riririnf
2025-08-30 10:14:17
58884文字
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世界から花が消えたなら

ヌヴィフリ花吐き病書いてみた・後編
【四章】君は向日葵 P1~【五章】世界から花が消えたなら P4~【六章】この恋は花にのせて P6~
※捏造・ネタバレ過多。



 目を開けると、そこは真っ暗闇の中だった。
 言うまでもなく、なにも見えない。
 ……僕、なにをしてたんだっけ?
 情報がなにもない。ここはどこなんだろう。どうしてここにいるんだろう。なにもかもが不確かだ。
 ただ微かに……なにかを叩くような音だけが、耳に届いた。
 よく知っている──これは、雨音だ。雨が大地に落ちる音。
 意識すると同時、しっとりとした空気に包まれた。冷たい雫が肌を撫で、胸の奥へと沁みていく。
 強く、激しく、途切れなく降る涙雨。
 ……ああ、どうして……
 ──水龍──水龍──

「泣かないで……

 声を発した瞬間、絶え間ない雨音は掻き消えた。
 暗闇が薄れ、柔らかな光が視界を満たしていく。
 天井にまで行き届いた芸術性。吊るされたシャンデリアや、華やかな装飾を施された家具の数々。
 ここはフリーナが五百年の時を過ごした場所。終わりなき歌劇のなか、唯一ただのフリーナに戻れた空間。
 この部屋には心に迫った思い出が詰まりすぎている。だからフリーナは、全てが終わるなり逃げたのだ。
 けれど今、フリーナは戻ってきてしまった。半年前とまるで変わらぬ、このスイートルームに。──そして。
「おはよう……気分はどうだろうか」
 目の前には、フリーナをこの豪奢な牢獄に連れ戻したであろう張本人が座っていた。
…………どうだろうね」
 責めるつもりはないけれど、愛想よくする気も起きなかった。そもそも寝起きにベッドに横たわる身で、そんな元気もない。
 フリーナは曖昧に口の端を上げながら、直前まで見ていた〝なにか〟を追いかけようとした。けれど泡のように儚く弾けて消えていき、結局何も思い出せない。きっと何かしらの夢を見ていたんだろう、ということくらいしか。
「君は激しく花を吐き、意識を失ったのだ。……覚えているだろうか」
 ヌヴィレットは、フリーナの不遜な態度を咎めなかった。その代わり、こちらの一挙一動、呼吸の僅かな乱れでさえも見逃すまいと、その薄い紫色の瞳に鋭い光を宿しているのが見て取れて、フリーナは早々に意地を張るのを諦めた。
……ああ、そうだったね。覚えているよ」
 口に出せば、花の香りに肺を侵される恐怖や苦しみが呼び起こされる。あの瞬間、フリーナは永遠の終わりを覚悟した。おそらくヌヴィレットにも、同様の未来が過ぎったに違いない。
 病状がそこまで進んでいるのなら、彼の手が存分に届くこの部屋に、自分が連れてこられた理由も察しがつく。
 フリーナはもう、隔離されても何も文句の言えない立場になっている。寧ろ、ここまでよく待ってくれたなぁ、とどこか冷静に受けとめてすらいる。
「では、私が君を好きだと伝えたことは?」
……ッ」
 恐ろしい言葉に、びくりと身体が強ばる。今度は受けとめられなかった。喉奥から花香が迫り上がってくる気配がして、息を殺して必死に耐える。
 そんな惨めな奮闘を、フリーナの容態に目を光らせるヌヴィレットが見逃す筈もない。沈黙を肯定と取り、更に畳みかけてくる。
「あの時、君は嘘だと断言したな。だがそれは違う。この気持ちは偽りなどではない。私は本気で君のことを想っている」
 ──やめてくれ。
 その訴えが真摯であるほど、その薄い紫色の瞳が真っ直ぐであるほど、フリーナは己の罪を突きつけられる。胸のつかえが花の輪郭を伴って、どんどん重くなっていく。
 指先が白くなるほどにシーツを掴み、唇を強く引き結ぶ。かたかたと小刻みに身体を震わせるフリーナに、ヌヴィレットは深い溜息をついた。
……すまなかった。目覚めたばかりの君にする話ではなかったな」
 ヌヴィレットが目を伏せる。長い睫毛に鋭い瞳が隠されたことで、ほんの少しだけ呼吸が落ち着いた。
「まずは水を飲むといい。君は丸一日眠っていたのだ」
 そっと背中に手を添えられ、ゆっくりと抱き起こされた。意識を失う前にも感じた温もり。じわりと沁み込むそれに、泣きたくなった。
 差し出されるグラスを漫然と受け取る。掌に伝わる水の冷たさが、やけに浮いて感じられる。
 一日中眠っていたのなら、今は何時なのだろう。カーテンは閉められているし、この位置では時計も見えないから、判断がつかない。ヌヴィレットはおはようと言ったけれど、それも目覚めの定型文をなぞっただけかもしれない。
 そこまで考え、ふと自嘲する。
 たった一言、今は何時か聞けばいいだけではないか。ヌヴィレットだってそれくらい答えてくれる。分かっているのに、その一言すら口に出せない。
 それくらい、二人はすっかり歪に捻くれて、縺れた関係性になってしまった。
