【創作|馬軸】春雷 外伝 不知火 プロローグ

──その星が、俺の行くべき道を示してくれる。
「春雷」では描かれなかった牝馬クラシック路線から贈る、再起と栄光へ至るもう一つの物語。

スペシャルサンクス
Littorioさん 双鶴浅葱さんをお借りしました。めちゃくちゃ勝手に設定生やしてお借りしてめちゃくちゃ喋っていただいております。
山城まつりさん 櫻田翠先生のお名前、真田那央さんをお借りしております。那央さんにはめちゃくちゃ喋っていただいています。
早蕨足穂さん クロフォード先生(お名前は出ていません)をお借りしております。
さけはしろみさん 台詞の一部、設定の一部をお借りしております。
みなさまいつも遊んでいただき本当にありがとうございます。これからもよろしくお願い申し上げます。
※本作品は実在の名称、団体、企業などとは一切関係ない一次創作作品です。



 4
 ——数日後 栗東 沖田厩舎
 
 祝電の数々で埋め尽くされた事務所には、主張の激しい胡蝶蘭がいくつか置かれていた。オラリオンの馬主は大層喜んでいたらしく、蒼司曰く「あんなに喜んでるところ、初めて見たよ」とのことであった。
 オラリオンに関しては全てが終わった後、獣医に念のため診察してもらったと聞いている。特に異常もなく、出された飼い葉もしっかり完食していたそうだから、本当に何ともないのだろうなと思われた。

「いや〜、まさか、本当にオークス勝っちまうとはな」
……なぜ他人事なんだ。もっと喜べ」 俺の言葉にジェームズが頬を指で突く。
「実感が湧かなくてさ。だってほら、俺今までクラシックに縁があんまりなかったっつうか……勝ってるGⅠって古馬GⅠばっかだし……

 言い訳がましく言葉を連ねているが、実感があまり湧かないのは本心だった。俺が初めて勝利したGⅠは安田記念である。古馬マイル路線の伝統ある一戦だ。しかし残念ながらここ数年間はGⅠ勝利そのものから随分遠ざかっている。仕方ないとは思いながらも、悔しくなかったわけではない——惜しいところまでいくのだから尚更だった。

「あ、お、お疲れ様です」

 男性にしては比較的高い声が事務所に響いた。声の主は真田那央さなだなお——ココノエザクラを担当する、最近入った新人の厩務員である。

「那央」 ジェームズが真田へ呼びかける。「良嗣が酒饅頭を持ってきてくれたから、食べるといい」
「わ、ありがとうございます。いただきます」

 真田が部屋に入ってきたのを見計らい、段ボール箱に陣取っていた猫が彼の方へ走り寄っていった。どうも動物に好かれるタイプらしい。

「有馬さん、オークスおめでとうございます! 厩舎で見てました、凄かったです」
「ありがとうな。でもあれはオラリオンがすげえんだよ。正直、あいつじゃなかったら内側にいた、マーマレードダンスに差されてただろうな……

 阪神JFを制し、この世代の牝馬たちの中でも抜きん出た存在感を示す栗毛。それが瀬川迅一騎乗のマーマレードダンスだ。これからも牝馬クラシックを行くのであれば、絶対に避けて通ることのできない相手だろう。桜花賞馬のレゾナンスモニカも同じことだ。

……しかし、思い返せば阪神JFの一から三着で決着したのか。今回のオークスは」 ジェームズが独りごちた。
「確かに。あの時はダンス、モニカ、オラリオンの順でしたよね」

 真田が同意する。俺は頷くにとどめたが、確かに牝馬クラシック——牡馬路線へ向かったフジサワコネクトを除いた、ではあるが——の中ではここ三頭が頭一つ抜けた力を持っていると考えるべきなのかもしれない。

「フジサワコネクトって、やっぱり菊花賞まで行くつもりなんでしょうか」
「大目標はダービーだろうけどな……

 俺は酒饅頭の包み紙を剥がして半分齧った。仮にフジサワコネクトがダービーを勝利すれば、実に三十四年ぶりの牝馬ダービー馬の誕生となる。

「あの陣営、ロジェールマーニュ陣営をめちゃくちゃ意識してるだろ? 多分菊まで走るぞ、あれは。まあ、多分、だけど」

 俺はその青毛の名前を口にした。無敗三冠馬シャルルマーニュの産駒であり、中央競馬唯一の女性騎手——白綾后子にGⅠ勝利をもたらした「無敵の紳士」。それがロジェールマーニュという競走馬だ。牡馬クラシック第一戦、皐月賞を低人気から劇的な逃げ切りで制したこと、そして鞍上との運命的な出会いと相まって、軽いブームになっているところがある。この世代の代表は白綾后子とロジェールマーニュ、そんな呼び声も高い。

 故に牡馬クラシック路線はかなり注目度が高く、最近では「競馬には詳しくないが、后子とロジェールマーニュは知っている」といった層が増えているらしい——と風の噂で聞いていた。

「まあ、そっちが注目を吸ってくれてる方が、気が楽だよ。変に注目されるのは疲れる」
「またそんなことを言って。お前はいつもそうだ」

 ジェームズは二つ目の酒饅頭に手を伸ばし、急須から自分用の湯呑みへ、すっかり出涸らしになった緑茶を淹れた。

「新しいの、淹れましょうか」
……いや、いいよ。どうせ私しか飲まない」

 その言葉通り、各々水筒やらペットボトルやらを持参していた。全てを注ぎ切って、ジェームズはこちらへ視線を向ける。

「オラリオン……珍しく、ずっとご機嫌だった。よっぽどオークスが楽しかったらしい」
「へえ……明日は雹でも降るんじゃねえの」
「同感だ。……槍が降ってきても、不思議じゃない。だが沖田も言っていたが、やはりお前にオラリオンの手綱を任せて正解だった」
「やめろよ、照れるだろ」

