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松藤エヌ
35266文字
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文学フリマ東京42 サンプル『見捨てないでね、ハニー』
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香子の目には、常人の目には映らない何かが視えているらしい。突飛な話ではあるのだが、本当だ。俗世めいた言葉で言ってしまえば、きっと精霊や死霊など、香子の目に視えているものは、私たちの言葉でいうところのその類だろう。そいつらの中には、香子に簡単な未来の予言を授けるものもいるようで、その結果、香子は簡単な予知を行うことができている。らしい。
初めてその事実を知ったとき、私は単純に便利なことだと、そう思った。ただの妄想だと、一蹴することはしなかった。
元より香子のことは、頭が良く、勘が鋭い奴だと思っていた。だから、そうした、本人の実力による高度な推測を、思い込みの力によって、予知を授かっていると捉えているのでは? なんてことを、思わないわけではなかったが、香子の目に映る景色を私は視ることができないし、視ることができないということは、その景色を否定することもできないということだ。
何より私は香子の苦労など一つも、理解できやしない。ゆえにそのような短絡的な発想に至るわけで、香子はそんな私に、何とも言い難い顔をしていたのを覚えている。
香子からこの事実を知らされたのは、確か二人で、夏季のレポートを終わらせるため、香子の家に缶詰めになっていた時だった。香子は文系で、私は理系の学部だったから、互いにレポートの手助けができるわけではないのだが、しかし、茹だるような暑さの中、一人きりで部屋に閉じこもってするレポート作業は、根を詰めすぎてしまうが故に実に効率が悪く感じられて、結果、適度な雑談を交えることができる、二人という環境に落ち着いた。
あの日は、とにかく暑い夏の日だった。グラスに入れた氷はすぐに溶けてしまって、二人でアイスキャンディーなんて食べたりしながら、少しでも体を冷やそうとクーラーの風が当たる場所を取り合ったりした。そんな日だから、頭が茹って、香子も口が軽くなってしまったのかもしれない。
「実は私、霊の類が視えるんだよね」
そんな告白を受けたのは、私が、空になってしまった飲み水をキッチンへ取りに行こうと、席を立ちかけた時だった。
私は、咄嗟になんて返したのかは覚えていない。蝉の鳴く声を遠くに聞きながら、「は?」だとか「え?」だとか言いながらも、一瞬その言葉の意味を理解しかねて、中身のない、水滴が多くついたグラスを片手に、しばらく呆けてしまったのは、よく覚えている。それまでは、新発売のテレビゲームの話をしていたのだから、急な話題の提供に、ついていくことができなかったのだ。
「幽霊が視えるってこと?」
「うん、あと、精霊とか。それでたまに、近い未来の予言も教えてもらえる」
「へえ」
私もあの時は、あまりの暑さに頭が茹っていたのだと思う。そうでなければ、もう少し突っ込んだ質問もしていただろうし、もっとリアクションも取れていたように思う。しかし、あの時は暑さのせいでほわほわとした気持ちのまま香子の言葉が頭の中に浮かんでいて、とてもではないが気の利いたことなど、一つも言えなかった。
「それは、便利なことですね」
そして、ようやく言えた言葉がこれだった。
素直な感想だった。単純にそう思ったのだ。
後から聞いたことだが、香子は決して、自分で視たい未来を視ることができるわけではないらしい。霊がどんな未来を見せてくれるのか、どのタイミングで見せてくれるのか、そのすべては霊の気分次第であって、自分で選ぶことはできないのだと、そう言っていた。
だからあの時は、きっと香子も、私がどんな返答をするのか、知らなかったのだと思う。目を丸くして、しばらく黙り込んで、そして何とも言い難い顔をしながら、最終的にはため息を大きく吐かれたのを、覚えている。
「実に先輩らしい意見だね」
「なんですか? 私はもしかして、今、後輩から喧嘩を売られてるんですか?」
「普通は嘘じゃないかとか疑わない? それか、この暑さゆえに頭が湧いたのかと罵っても良いと思う」
「あんたのマゾヒスト的嗜好は知らないけど、じゃあ嘘なの?」
「
……
」
「嘘じゃない様子だったから私は疑わなかった。それに、あんたにしか視えないものを、頭ごなしに否定できる権利なんて、私にあるはずもないし。あんたの世界は、私にはわからないんだから」