…………
 ふぅ……と息を吐き出す。身体が重い。けれど、思考は妙に冴えている。久し振りに長い眠りを得たからか。おかげで余計なことばかりを考える。
 とりあえず、勧められた通りに水を飲もう。喉に微かな乾きを感じる。丸一日眠っていた割に軽い症状なのは、きっと目覚める前に点滴を打たれていたのだろう。……ああもう、本当にどうでもいいことばかり。
 いい加減嫌気が差して、ぐっと水を煽ろうとして。
 フリーナはするりとグラスを落とした。
 重力に従い落下するそれが無惨にベッドを濡らす前に、ヌヴィレットが水を操りグラスを受け止めた。
 水元素で作られた泡の中、グラスが自立する。中身の水も勿論無事だ。
 その光景が薄ら寒くて、かっと頭に血が上る。
「焦らずともいい。ゆっくり……
「ヌヴィレット」
 再び水を差し出そうとするヌヴィレットを鋭く遮る。彼はぴたりと動きを止めた。
「これは、なんだい? 僕に〝なに〟を飲ませようとしたの?」
……どういう意味だろうか」
「誤魔化すなよ。水元素で生成された水を渡してくるなんて、何を企んでいるんだい?」
 フリーナは剣呑にヌヴィレットを睨みつけた。
 別に毒を盛られたのではない。水元素の水が飲めないわけでもないことは、フリーナも過去実証済みだ。なんならお手軽な手段ですらある。生粋の水好きであるヌヴィレットだって、外出時にどうしても水が飲みたい時はそうしている。
 けれど。水に拘るヌヴィレットだからこそ、他者に振る舞う水に対して、そんな横着をするわけがない。逆に一日振りにフリーナが味わう水を、時間をかけて吟味しそうなものなのに。
 微かな違和。けれど無視できない不協和だ。
……少々驚いた。分かってしまうのだな」
 果たしてヌヴィレットは、あっさりと罪を認めた。フリーナは語勢を強めて問い詰める。
「じゃあ、認めるんだね。僕に〝なにか〟しようとしたと」
「ああ。余程水元素への感知能力が高くなければ、感じ取れない筈なのだが……
 ヌヴィレットは観察者の眼差しで、フリーナをじっと見つめた。ややあって、ぽつりと呟く。
……生物は死を目前に生存本能が高まり、あらゆる感覚や能力の増幅を得るという。もしかすると、君も……
 ヌヴィレットは眉を寄せ、続く言葉を打ち切った。視線が落ち、長い睫毛が影を作る。
……もう、本当に時間がないのだな」
 その声音は酷く静かで、平坦で。ぞっと背筋が震えた。
 駄目だ。ここで気圧されてしまっては、取り返しがつかなくなる。直感的にそう思って、フリーナは縺れそうな口を動かす。
「ちょっと、一人で納得しないでよ。説明してくれ」
 ヌヴィレットに反比例するように、問いかける声は情けなく上擦っていた。
 けれど幸か不幸か、ヌヴィレットはそれを指摘してはこなかった。
 ただゆるりと、視線を上げる。
「手短に言おう。私は君の記憶と感情の全てを奪おうとした。恋情を失うことで、花吐き病は鎮静化するからだ」
「は……?」
 何を言っているのか。突飛過ぎて理解がついてこない。
 けれど薄い紫色の瞳に宿る昏い覚悟が、フリーナを絡め取った。本能的に身が竦む。
 なにか、なにか言わなきゃ。はく、と口を動かすも、なにも音が出てこない。
 ゆるりと、しかし躊躇いなく、ヌヴィレットの手がフリーナに伸ばされる。
「ぁ……
 掠れた声が喉から零れた瞬間、視界が揺れた。柔らかな感触が背に触れて、身体がベッドに沈み込む。──気付けばフリーナは、ヌヴィレットに押し倒されていた。
 ギシリと軋むスプリングの音が、やけに大きく聞こえる。重みは殆どなかった。こんな状況においても配慮してくれているらしい。掴まれた手首が異常に熱い。
 緩やかな、けれども有無を言わせぬ拘束。反射的にかいた脚がデュベを払いはしたけれど、それだけだ。身体が、動かない。
「私の権能により造られた水を摂取させようとしたのは、単に効率の問題だ。体外から力を注ぐよりも、体内から沁み渡らせる方が早く、苦痛も少ない。だから君が目を覚ますのを待った。飲むと同時に君は意識を失い、次に目覚めた時には恋情を失っている予定だった」
 一息に語られた謀は、今まさにフリーナにのしかかっている男の態度とは思えないほど、なんの高揚もなかった。それが逆に恐ろしい。
 ただ、一切のノイズを挟まない説明は、フリーナに多少なり内容を咀嚼する隙間を与えた。
「記憶と、感情……ぜんぶを奪うって、言った?」
「そうだ」
 声が震える。対する応えは憎らしいほど簡潔で平坦だった。更に問う。
「でも……そんなこと、されたら……僕は、僕でなくなっちゃうんじゃないの……?」
 人を形づくるのは経験──記憶と感情だ。それら全てが失われてしまったら。
 演技指導を受けて羽ばたいた者たちが放つ眩い光も、クロリンデやナヴィアと会話を弾ませたお茶会も、このスイートルームで泣き濡れた日々でさえ。
 その全てが、フリーナ・ドゥ・フォンテーヌの礎だ。奪われた先に残るのは、ただの抜け殻に過ぎないのではないか?
