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松藤エヌ
35266文字
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文学フリマ東京42 サンプル『見捨てないでね、ハニー』
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『香子と連絡が取れないんだけど』
そんなメッセージが入っていることに気づいたのは、昼の三時を過ぎた頃だった。私はようやくこぎ着けた昼休憩に、荷物が雑然とした会社の給湯室で一人、菓子パンをかじりながらスマホを眺めていて、そんな折、数時間前に長谷川という大学時代の後輩から連絡が入っていることに、気づいた。
長谷川は、私の学部の後輩だ。地質学を専攻していて、背が高く、体躯も良く、いつだって嫌味交じりに私のことを見下ろしてきた、嫌な後輩だ。
「美空先輩はお母さんの胎内に身長を置いてきちゃったんだろうね」とよく笑われたことは、今でも忘れるに忘れることができない。とにかく、平均よりも低い私の身長に対して、自らの恵まれたモデルのような体躯をこれでもかと私に自慢してきた、嫌な後輩だった。しかし、大学を卒業してからもう何年も経つというのに、何故だか今でも親交がある。人付き合いとは不思議なものだ。
香子のことは、霊の話は伏せた上で、面白い奴がいるんだと、過去に長谷川に紹介していた。予想通り、面白いもの好きの長谷川は、香子の奇抜な風体にまず飛びついて、次に、その不思議な雰囲気の虜になった。あれは、見ていてとても面白かった。長谷川は次々と香子を質問攻めにして、困り果てた香子が、年甲斐もなく困った顔のまま私に助けを求めてくる。そんな光景が、幾度となく繰り広げられた。結局、なんだかんだあの二人は大学卒業後も、私の知らないところで仲良くしているようで、結果論だが、意外と友人の少ない香子に、長谷川を紹介して良かったと、そう思う。
『寝てるんじゃないの?』
菓子パンを左手に、スマホを右手に、適当に文字を打ち込みながら、長谷川にメッセージを返す。
今まで大抵、香子と連絡が取れない時、それは奴が泥のように眠りこけている時だった。昔から香子は過眠の気があって、私もよく連絡が取れずに苦労したし、本人もよく大学の授業に遅れて、落第の危機に晒されていた。
長谷川は、時同じくしてスマホを眺めていたのだろう。それか、仕事中でも気にせずスマホを触っているのかもしれない。長谷川の性格上後者のような気もするが、とにかく、すぐさま、私のスマホに長谷川から再びメッセージが届いた。
『三日も連絡がつかないんだよね。美空先輩からも連絡とってみてよ』とのことだった。
三日か。大したことはないだろうと踏んでいながらも、流石に私も、菓子パンを飲み込む喉が、少し詰まる。嫌な想像をする。まさか眠りこけたまま部屋の中で死んでやいないだろうか、と、香子が大学時代から住み続けているボロアパートを、想像する。それに関しては、ことさら、前例があるものだから、不安になるのだ。
大学時代のことだ。香子と丸一日連絡がつかず、不安に思いアパートを訪ねてみると、無施錠のまま、香子は床の上で死んでいた。いや、死んでいた、というのは表現の一種であって、事実ではない。死んだように、くたばったように、眠りこけていた。とにかく、およそ眠る場所とは思えぬ場所で倒れていたものだから、私は咄嗟に救急車ではなく警察を呼ぼうと考えるほど、動揺した。
「丸一日寝ていたら、元気が出なくなっちゃって、そしたら動けなくなっちゃって、また寝てた」
我に返った私が無理やりゆすり起こした後、香子はやつれた顔のまま、ヘラッと軽く笑ってそう言った。実際、唇や目蓋の色を見る限り低血糖を起こしていたようだったし、飯を作って食わせると、ある程度元気を取り戻したように、元どおりの雰囲気に戻ったので、香子の言うことに間違いはなかったのだろう。