本心だった。特別、死霊や精霊の類を信じていたわけではなかったが、しかし信じない理由も、私にはなかった。それに、香子の雰囲気も真面目そのものだった。決して嘘をついている様子には見受けられず、むしろ平然を装いつつも、一世一代の勇気を振り絞って、真剣に私に対して告白してきたような、今思えば、そんな気配すら感じさせていたように思う。
「美空先輩は将来、悪徳商法に騙されるよ」
香子は、目を少し伏せたまま、しかし笑っていた。
「なにそれ。それはさっそくの予言ってわけ?」
「んなわけ。誰だってできる推察だよ」
「なら良かった。私は私の勘に自信があるんだよね。だからあんたの言うことも信じるし、悪徳商法に騙されることもないでしょう」
「勘だなんて、根拠がない、非科学的だよ」
「あんたが言うの? それを」
香子の頭を軽く小突くと、香子はそれを鬱陶しそうに手で払いつつも、しかし顔はどこか晴れやかで、そして今にも歌いだしそうな、そんな雰囲気をまとっていた。
「美空先輩くらいだよ、笑わずに信じてくれたのは」と後から言われた。それが嬉しかったのだと、そういうことだった。
それからというもの、香子は時折、私に予言を授けるようになった。明日は晴れると天気予報では言っているが、しかし実際はにわか雨が降るので洗濯物は干して外出しないほうがいいだとか、次の三限目は居眠りをしていると、教授に大目玉を食らうだろうだとか、予言といっても本当に些細な事柄ばかりだったが、しかしそれは次から次へと的中するのだから、私はそれが面白くなってしまった。
そして私は、香子に無配慮な発言を、してしまう。
「いいよねぇ、香子は。昔からいいことばっかりだったんでしょ、霊が視えるおかげで」
確か、売店のくじであたりを引いた時だったと思う。「今くじを引けば当たるよ」という香子からの予言の元挑戦し、見事私はあたりを引いて、浮かれてしまった。
あの時、香子は珍しく非常に傷ついたような、そんな顔をしていたことを覚えている。
私は、咄嗟に思った。「あ、まずいことを言ってしまった」と。
私は自覚していたはずだった。私には香子の視ている世界がわからないのだと。そして、私はその意味をきちんと理解しておくべきだった。視えている世界がわからないのであれば、それは私が香子の抱える悩みの一つも、理解してやることができないのだということであると。
「ごめん」とすぐに謝った私に、香子はとくに何も言わなかった。むしろそのあとは適当に話を躱すと、すぐに話題を変えられて、その一件はなかったかのように、取り扱われた。それは、もうその話には触れないでほしいと、目の前にいながら、香子に眼前で心の壁を立てられたような、そんな心地がして、その日、私は珍しく悪夢にうなされた。
その悪夢の中、私の視界には、無数の精霊や死霊が浮いていて、そしてそれらは私に直接害をなさずとも、嘘か誠か、様々なことをささやいてくる。あの女は私のことをチビだと呼んでいるだとか、お隣さんは実はこんな秘密を持っているだとか、知りたくもないことまで、ささやかれる。そして、時にはひどい見た目の死霊も近くへやってきては、何もできない私に助けを、求めてくる。
夢の中で、私は子供だった。そして子供の私には、常時かまってくる霊の類が、非常に不快だった。その世界に耐えることができなくなった私は、近くにあったリュックを振り回す。向こうへ行け、静かにしろと、一人で霊たちに向かって騒ぎたてる。しかし、それを見つめる周囲の大人たちの目は非常に冷ややかで、私のことを頭のおかしな奴なのだと、陰口をたたいている。
私は叫ぶ。「どうしてみんなには視えないの」と。誰も手を差し伸べてくれない中、リュックを手に霊を追い払いながら、喉を腫らす。
そして一つの疑問にいきついて、周囲がさっと、静かになる。私の視えているこの世界は、本当に実在するのだろうか。私にしか視えていないのであれば、もしかするとこれは私の妄想にしかすぎず、本当に私の頭がおかしくなっただけなのではないだろうか。
うるさいくらいの静寂に包まれながら、私は一人で葛藤して、そして目を覚ます。寝間着を搾れるのではないかというほどの寝汗をかいて、ばくばくとうるさく鳴り響く鼓動を鼓膜の奥で感じながら、薄暗い部屋、一人きりの自室で、飛び起きる。顔を洗うべく向かった洗面所で、ひどい顔をした自分と、鏡越しに目が合う。
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