……そうだ」
 ヌヴィレットの表情が、初めて歪んだ。
 彼も分かっているのだ。この企みの罪深さを。本当は、こんなことをしたくなどないのだ。
 彼はフリーナの命を繋ぐために、どんどん自分を蔑ろにしている。無理に恋人関係となり、フリーナを好きだと嘘を吐き、騙し討ちを企て、今こうして力ずくで事に及ぼうとしている。
 もうこれ以上、彼に罪を背負わせてはならない。
「ねえ……こんなこと、やめよう。キミが手を汚す必要なんてない。こんなの、なんの意味もないよ」
「意味ならある。今この瞬間、君は生き延びる。存続さえすれば、また記憶も感情も積み重ねられる」
 迷いなく、ヌヴィレットは言い切る。それが酷く悲しかった。身体さえ生きていれば、心は死んでしまってもいいのだと言われたようで。
「そんなの、暴論だ……!」
 ついにヌヴィレットの腕の下、フリーナは喚いた。
「横暴だ! 卑怯だ! そもそも、こんな強引なやり方、キミらしくない! キミは……っ」
「では聞くが、私らしいとはなんだ?」
 フリーナを遮る声と眼差しは、酷く冷えていた。
「言葉を尽くして恋情を説けば、君は受け入れてくれるのか?」
 ぐっと言葉に詰まる。その場面を思い浮かべるだけで、花弁が喉奥を押し上げる気配がする。
 フリーナの心情を読んだかのように、ヌヴィレットが目を細めた。
……だから、こうするしかないのだ」
 ヌヴィレットの手がするりと頬を撫でた。手袋越しに伝わってくる奔流に、ぞくりと肌が粟立つ。
「君自身はもう、この先の運命を受け入れているのだろう。だが、私は違う。誰にどのような誹りを受けたとしても構わない。全てを呑んだうえで、私は君の運命を捻じ曲げる」
 形のよい唇が歪に持ち上がる。見たことのない偽悪的な笑みを浮かべて、ヌヴィレットは言い捨てた。
「何を怯えることがある? 私が手を下さずとも、君は死ぬのだ。ならば私に殺され、新たに生まれ変わるも同じことではないか」
 それはまるで、自分自身に言い聞かせているようだった。あまりに痛々しくて、胸が締めつけられる。そんな真似をさせては駄目だと、心が叫ぶ。
 でも、同時に思う。ヌヴィレットの言う通りだと。
 フリーナはとっくに己自身を諦めていた。神の座を降り、不死の呪いによる病の防波堤が失われてからは尚更、余生をどう過ごすかという段階に入っていた。
 ヌヴィレットに病を暴かれ、あまつさえ恋人関係になってからの数週間は、思いがけないボーナストラックのようなものだ。
 そもそもフリーナは自分のことが好きではない。というより、嫌いだ。
 なのにどうして嫌いな自分を残したいだなんて、こんなに必死になっているのだろうか?
「僕、は……
 ヌヴィレットに罪を背負わせたくないから? 
 でもここで彼を止めても、代わりに彼は延命する術を持っていながら、力及ばずフリーナを見殺しにした罪を負う。背負ってしまう。誰が責めなくとも、彼自身が自分を赦さない。どちらの道を選んでも、ヌヴィレットは罪人となる。
 ならばせめて、ヌヴィレットの意思を尊重してやるべきではないか?
