネチネチ大臣」と笑い飛ばされた古い記憶が脳裏を過った。
「じゃあ、私がネチネチ大臣なら、香子は卑屈の神様だね」
 古い嫌な記憶を掻き消しつつ、子供じみた言い争いだとは自覚しつつも、言葉と共に香子へ視線を向ける。
「神様」一瞬呆けながら呟いた香子は、しかしすぐに悪戯っぽく涙袋を膨らませて「神様かぁ」と含みのある笑い方をした。
「私、神様になれたら、世界を自分が良いように作り変えたいな」
「は?」唐突な話題に、一瞬、声が裏返る。「その発想は神様っていうより大魔王じゃね?」と、咄嗟に浮かんだ言葉を口に出しながら、香子の服を見る。今日も相変わらず、色味の少ない真っ黒なファッションに身を包んだ香子は、少なくとも表面的には、神様よりも大魔王の方がお似合いな気がした。
 しかし、香子は笑う。分かってないなぁ、と指を振る。その仕草が鼻についたので指を掴んでやろうとしたが、いち早く気づいた香子に指を引っ込められてしまい、これまた鼻につく、したり顔を向けられるはめになった。
「知ってる? 大魔王の方が世界をあれこれ良いようにしそうなイメージがあるけれど、各国の神話では、けっこう神様の方が世界を滅ぼしがちなんだよ」
「ああ、まあ」
 頷きつつ、旧約聖書を思い浮かべる。あまり詳しくはないのだが、ノアの方舟しかり、私の持ちうる俄知識においては、確かにそんなイメージも無くはなく、しかし、話の筋が見えずに、気のない返事となった。
「まあ、私が大魔王でも神様でも、いずれにせよ人の世が住みにくいことには変わり無いから、作り変えたいなぁって思うけど」
「へえ?」
 生返事を返しながら、香子の出方を伺う。どんな話題をふられるのかと、瞬間的に身構える。しかし、香子は私の視線を受けて、微笑んだまま首をかしげた。そんな対応をされて、私も困って、一緒に首をかしげる。酒場で二人、向かい合わせに座った大の大人が、小首を傾げて見つめ合っている。何だこれは、と内心突っ込みを入れる。難しい話に入るのはできれば避けたかったが、このままでは埓が明かないのは明らかであり、仕方がなく「人の世は住みにくいですか?」と、できるだけ戯けて訊ねてみた。訊ねながら、思い出す。そういえば以前、渓流釣りの時も、似たような質問をした気がする。
 香子は口元を和ませたまま、困ったように少しだけ唸った。
「住みにくすぎるので、できることなら世界を一度滅ぼして再構築したいくらいだね」
 返ってきたのは、らしくない、思っていたよりも物騒な返答だった。
「方舟のお情けは貰えない感じですかね?」
「貰えませんね。動物だけなら乗せても良いけど。ああでも、猿はまた同じような人間に進化してしまうかもしれないから、やっぱり猿もダメかな」
「無慈悲だなあ」やはり大魔王じゃないか、となるべく軽めに突っ込んだ。
「でも、これは所詮机上の空論で、私がいくら神様に憧れたとしても、所詮は人間として生きていくしかないわけでして。さらに言ってしまえば、私たちが生きている人の世は神様が作った訳じゃなく、私たち人間が作ったものだから、人の世が住みにくければ『人でなしの国』に行くしか無いわけでして。でも、残念ながらそんなものは、この世の中のどこにも有りはしないんだよね」
「ほお?」
 何だか頭が良さそうな、それこそ教科書か何かに載っていそうな言葉に聞こえて、相槌を打ちながら、香子を見遣る。偉人の名言や、何かしらからの引用だろうと思っていると、案の定、私の視線に気づいた香子から「草枕だよ、夏目漱石の」という返答を得た。奇抜な風体に似合わぬ回答だったが、そういえば香子は本が好きで、そういう文学作品にも精通していたことを思い出して、納得した。
「香子は物知りだね」凄いよ、と素直に褒める。
「こんなの一般教養じゃない」
 香子は謙遜ではなく、知ってて当たり前でしょ? とでも言いたげな顔をしていた。
「大体の人間はね、一般教養と言われるものも一般的に知らないものなんだよ」非凡なあんたと違ってね、という言葉を、ビールとともに飲み込む。
 つい、私も香子のことをそういう目で見てしまいがちだが、香子は自分が世間から少し浮いている事を自覚していて、その上で、そんな自分に対して複雑な思いを抱いている。ということは、さすがに鈍い私でも、長年の付き合いで分かってきていた。香子は一人が好きだが人づきあいが悪いわけではなく、むしろ人から好かれやすい温厚な立ち振る舞いは、この浮き(・・)を少しでも埋める為に、本人が講じている手段の一つなのだろう。もちろん、生来の性格も温和な方ではあると思うのだが、ただ、たまに香子が取る絵本の登場人物のような模範的人間の行動原理は、やはりそこから来ているはずだ。良い人はこうあるべき、普通の人はこう動くべき、という一種の強迫観念のようなものを、香子からはたまに感じることがある。