しかし、私はその時考えた。もし私が香子の家を訪ねていなければ、こいつはこのまま死んでいたんじゃないのか、と。普段は長い前髪の奥に隠された、意外と人懐っこい目元をした立派な成人女性が、くたびれた部屋着のまま、起死回生を図るべく無心に飯を食う様を眺めながら、私は、少しだけ背筋に寒気を催した。そう考えると、居ても立ってもいられなくなり、翌日には、香子のアパートの合鍵を無理やり作らせて、私はそれを、奪い取った。「強奪だ」と香子は顔を顰めていたが、しかしそうは言いつつもそれを奪い返されることもなく、あの家の合鍵は、以来、私の手元に残っている。
『分かった。また連絡する』
長谷川にメッセージを返し、一旦、スマホの画面を暗くすると、眉を顰めた自分と目があった。
香子は大丈夫だろうか。嫌な想像ばかりが浮かんで、給湯室の静寂が耳に痛む。
私は、菓子パンがうまく喉を通っていないことに気づき、給湯室のウォーターサーバーから一杯、水を貰った。
水で喉を潤してから、再び、スマホの画面を点灯させる。無駄だとわかっていつつも、香子のスマホを鳴らしてみる。予想通り、数コールののち切り替わった留守電案内に、内心深く息を吐き出しながら、菓子パンの最後の一口を、飲み込んだ。
「彼氏と連絡でもつかないのか?」
不意に背中から声をかけられ、肩が少し跳ねたのは、幸運にも菓子パンがきちんと全て胃に収まった時だった。まだ喉を通過中であれば、もしかすると咽せていたかもしれない。完全に気をすべて香子への心配へ向けていて、背後が疎かだった。
恨めしい気持ちのまま振り向くと、同僚の高橋が白い歯を見せて、そこに立っていた。
「そんなところ」
説明が面倒で、適当に返す。
高橋とは同僚以上の付き合いをしておらず、故にプライベートな事柄として、香子という友人の存在を話したことはない。その上で一から説明するのは手間だった。それに、適当に返してもこの男なら気にしないだろう。このツーブロックが無駄に似合う大柄な同僚は、見た目に違わず、そういう大雑把な人間だった。
「連絡のし過ぎで鬱陶しがられてるんじゃないか? 俺、それでこの前彼女から怒られたんだよね」
「あんたと一緒にすんな。それに、連絡したのは久しぶりだし」
「じゃあ逆に、連絡しなさ過ぎて拗ねられたとか?」
「馬鹿言わないでよ。子供じゃあるまいし」
頭の中で、香子の顔を思い浮かべる。年下とはいえ、いい歳をした、自分よりうんと背の高い成人女性の姿を、だ。なんなら大学時代、死体発見事件以降なにかと付き纏ってしまった私に対して「ちょっと放っておいてくれないかな」と突き放してきたことすらある、あの恩知らずが、拗ねている様など想像できず、自嘲が漏れる。
香子は基本、一人を好んでいて、そんな奴だから、私が暫く連絡を取っていなかったとはいえ、それで拗ねるとは考えにくかった。
しかし、そうなるとやはり部屋でまた死んでいるのではないだろうか。昔、何かのドラマで見たことがあるのだが、人間、自らの脂肪によって一週間は生き延びることができるらしい。果たして香子は今、部屋の中で倒れて何日目だろうか。いや、倒れていると決まったわけではないのだが。
頭が痛かった。不安に思いつつふと視線を下げると、高橋の手に、何やら雑誌が握られているのを見つけて、目についたその文字を、思わず口ずさむ。
「モロッコ?」
「ん? ああ。モロッコ。彼女と旅行に行こうかとって思ってさ」
高橋の手に握られていたのは、モロッコの旅行雑誌だった。
「どうして、モロッコ」
あまり聞き慣れない国名に、香子のことはいったん忘れて、思わず訊ねてしまう。ユーは何しにモロッコへ。
「最近、動画サイトでトロッコ問題を久々に見かけてさ!」
高橋は、輝かしいばかりの笑顔でそう言った。
「
……
響きが似てるからとか、そんなこと言わないよね?」
思いついた理由を、しかし半信半疑で訊き返す。トロッコ問題と、モロッコ。まさかな、と思いつつ視線を向ける。
高橋は、その大きな体躯に似合わず、かわいらしい様で小首を傾げていた。
「ん? そうだけど?」
「そんな理由で海外旅行の行き先を決めて良いわけ
……
?」
高橋は大雑把な男ではあるが、その実、同僚の中でもずば抜けて学のある男でもある。しかし、こうした面で、やはりどこか抜けている。そのギャップが良いのだと複数の女性社員が黄色い声を上げているのを見たことがあるが、しかしそんな理由で旅行先を決められる彼女はどんな気持ちなのだろう。