 フリーナ自身、ずっと懺悔していたではないか。この広すぎるスイートルームで、何度身の程知らずで厚かましい己を恥じただろう。ヴァザーリ廻廊の小さな自宅で、花が枯れるを望んだだろう。
 早く楽になりたいとすら願っていたではないか。
……全ては私の傲慢だ。恨んでくれて構わない」
 黙り込むフリーナに問答の終了を見て取ったヌヴィレットが、目の前に手を翳した。
 視界を覆い尽くす大きな掌に、水元素の高まりを感じる。
 ついに、終わるのだ。
 フリーナはそっと瞼を下ろし、暗闇に意識を委ねた。その時だった。
 遠くに、微かな雨音が聞こえた。
 フォンテーヌの街に降り注ぐ、強く、激しく、絶え間ない涙雨。
 優しい彼は、すぐに悲しむ。最高審判官に任される事件は複雑で悲惨なものばかりだから、審判のたびに心を痛めて雨を降らせる。
 それこそ水龍でもなければ身がもたないくらい、毎度真摯に、丁寧に向き合っている。
 ──そういうところが、好きだ。
 それだけじゃない。水龍だから当たり前なんだけれど、どこか浮世離れしていて、無類の水好きで、飲料水飲み比べサロンまでも開いてしまう面白いところが好きだ。
 メリュジーヌに対してもそう。好きなものを好きと言って憚らない、直截なところが好きだ。
 でも、よく言えば天然で、わけの分からない言動をたびたび取るところは嫌いだ。フリーナは時にフォローをしたり振り回されたり、とにかく大変だった。本人にはまるで悪気がないから、余計にたちが悪い。
 それでも秘密を抱えていたフリーナの、本当に触れられたくない部分は不思議と察してくれていたところは、悪くなかった。何だかんだで彼は真面目だから、天敵である筈の水神フリーナの教えをよく聞いて、立派なフォンテーヌ紳士になってくれた。
 そんな彼の、揺らがぬ正義が好きだ。
 自身の気持ちと為すべきことを完全に分けて、被告人の心情すら慮りながらも、決して私情に負けることはない。フリーナはその高潔さに尊敬の念を抱いていて、自らも使命に殉じる勇気をもらっていた。
 ああ、もう、好きだ。大好き。そんな想いが溢れ出るとき、フリーナの胸にはほのかな熱が灯る。
 勿論、苦しいときも沢山ある。むしろ、その方が多かった。花を吐くのも相まって、心も身体もつらかった。
 でも、でも。
……やっぱり、好きだ」
 ほろりと心が零れた。
 瞼の向こう、水元素の奔流が大きく乱れる。やはりヌヴィレットは優しくて、どこか甘い。
 当てずっぽうに手を持ち上げると、ちゃんと彼の腕に指先が当たってくれた。
 そっと押してみると、簡単に横に動いてくれる。
 眼前から水元素が遠ざかる気配を確認し、フリーナはゆるりと瞼を上げる。
 そこには、痛みに耐えるように眉を寄せるヌヴィレットの姿があった。
 フリーナは腕を押した手を更に高く持ち上げ、唇を緩ませる。
「水龍──水龍──泣かないで──」
 薄い紫色の瞳が大きく見開かれ、ゆらりと揺れた。今度こそ、水元素は完全に消え去った。
 このまま彼の頬に触れることも出来たけれど、それはなんだかフェアじゃない気がして、やめた。
 ぱたりとシーツに手を落とし、問いかける。
「ねえ、キミの口振りから察するに、僕の記憶と感情を消しても、花吐き病が完治するわけではないんだろう?」
……ああ」 
 苦々しげなヌヴィレットの返答を聞き届け、フリーナは今度こそ、はっきりと微笑んだ。
「なら、いいよ。僕はキミの処置を受け入れよう」
……なに?」
「だって全てを失っても、僕には「花」が残る。奥深くに根を張る花が、また僕の想いを教えてくれる」
「なにを、言って……
 戸惑うヌヴィレットを見つめながら、フリーナは自らの胸にそっと手を添えた。心とはここにあるのだと、フリーナはなんの根拠もなく信じている。
「僕はキミが好きだよ、ヌヴィレット」
 飾り気のないシンプルな告白に、それでもヌヴィレットは初めて知ったかのように驚いた顔をした。
 告白をやり直した甲斐があるというものだ。直前までのやり取りで気が立っていたとはいえ、当時の勢い任せで可愛げもない、嫌味ったらしい想いの暴露を、フリーナは結構引きずっていた。
「違う──その気持ちごと、私が奪うのだ。仮に君がまた花を吐いたとしても、それはもう、私に向けたものではない」
 ヌヴィレットは小さく被りを振って、苦しそうに言葉を紡ぐ。
「だが……私以外の相手とならば、完治の可能性もあるだろう。……その者と、添い遂げられれば」
 なるほど、そういう道もあるのか。思わず感心してしまう。完治のためのお相手は、別にヌヴィレットに限定されない。「好きな人」であればいい。
