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松藤エヌ
35266文字
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文学フリマ東京42 サンプル『見捨てないでね、ハニー』
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香子が帰ってくることを期待し、一晩勝手に香子の部屋で過ごしたものの、結局、朝まで部屋の主が家に帰ってくることはなかった。予想はしていたが、しかし期待外れの結末に、落胆は隠せない。勝手にベッドを借りて仮眠をしたものの、朝、目が覚めたら見知った姿が「不法侵入」と笑いかけてくれる様を僅かに期待していたために、無人の慣れない部屋での目覚めは、決して良いものとは言い難かった。
布団を畳み、床の上に散らばっていた衣類も粗方片付ける。生憎ゴミ出し日ではなかったため廊下のゴミを出すことはできなかったが、幸いにして生ゴミは無いので良しとした。
また今晩も来るからと、部屋のカーテンを開けた状態で、香子の部屋を去る。電車の始発で自宅方面へ戻りつつ、移動中、スマホの連絡帳を、久方ぶりに開く。香子の後輩に連絡を取ってみようと、そう考えたからだ。
香子の後輩の名前は相川莉菜という。香子の学部の後輩だ。私個人としてはあまり親交のない後輩ではあるのだが、しかし、長谷川含めて四人で集まることもたまにあったから、使う機会は今までなかったものの、連絡先だけは手に入れていた。
相川は、香子が珍しく、唯一自ら気にかけていた後輩だった。香子は自ら進んで人付き合いを好む性質では無かったから、香子の方から関心を持った後輩は、相川の他にいなかった。それ故に、香子から相川の紹介を受けたときは、私もわずかばかり驚いたものだ。
何故、相川のことは気にかけるのか。大学時代に訊ねた時、香子は珍しく考え込んだことを覚えている。
「どうしてだろうね」と首を捻って、わからない、と言うように口角を上げていた。
「似てるからとか?」訊ねておきながら、私には見当がついていた。「相川もあんたも大概変わり者じゃん」
「やだなぁ。私、莉菜ちゃんほど変わっているつもりはないよ」
そう言って悪戯っぽく舌を出す様は、歳不相応に子供じみて見えて、なんだ、そんな表情もできるんだな、と思った記憶が、頭の片隅に残っている。
『香子のことで聞きたいことがある。起きたら連絡ください』と、相川にメッセージを送信する。返信は正直あまり期待していなかった。相川は香子以上に人付き合いが悪かったため、私のメッセージにわざわざ返信をよこすとは思えなかった。ただ、香子を捜索するにあたって、一つでも可能性は潰して置きたかった。
すると、まだ朝の五時だというのに、すぐに手の中でスマホが鳴る。相川からすぐに、着信が入ったのだ。とはいえ、今は電車の座席に座っており、マナー的に電話をとるべきか迷い、周囲を見渡す。幸い、まだ早朝だったため私が乗る車両には私しかおらず、結局、誰に気を使ってか声を小さくしながらも、私は電話をとった。
「聞きたいこととは」変わり者の後輩らしく、第一声、淡白な声で、訊ねられた。
「香子が少なくとも三日間は行方不明っぽいんだよね」
相川に合わせ、余計な挨拶など挟まず、端的に事情を説明する。
電車が自宅の最寄り駅についたので、電車から降りる。誰もいないホームを、改札に向かって歩いていく。まだ朝日が上り切る前のホームに、電灯に照らされた私の影が薄く伸びて、歩くたび、ともにゆらゆらと揺れる。
「そうですか」相川はやはり抑揚のない声で、続けた。「今のところそれらしいニュースはまだ見てないですね」
「冗談でもきついって」
笑い飛ばそうとしながらも、私は思わず、少しだけ大きな声を出してしまう。改札をくぐりながら、自分の声が静寂に包まれていた駅に反響するのを感じ、恥ずかしくなって、誰にも見られていないというのに、僅かに肩を縮こませる。「ただ気晴らしに蒸発してるだけでしょ」
思い当たる一番軽い理由を、自らに言い聞かせる意味も兼ねて、口に出す。
「気晴らしに蒸発、ですか」相川は何か言いたげに、言葉を区切る。
私はそれに、突っ込む。「なんか気になることでもあるの?」
「いえ、貴方はいつでも楽観的すぎると思いまして」
「こういう気持ちが暗くなってしまいそうなときはね、嘘でも自分を騙してでも楽観的に考えていた方が、現実も案外うまくいくものなんだよ」
「つまり、貴方も本心では最悪の想定もしていると」
「あんたにしては珍しくいやに突っかかってくるじゃん」
「すみません。でも、その思考、私には無理です。特に、香子さんは良く笑う方でしたから」
「は?」
思わず、間抜けな声が漏れる。要領を得ないその内容に、自宅方面へ歩いていきながら、電話口からの言葉を、ただ静かに待つ。
アスファルトの上に散らばる細かい砂が、私が足を踏み出すたびにじゃりじゃりと音を立てる。朝日に照らされた薄い影が私を追って、同じ速さでついてくる。
相川が静かに続ける。
「良く笑う人間には二種類が存在します。一つは心根が元々明るい人間。もう一つは、笑わなければ生きていくことができない人間です」
「
……
で、あんたは香子のことどっちだと思ってるわけ?」
「孤独な人はあまりに深く苦しんだために、笑いを発明しなければならなかったのだ、という言葉があります。私は香子さんを見て、その言葉は真実であると感じました。あれほど憂いを抱えておきながら、それでもよく笑う人を、私は香子さん以外知りません」
そう言って、相川は「だから、つい」と口籠った。
だから、つい。
だから、つい、自殺の可能性を考えた。そういうことだろう。相川の言いたいことを憶測して、口を噤む。そう言われてしまうと、私も何も言えなくなる。
香子と、連絡がつかない。家にも帰ってこない。どこかで倒れているかもしれない。
死んでいるかもしれない。
香子の顔を思い浮かべる。香子が大好きな自然に囲まれた、どこかの山の中、大木に首を括っている背中を想像する。身が震える。
「本田さん、人は意外と簡単に死にます」
相川は、やはり静かな声で、そう言った。「しかしだからと言って、それで貴方が責任を感じる必要はありません。死が救済となる場合も時にはあります。香子さんの場合は、特に」
「どうして、香子は死ぬことが救済になるわけ?」
「生きにくそうだったでしょう? あの人。いつだって、どんな時だって」
また何かわかったら連絡すると、そう言って相川は私との通話を終えた。
気づけば私は、自宅のマンション前にたどり着いていた。
ぼうっとした心地のまま、ひとまずシャワーを浴びる。髪を乾かし、朝食を摂る。朝のニュースをテレビで確認して、身元不明の遺体発見、なんて文字がないか、確認する。見た限り平和そうなニュースばかりであることを確認して、テレビを消す。
「生きづらい、人が苦手だ」と、そう言っていた香子の姿を思い浮かべる。もしあの時、勇気を出して声をかけていたら、現状は何か変わっていただろうか。しかし、想像上の香子であっても、相変わらず窓の外へ向けているその香子の表情が読めず、香子が何を考えているのか分からず、私は、困り果てる。困り果てて、やはり何も言えなくなる。口を噤み、自己嫌悪の波に、溺れる。
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