高橋の彼女を思い、思わず額を押さえると、高橋は「ああ、そうだ」と私にスマホの画面を見せてきた。
「本田はさ、トロッコ問題って知ってるか?」
「興味ない。あと、いま忙しい」
「問題です」
「聞けよ」
しかし、高橋は聞かない。
「線路を走っていたトロッコが暴走してしまいました。このままでは前方で作業中だった五人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまいます。この時、たまたまあなたは線路の分岐器のすぐ側にいました。あなたがトロッコの進路を切り替えれば、五人は確実に助かります。しかし、切り替えた先の別路線でも一人が作業をしており、五人の代わりにその一人がトロッコに轢かれて確実に死んでしまいます。あなたなら分岐器を操作しますか?」
「そんな問題、正解なんてないじゃん」
トロッコ問題自体は知っている。しかし、その問題を真面目に考えたことはない。正解がないのだから、考えるつもりもない。
「そう、これは倫理学上の正解がない問題だ。でも、実際その場面に立ち会ったら、どちらか確実に選ばなくてはいけない問題でもある」
高橋は、少し真面目くさった口調でそう言った。
「そんなもん、その時にならないと、どっちを選ぶかなんて分からないでしょ」
私は、選ぶべき回答なんて浮かばず、適当に躱す。実際、考えてみても自分が納得する答えなんて出てくるとは思えなかったし、考えたくもない場面だった。
「そうか? 俺は全員が赤の他人なら、一人の方へ進路を変えるぞ。五人全員の家族が泣くのと、一人の家族が泣くのでは、涙の量が違うからな」
高橋は、さも当然のようにそう言い放つ。
私は、自らの眉間に皺が寄るのを、感じる。
「それは、当事者でないからこそできる合理的思考でしょ。それこそ、当事者になってみたら、どうしたら良いかなんて、きっと判断がつかないんだから」
「それはそうなんだけどなぁ。お前、やっぱり面白味が薄いよなぁ」
「すみませんね、つまらない人間で」
「でもほら、これは何も他人同士で起こる問題でもないんだぞ。自分自身でも起こるかもしれない問題だ」
高橋はそう言って、得意気に続ける。
「例えば、お前が仕事に参って今にも精神的にダメになりそうな時、お前は翌日、会社を休みたいと考える。でも、翌日は会社にとってすごく大事な会議がある。お前は精神的に自分を殺すか、社会的な自分を殺すか、どちらかを選ばなければいけないわけだ」
「嫌な例えをするな」
「他を生かすために他を殺しても良いのか、ていうのがトロッコ問題の本質ではあるが、しかしそうやって考えるのも一興だよな」
自身の暇つぶし欲求を満たすことができたのか、そう言って、高橋は給湯室を後にしていった。
私は、空になった菓子パンの包装と、元は水の入っていたカップを片手に、一人で、給湯室の椅子に座る。トロッコ問題と、香子と連絡が取れない現状。頭の中で混ざり合って、目をつぶる。嫌な妄想が、頭の中に蔓延る。
香子が、線路の上に座っている。そこへ、トロッコが猛スピードへやってくる。私は、急いで分岐器を切り替えようとする。すると、もう一方の線路には、生き生きとした目をした子供たちが数人、線路の上で遊んでいる。
私は、迷う。どちらに分岐器を切り替えるのが正解か、悩み、そして、香子と目が合う。香子は言う。分岐器を切り替えるな、自分の方へトロッコを寄越せと、虚ろな目でそう言われる。自分の命に、子どもたちの命と比較するほどの価値もないのだと。
私は、どうしたらよいか分からなくなる。そして、トロッコが止まってくれる少ない望みにかけて、自らの身を線路に、投げてみる。しかし、私の身を派手に轢こうとも、トロッコの勢いは止まらない。私も、轢かれて今にも死にそうだというのに、なぜだか意識ははっきりしていて、倒れたまま、行く先の香子が轢かれる様を、何もできないまま、目にする。
カップが床へ落ち、肩が跳ねる。座ったまま、半分夢の世界に囚われていたことに気づき、頭を振る。ウォーターサーバーから新たに出した冷たい水は、私の内臓を一気に冷やし、背筋をひどく震えさせた。
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