 乱暴に思えた解決策は、その実、意外によく出来ている。フリーナの気持ちを無視すれば、の話だけれど。
「心外だな。僕のことを、そんな浮気者だと思っているの?」
 微笑みと共に苦情を投げる。瞬間、掴まれたままだった手首にかかる圧が強まったが、それはすぐに和らいだ。
 龍である彼の力は凄まじいから、少しでもうっかりをされれば、人の腕など簡単に粉々になる。今なおフリーナを傷つけないよう、細心の注意を払ってくれているのだろう。その心配りは動揺の中にあっても失われない。
 優しくて、真っ直ぐで、どうしようもなく不器用な彼。フリーナはきっと何度だって彼に惹かれて、何度だって彼に恋をする。
「だから、殺されるっていうのは、違うかな。ただ少し……休むだけさ。また、花が咲くまで」
 だからヌヴィレットの行いは罪にはならない。正当な医療行為だ。
……なら私は、その都度花を摘み取ろう」
 そう返す声は掠れていた。弱々しい抵抗にフリーナは笑う。
「ふふ、根比べだね」
 不思議だ。百年間ずっと染みついていた花の香りがしない。今この瞬間だけは〝拗らせて〟いないからかもしれない。
 ……僕、こんな想い方ができたんだ。
 純粋に、なんの憂いもなく、ただ好きな人を想える。
 それだけで、こんなにも満ち足りた気持ちになれる。
「キミを好きになれてよかった」
 長い長い命題に、今やっと答えを出せた気がした。
「君は……
 ヌヴィレットの縦長の瞳孔が、きゅうっと細まった。唇を噛んで、ゆっくりと瞬きをする。そうして、絞り出すように言った。
……極力手短に済ませる。フォカロルスの半身である君ならば、体質上反発は少ない筈だが、それでも痛み……というよりは、身体を元素力に侵食される不快感が、多少なりあると思う」
 気遣いなのだろうけれど、それにしたって、なんて情緒のない龍なのだ。まあでも、朴念仁な水龍に色気を求めても無駄だよね、といい加減諦めもつき始めている。
「──なら、そのあいだ気を紛らわせてよ」
 よって、フリーナから提案する。
「恋人にしか出来ない、とびきり素敵なやり方があるだろう?」
 人差し指の腹を自身の唇にとん、と宛てがう。そのままヌヴィレットの反応を確かめることなく、早々と目を閉じた。
 一週間前には叶わなかった演出。一度失敗して痛い目を見た提案を繰り返すだなんて、命知らずにも程がある。
 でも、不思議と怖くない。心は穏やかに凪いでいて、今なら大丈夫だとの確信がある。ヌヴィレットの恋心は信じられないくせに、これまた不思議だけれど、今だけは間違いがないと、そう思える。
 きし、とベッドが軋む音がする。そうして吐息が近づいて。
 唇に柔らかな感触が触れた。
 瞬間、すべての音が消えた。互いの呼吸だけが耳に響き、まるでこの世界に二人だけであるかのような錯覚に陥る。
……ん、……っ」
 水元素力が全身に沁み渡っていく。自身の輪郭そのものをなぞられ、絡め取られていくような感覚。ぞくぞくと背筋が震え、びくりと身体が勝手に跳ねた。
 手首を押さえていたヌヴィレットの手が宥めるように上に滑り、指の間に彼の指が入り込む。掌同士が合わさると彼の存在が一層近くに感じられ、ぽろりと目尻から雫が伝った。
「ふ……、ぅ……
 徐々に意識が遠のいていく。いわば死の疑似体験。
 嘘をついたわけではないけれど、今だって再びの花の芽生えを少しも疑ってなどいないけれど、それでもやっぱり、ほんの少しだけ怖くもあって。
 ……さみしいよ……ヌヴィレット……
 ぴく、と重なる彼の指が微かに動いた。フリーナの感情が伝わってしまったのだろう。
 ……苦しませて、ごめんね……

 ──君はこんな時まで、他人の心配をするのだな。

 …………
 それは音ではなかった。空気振動を挟まぬその声は、一切遮るものなく、フリーナの脳内に直接響いた。

 ──いつもそうだ……。五百年もの間、人の身には耐え難い苦痛に晒されながら、フォンテーヌのことだけを考えていた……
 ──病について語る時すら淡々と……。その苦悩を隠してしまう……。私には明かしてくれない……
 ──こんなにも細く華奢な身体で、よくも……。君はこんなにもか弱いのに、何故こうも強くあれる……
 ──腹立たしい……だが、その姿こそが……

 これは、まさか……ヌヴィレットの感情……
 絶え間なくヌヴィレットの声が聴こえる。激しい大波に呑まれたみたいに、情報の処理が追いつかない。

 ──フリーナ、フリーナ、フリーナ……
 え、え? まって、なんだいこれ……!?
 ────────……───────
 …………ッ!!