 誤魔化すように残りの半分を口へ放り込む。柔らかな微笑みを浮かべているジェームズから視線を逸らし、俺はペットボトルの緑茶を胃へ流し込んだ。ジョッキーなんだからトクホなんて飲まなくていいだろう、という彼の声は無視しながら。
 
 
 オークスの翌週、日本ダービー東京優駿。それは世代の頂点を決める、一生に一度のレース。俺はこの日東京にいなかったが、合間を縫ってモニター越しにその激戦を目に焼き付けていた。
 フジサワコネクト対ロジェールマーニュ、あるいは瀬川迅一対白綾后子という構図の、そのレース。ロジェールマーニュは大きく出遅れて最後方から追いかける展開になったが、今度は逆にフジサワコネクトが大逃げを打ったのだ。おそらく大逃げを意図的にしているというよりも、何かに弾き出されるような形で前に押しやられたか、あるいは大きく掛かって逃げる形になったかの二択だろう。どちらにしても、この状況ではフジサワコネクトの勝利は厳しい。誰もがそう思っていた……のだが。

 フジサワコネクトは、他の追随を一切許さなかった。懸命に追い込んで追い縋ったロジェールマーニュでさえ、彼女の影を踏むことすら叶わなかった。

 誰が呼んだか、フジサワコネクトには「鉄骨娘」というあだ名がつけられていた。まさに、鉄骨の如き強さである。おおよそ牝馬のパワーではない。下手すれば菊花賞も勝つかもな、と誰かが言った——俺もなんとなく、そんな気持ちになる。

 古馬になれば、嫌でもどこかでこの怪物とぶつかる可能性がある。オラリオンとフジサワコネクトが激突することも、平気でありうる。俺は暗澹な気持ちを滲ませながら、モニターから視線を逸らす。
 オラリオンは強い牝馬だ。オークスを勝利し、世代の代表に名乗りをあげた。その功績に偽りなどありはしない。しかしこうも圧倒的な力で全てを——それどころか、牡馬相手をこんなふうにねじ伏せる牝馬が同期にいる。

「この世代、豊作だよな」
「やっぱそう思う?」 俺は横でポカリスエットを飲んでいた同期に問いかける。
「そりゃそうだろ。見ろよフジサワコネクト、あんなバッキバキの筋肉。芦毛って見栄えしねえのに、なんだあれ」
「だよな〜……

 芦毛というよりもう銀色に輝くその馬体は、内側から湧き上がってくる力と自信に満ち溢れているように見えた。俺は深々とため息を吐き出す。

「あれ、本当に牝馬かよ? なんだあのパワー、地面抉れてんぞ」
「ロジェールマーニュ、やっぱり出遅れが痛かったな。后子ちゃん、悔しかったろうなあ」 ベテランの騎手がタオルで顔を拭きながら言う。そうですね、と俺は同意を返して、
「いや、あの——冷静に考えたら、ですけど。俺ら、年末有馬記念あれと戦うかもしれないんですよね?」
「うわあ…………

 美浦も栗東も関係なく——全員、奇跡的な意志の一致を見た瞬間である。俺は深々と息を吐き出して、再びモニターへ視線を向ける。

「オラリオン……

 お前なら、あの星を撃ち落とせるか?
 内心でそう、問いかける。
 口角が無意識に上がっていることに気づいたのは、双鶴に「何笑ってんだよ」と指摘されてからだった。

「え、俺、笑ってる?」
「笑ってるよ、珍しくすっげえ楽しそうにな」 双鶴は少し呆れたように言ったが、二言目には「ま、気持ちはわからなくはないけどな……」と続ける。
「分からなくはないってお前——
「だってムカつくだろ。どこ行ったってフジサワコネクト、瀬川迅一。これからはきっともっと言われんぞ。なんたって三十四年ぶりの牝馬ダービー馬になったんだからな」

 双鶴は忌々しいと言わんばかりの表情でモニターを睨みつけたまま、同輩と思い難いほど凄絶な笑みを浮かべる。

「だから倒すには打ってつけの相手じゃねえか」
「お前、フジサワコネクトを負かす気でいるのかよ」 俺は口にしてから己の失言に気づいたが、時すでに遅かった。
「じゃあなんだ? 有馬。あっさり勝ちを譲ってやる気でいるのか?」
「いや、それは——
「お前はいい加減にあの影から抜け出すべきだ。いつまでドバイの幻を引きずってる?」

 俺はそう言われて言葉に窮する。
 砂漠の中に突然現れた近代都市。中東で行われる栄誉あるドバイワールドカップデー。その美しい人工的な都市の輝きに、そこに置かれた一つの黄金に目が眩んだ。
 ドバイデューティーフリードバイターフと呼ばれているレースがある。俺はそこで——

「違うんだ、双鶴……俺は」
「いや、違わない」 双鶴は頭を緩く横へ振った。「お前は勝ちたいんだよ。というか、勝たなきゃならない」

 双鶴はタオルを首に引っ掛け、白いTシャツを乱暴に掴んでその場を去っていく。しかし検量室を出ていく寸前でその足を止めた。

「まあ、お前が勝てねえって言うなら、俺が勝つ」

 その言葉は鋭利に俺の胸へ切り込んでくる。
 競馬学校の頃から、相変わらずこういう男だった。まっすぐで、潔白で、柳のようなしなやかさを持っている。その眩しさに、目が焼けてしまうと思われるような時があった。

「俺はもう一度、お前と本気の勝負がしたい」