 香子はきっと、非凡である自分を全て嫌っているわけではない。しかし、凡人に混じりたいという憧れも、きっと強く存在している。人より秀でた部分を持っているのだから、凡人など見下すくらいにそれを誇れば良いと私は思うのだが、香子にとって、それはそう簡単な問題でもないようだった。
「美空先輩、これは知ってる?」香子は人のそんな考えも知らずに、話を続ける。「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ」
 私はジョッキを置きながら指を刺した。聞き覚えのある内容だった。
「それは聞いたことある。少佐の名言でしょ」
 大学時代、アニメ好きの友人から紹介された作品を思い出す。これは予想通りだったらしく、香子は「そう」と頷いた。
「この二つ、考え方の根底が似ていると思わないかい? ある意味真理に近いってことなんだと思うんだ」香子は力強く言い切った。疑う余地など無いと言いたいように見えた。
「人間である限り、生き辛くても人の世に順応して生きていけってことなんだよ」
 そう言って、お手上げだと言わんばかりに両手を上げた。それは世の中に降参し、甘んじて受け入れるという姿勢よりも、どうにもならない現状に自棄を起こした兵士が、敵兵にいっそ殺してくれ、とせめてもの慈悲を求む姿に見えて仕方がなかった。
「でも、そしたら」私は、言い淀む。だって、でもそしたら、どうしても人様の世の中が生き辛い奴はどうするんだ。と、香子を見る。「人の世が合わない人は、自分を殺して生きろってこと?」
「だって、人間は人様の世の中で生きていくしかないからね。もしくは少佐の言葉通り、馴染めない世の中からは距離を置いて、山の中とかで文明を捨てた暮らしをするしかないかな」
「でも、じゃあ、世の中を生きにくいなって感じてる、香子がいうところの『人でなし』の方が実は真っ当な考え方をしていて、世の中の方が誤っていたら? それで生き辛さを感じるなんて、『人でなし』がかわいそうじゃない」
「世の中は多数派の集まりだし、多数派の思想は正義だよ、先輩」
 香子は嘲笑混じりに、しかしまた強い意志を持って言いきった。その嘲笑が私に向けられたものではないことは明らかであり、香子はどことなく投げている視線の先、人様の世の中に向けて、笑っていた。
 私は何も言えず、そしてそれが情けなくて、ビールを勢いよく呷る。
 香子の言わんとしている事は良く分かるのだ。だが、分かることと納得することは、また別問題だ。
 テーブルに頬杖をついたままでいる香子の方へ視線を遣る。そういえば以前、香子は「山の中で暮らしたい」とぼやいていた。渓流釣りの時だ。しかし皮肉にも、私たちの通っていた大学は、そして今も暮らしているこの街は、香子の理想とはかけ離れた、文明社会のど真ん中に位置する環境で、落ち着きなく、忙しなく、そして慌ただしい。何をするにも、どこへ行くにも人がいて、それを巨大で優良なソサエティと捉えるか、窮屈で生きづらいコミュニティと捉えるか。香子にとってはきっと、限りなく後者に近いのだろう。
 そんな事を考えていたら、斜め前の席に座っているサラリーマンたちの集団から、ワッと大きな声が上がった。おそらく年長者であろう男の時計を見て、数人が囃し立て、歓声を上げたようだ。私が言えた義理では無いが、年長者はいくらか小柄な身長で、そして老化は頭の先に良く現れていた。スーツはお世辞でも吊るしのものではないと言い難く、そんな見た目の男が、時計のブランドだけで若輩たちから囃し立てられている様は、傍目からすれば酷く滑稽な光景だった。
 ああ、社会とはこういうものだ。と、嫌でも実感させられる光景が、すぐ近くで繰り広げられている。思わず視線が釘付けになって、ビールを呷る手も止まってしまった。
 そう。きっと自由な香子にはこんな世の中、似合うはずがないのだ。
「大丈夫だよ」
 不意に声をかけられて目線を上げると、香子は鼻を鳴らして自信有り気に笑って見せた。悪戯っぽいいつもの微笑みを浮かべてはいたが、どこか泣きそうな表情に見えたのは、香子ではなく私が泣きそうだったからかもしれない。しかし、どうにも酒がまわっていて、分からない。
「逃げ道はあるんだよ。少佐の名言にも続きがあってね」
「そんなのあったっけ?」
「それでも嫌なら、って、相手の額に銃を突きつけながら脅すじゃない」
「それは」逃げ道ではなく、行き止まりだ。
 浮かんだ言葉は、香子の戯けた言い方に、喉をうまく通らなかった。
 不安が顔に書いてあったのか、香子から「なに、深刻な顔してるの」と笑われる。笑うな、あんたの心配をしているんだぞ、と言ってやりたくなるが、口元が引きつるのを感じながら、「だよね」と力なく口を歪める他なくて、自分の情け無さに嫌気が差した。
 香子の欲しい言葉が私に分かれば、こういう時でも何か上手い言葉を渡すことができるのに。と、ジョッキに残っていたビールを全て、喉の奥へと流し込む。目を瞑ると頭の中がぐらぐらと揺れて、心なしか、腹の底が少しだけ重く感じた。