 その「声」が聴こえた瞬間、ついにフリーナは力の限りにヌヴィレットの胸を叩いた。
……フリーナ殿?」
 当然フリーナの全力程度では、ヌヴィレットはびくともしなかったが、それでも唇を離してくれた。心配そうな目を向けられているけれど、もうそれどころではない。
 頬に熱が集中し、真っ赤に茹で上がっているのが分かる。たぶん、このまま放置していたら内側から破裂する。狂涛の如き熱量に耐えきれず、フリーナは上擦った声を上げた。
「キミっ、僕のことが、好きなのか……っ?」
「──今更なにを?」
 対するヌヴィレットの反応はあまりに冷静だった。気遣わしげな表情が一転、すんっと真顔になる。
 けれどふと、戸惑いと不安、それから僅かな期待を双眸に滲ませた。
「私の気持ちは信じられないのではなかったか? 何故いま、そのようなことを……?」
 もっともな疑問だろう。本当に今更だ。申し訳ない。けれど、こう答えるより他にない。
「聴こえてしまったから……
「聴こえた?」
「なんというか、キミの声が……頭に、直接……
 言いながら、だんだんと盗み聞きをしてしまった時のような罪悪感が湧いてきて、もにょもにょと声が萎んでいく。
 幸いヌヴィレットは不快には思わなかったようで、ただ起こった現象の把握に努める、冷静沈着な眼差しを向けてきた。
 しばし思考してから、推論を口にする。
「君が目覚めの際に見せた感知能力の高さからすると……口づけによる接触を受けた状態で私の権能を注ぎ込まれたことにより、感情の共鳴を得たのかもしれない」
 ヌヴィレットは水から感情を読み取ることが出来る。それと同じ現象がフリーナにも起きたのだという。口づけとはまさに、相手の「水」に触れる行為だ。
「これは想定外の出来事だが、好都合だとも言えるだろう。今度こそ、私の気持ちが正しく伝わったのではないだろうか」
「う……
 先よりも期待の色合いを濃くするヌヴィレットの指摘に、フリーナは呻いた。
 聴いてしまった声は鮮烈で、疑う余地などない。つまりは全て、嘘偽りないヌヴィレットの想いだということで。
 無意識にリプレイしてしまう。彼の本心──聴いているこちらが恥ずかしくなるほどの、熱烈な思いの丈の数々を!
「しょ、正気……っ? だって僕、ずっとキミを騙していたんだよ? 神を演じていた時からずっとキミに迷惑をかけて、挙句キミが告白してくれたのだって疑う始末で、それでこんな、ややこしいことに……
 考えれば考えるほど、あんな真摯な想いを受け取っていいとは思えない。目を伏せると、じわりと涙が溜まる。申し訳ないし、恥ずかしいし、情けない。
「フリーナ殿」
 その声がとても優しくて、フリーナはそろりと視線を上げた。視線の先、ヌヴィレットは声音と同じく優しい顔で微笑んでいる。
「君は色々と考えすぎだ」
「え……?」
「様々考え、言葉を尽くすことも大切だが、ひとまず今は、理屈はあとでいいのではないだろうか」
 ぱちりと目を瞬く。確かにフリーナの疑問や葛藤についてをぶつければ、ヌヴィレットはそのひとつひとつに誠実に答えてくれるだろう。けれどそんな段階を経なくても、彼の心はもう明白だ。一足飛びに答えに辿り着いてしまった。
「でも……キミらしくない意見だね……?」
「そうだな。これはナヴィアさんの意見を下地としている。つまり受け売りだ」
「ナヴィアの……?」
 フリーナの脳裏にお日様みたいに快活で明るいナヴィアの笑顔が浮かぶ。言われてみれば彼女らしい考え方だ。
「受け売りだが……信じたくなる意見だった。君はどうだ?」
 信じられるかではなく、信じたいかどうか。
 フリーナはもう一度、今度は意識的にリプレイをかける。掛け値ない奔流のなか、確かに聴こえた。──好きだ、と。
 脳内に反響するその声に、知らず口の端が持ち上がる。
 ……ヌヴィレットは、僕が好き。僕も、ヌヴィレットが好き。
……うん」
 それはすとんと胸に落ち着いた。
 胸の奥、じんわりと熱が灯る。──あたかも花が咲くかのように。
……っ、ぅ……っ!」
 体内に有り得べからぬ質量が生み出される。これまで幾度となく味わった、花吐きの兆候。フリーナは咄嗟に体勢を横にした。
 喉奥に異物が迫り来る気配。けれどそれは、いつもの苦しいばかりのものではなかった。
 ほんのりと温かく、頑なだった心を解きほぐすような、柔らかななにか。拒む気持ちなど起きよう筈もなく、自然と口が開いた。
 シーツの上にふわりと零れ落ちたのは、あらゆる白が霞んでしまうほどの美しさを持った、白銀の百合。
 雪解け水のように澄んだ香りが鼻腔をくすぐり、光を受けてきらきらと輝いている。──まるで、祝福みたいに。
 息を呑んだのは、果たしてどちらだっただろう。
 フリーナは誘われるように、そろりと百合に手を伸ばす。まさに指先が触れそうになったとき、ずしりと重みがのしかかってきた。
「ヌ、ヌヴィレット!?」
 ヌヴィレットが急に身体を弛緩させ、フリーナにその身を預けてきたのだ。
 なにか身体に不調が生じたのだろうかと、慌てて呼びかけるフリーナの耳に届いたのは。
……よかった……
 吐息に紛れてしまいそうなほどにか細い、安堵の声。
 理屈でなく理解した。これをもって、花吐き病は終息したのだと。
 じわ、とまたも涙が滲む。今まで辿った軌跡と感情がいっぺんに湧き上がってきて、たまらなくなる。
……ごめんね、ヌヴィレット」
 様々な想いを込めて、フリーナは謝罪した。迷惑をかけて、心配させて、信じることが出来なくて、力が抜けてしまうくらいに気を揉ませて、ごめん、と。
「謝る必要はない。私の方こそ、過去に遡って至らぬ点が数多くあったように思う。それらを考えれば、君が私の言葉を信じられなかったのも当然のことであるし、私の方こそ君に謝罪しなければならない」
 どこまで自罰的な水龍だろう。とても容認できない。
「そんなことない。キミは自分に厳しすぎるよ。全部僕が悪かったんだ」
「そっくりそのまま、君にその言葉を返そう。全ては私の責任だ」
「なんだい、このわからず屋!」
「君の方こそ」
「なんだってぇ!」
 なんて頑固な水龍だ。いっそ腹が立ってくる。本格的な論破に及ぼうとして、ふと気付く。これ、いま話さないといけないこと?
「はぁ……、やめだやめ。今こんな疲れること、話したくない……
「まったくもって同感だ」
 今度は意見が一致した。やっと花吐き病が完治し、大団円を迎えたというのに、言い争いなどするものではない。そもそもヌヴィレットにのしかかられて、共にベッドに寝そべる体勢なのも間抜けすぎる。
 意識した瞬間、ヌヴィレットが二割増くらいに重たくなった気がした。
 男性としては細身の彼ではあるものの、それでも軽いとは言い難い。女性としても小さく細身であるフリーナとの体格差も相まって、まあ重い。
「ねえ……そろそろ、どいてくれないかな……? 重たいんだけど」
「嫌だ」
「え」
 嫌だって。彼らしからぬ子供みたいな言い方に目を見張る。
 それどころかヌヴィレットは、フリーナの背中とシーツの間に両腕を滑り込ませて、ぎゅうっと抱きしめてきた。ぐえ、と声を漏らさなかったのが上等だ。
「まだ……君の温もりを、感じていたい」
 そのうえ祈るような声音と共に、すり、と頬を擦り寄せられて、すっかりフリーナは抵抗できなくなってしまった。
 全身で味わう愛しいひとの重みと温もりは、どんな言葉よりも強いのだ。
……仕方ないなぁ」
 敗北を悟られないように気をつけながら、フリーナはそっと彼の背に手を回す。それを受け、ヌヴィレットはフッと満足気な吐息を零した。
 くすぐったくて身動ぎすると、腕の拘束が更に強まって、より互いの距離が縮まる。
 まったく、僕は抱き枕じゃないんだぞ、勘弁してくれ、なんて如何にも自滅しそうな文句を我慢すること、しばらく。前触れなくヌヴィレットが口を開いた。
「なにか、話をしないか。君の話を聞きたい」
「ええ……急に言われても、話題が浮かばないよ」
「その点は申し訳ないが、やはり何か話はしたい。理屈はあと、とは言ったものの、あれほど言葉を尽くしたというのに、結局のところ相互理解の獲得が身体的接触によるものだと思うと、如何ともし難い……
「言い方!」
 結構な語弊がある。身も蓋もない。これまでのあれそれが丸ごと台無しになってしまいそうなレベルである。
 こういうところは嫌い……いや、嫌いというほどではないんだけれど、一言物申したくはある。
「そんなにいうなら、言うけどさぁ」
「ああ」
「毎日ドゥボールケーキはいらない。どんなに美味しくたって、流石に飽きちゃうよ」
 うぐ、と小さな呻きが耳に届いた。
「うむ……そう……、そうか……
 しょんぼりと声を萎ませる様子が少し可哀想だったので、だってキミ、はっきり言わなきゃ伝わらないじゃないか、との追い討ちはやめておいた。なんだっけ、ブシの情け?
「すまない……まったく思い至らなかった。次より気をつけよう」
「まあ、キミは毎食水でも平気だからね……
「ああ、水こそ唯一にして至高だ」
 ヌヴィレットは揺るぎなく断言した。流石テイワット天然水ソムリエ(自称)ともなれば、言うことが違う。
「もっと教えてほしい。君の食の嗜好を……いや、食に限らず、好きなもの、嫌いなもの、どちらでもないもの。その全てが知りたい」
「なにそれ? 強欲だなぁ」
 フリーナはくすりと笑ってしまった。
「でも、いいよ。教えてあげる。その代わり、キミのこともいっぱい教えてね」
「ああ、勿論だ」
 当然に頷いてくれたことが、とても嬉しい。
 同時に、こんな当たり前の自己開示さえ今までしてこなかったんだなぁ、と痛感する。フリーナは生まれた時から偽りの神であるとの秘密を持っていたし、ここ百年は花吐き病の秘密まで抱えてしまっていた。とかく秘密が多すぎて、ありのままの自分を晒すほど恐ろしいことはなかった。
 今やっと、そんな日々が終わりを告げたのだ。
「でもさ、好きでも嫌いでもどちらでもないもの、ってけっこう難しいよ。そんなの普段意識してないしさ」
「そういうものか」
「うん。下手をしたら、昨日は好きだったけど、今日はそうでもない、ってこともありうるかも」
「難しいな……
 ヌヴィレットが感心しているような、不思議に思っているような声で唸る。水一強の彼には、移り気なフリーナの嗜好は摩訶不思議に映るのだろう。まさに異種族間の断壁だ。だからこそ、乗り越えるための努力をしなければならない。
「だからさ、そういうものは一緒に選ぶのがいいと思うんだ」
「一緒に?」
「うん、そう。キミの目を通して初めて気づくこともあるだろうし、キミとの思い出が出来たから好きになる、ってこともあると思う」
 ……ああ、僕いますっごく浮かれてる。
 どこか冷静な部分で、フリーナは思う。でも、今しかなかった。こんな恥ずかしいことを、恥ずかしげもなく言えるのは。
「さしあたっては、キミと一緒にごはんを食べたい。ドゥボールケーキにしたってなんだって、一人よりも二人で食べた方がきっと美味しいからさ」
 恋人関係になってから、食事を共にしたのはたった一度きり。ヌヴィレットは多忙の身だし、フリーナも病に侵され弱っていたから、普通の恋人みたいにのんびり過ごせなかったことは仕方のないことなんだけれど、それでもやっぱり味気ない。
 歪な始まり方ではあったが、せっかく恋人になったのだ。少しはそれらしいことをしたいじゃないか!
「──喜んで」
 柔らかな同意の声が降る。次いでまた少し腕の力が強まった。正直ちょっと苦しいけれど、もうどいてくれと言う気は起きない。
 だって今、きっとヌヴィレットは笑っているから。
「私からも、一つ頼んでいいだろうか」
「うん? なに?」
 問い返すと、ヌヴィレットがゆっくりと身体を起こした。消える重みと体温を名残惜しく感じるのも束の間、ヌヴィレットの指先が、フリーナの乱れた髪を梳くように整えていく。優しい手つきが気持ちいい。
 とろり、と瞼が溶けていくのを見計らったのかなんなのか、とにかくそういうタイミングで、ヌヴィレットの頼みごとは放たれた。
「もう一度、口づけをしてもいいだろうか」
「うぇえ……っ!?」
 おかげでふわふわと浮かびかけた意識が、再び呼び戻されてしまった。
「い、いや……それは……
「駄目なのか?」
「だ、駄目ではないんだけどさぁ……
 そんなストレートに言われると照れてしまう。けれど、そうと言っても情緒に乏しい龍に伝わるかどうか。
……? 何故頬を赤らめる? 先程は君から求めてきたではないか」
 だから言い方! そういうことじゃないんだってば! ていうか、頬が赤いのをいちいち指摘しないで! と苦情がみるみる湧き上がる。これは流石に説教案件だ。そう思うのに。
……あれは……ひとまず最後だと思っていたから……
 結局両手で顔を覆い隠し、弱々しい言い訳を述べることが、フリーナに出来る精一杯だった。
「ああ、私も最初で最後だと思っていた。だが、そうはならなかった。だからこそ再び味わいたいのだ。君の唇を」
 ……もうやめてくれ……
 内心の絶叫はもう声にならない。か細く、あぅ、とか、うぅ……とかくらいは漏れた気がする。
「駄目ではないのなら、してもいいということで構わないな?」
 もうすっかり虫の息だというのに、ヌヴィレットは追撃の手を緩めてくれない。最早正式回答すらショートカットするつもりらしい。
 べりっと両手を剥ぎ取られ、火照った顔を存分に見つめられた。表情筋が殆どボイコットしているヌヴィレットとの対比がつらい。
 そんなに見ないでよ、乙女心というか、デリカシーって分からない? 
 羞恥のあまりに涙目になりながら、今度こそはガツン言ってやるのだと、フリーナは決意を固めた。そうして口を開きかけた、その時。
「可愛い」
 その短な言葉は熱を孕んで、フリーナの耳朶を打った。
 形のよい唇が弧を描き、鋭い龍眼には甘やかな色が宿っている。
 それだけ。たったそれだけで、フリーナの決意も文句も、その全てがほろろに溶けて。
 残ったのは火照った頬と、うるさいくらいの胸の高鳴り。
 互いの距離が再び埋まり、世界は音をなくす。いつの間にか雨音は止んでいた。もうなにも、二人の間に入り込む余地はない。

 一度目は味わう余裕などなかったそれに、どんな味を感じたのかは、お互いだけの秘密だ。