【創作|馬軸】春雷 外伝 不知火 プロローグ

──その星が、俺の行くべき道を示してくれる。
「春雷」では描かれなかった牝馬クラシック路線から贈る、再起と栄光へ至るもう一つの物語。

スペシャルサンクス
Littorioさん 双鶴浅葱さんをお借りしました。めちゃくちゃ勝手に設定生やしてお借りしてめちゃくちゃ喋っていただいております。
山城まつりさん 櫻田翠先生のお名前、真田那央さんをお借りしております。那央さんにはめちゃくちゃ喋っていただいています。
早蕨足穂さん クロフォード先生(お名前は出ていません)をお借りしております。
さけはしろみさん 台詞の一部、設定の一部をお借りしております。
みなさまいつも遊んでいただき本当にありがとうございます。これからもよろしくお願い申し上げます。
※本作品は実在の名称、団体、企業などとは一切関係ない一次創作作品です。


 2
 ——数刻後
 
 厩舎地区へ戻り、沖田厩舎の建物にそのままくっついている事務所へ顔を出せば、そこには一旦業務を終えた面々が揃っている。俺は適当なパイプ椅子に腰掛けて、気難しい表情でバインダーの紙を繰っている蒼司に視線を向けた。
 今、最も蒼司の中で胃痛の種であろうオラリオン。その一方で、ファンや新聞各社からの注目度はそれなりに高く、桜花賞の出走取り消し——そうした過去のことも相まって、「上位に来そうな馬」「少々怖い馬」といった評価がされているらしかった。

……すまない、遅れた」 担当厩務員のジェームズが顔を出す。「櫻田……ああ、ひすい先生の話だと、特に気にする必要はないらしい。いつも通り、足元のケアに重点を置いてやればいいとのことだ」
「ありがとう。それなら、まあ……大丈夫かな」 蒼司は安堵したのか、目尻を綻ばせた。「少し気が早いかもしれないけど、先の話をしておくよ」
「ああ」

 つまりオークスの次走、という意味だ。牝馬クラシックは桜花賞、オークス(優駿牝馬)、秋華賞の三つからなる三歳牝馬限定のGⅠ競走である。この三つは競走馬人生の中で出走できるのは一度きり、即ち勝てば生涯の栄誉になる。オラリオンもまた、この牝馬クラシック路線に照準を合わせて調整していたのだが——

「オークスの後は、休養を挟んで前哨戦へ向かおうと思ってる」
「GⅡに出すのか? 直行ではなく?」 ジェームズが驚いたように目を丸くした。
「今、ストライド走法に矯正できてきているでしょう?」 蒼司はピースするように左手の指を立てた。「休養を挟んでまた走り方を勝手に変えていないか、見極める。あの子は賢い、調教で教えられた通りに走っても、本番では違うことをすることがある」
「あー、確かにな……」 俺は過去の出来事を思い出す。阪神JF、その直前追い切りと本番とでは走り方が全然違ったことを。「器用なもんだが、あれは無駄に負担がかかるもんな」
「そういうこと。だから秋華賞前にローズステークスへ出して、そこで良嗣とちゃんとコンタクトを取れるか、確認する」
「沖田。……それは、つまり」

 ジェームズが遠慮がちに声をあげた。俺も蒼司が言わんとしていることは理解できた。

「ローズステークスで俺とあいつが噛み合わなければ、そこ以降は乗り替わり。そういうことだよな?」
「うん。悪いけど」 蒼司はあっさりと認めた。「オラリオンは、絶対に勝たせないといけない。……僕が選んで、僕が連れてきた馬だから」

 彼はまだ、桜花賞の出来事を引きずっているらしかった。
 桜花賞の発走直前、彼女は一向にゲートへ向かおうとせず、頑なにゲートの後ろで立ち止まり、そして左前脚を気にするような仕草を見せていた。俺は即座に下馬して簡易的な診断を獣医へ依頼した。
 その結果、競走除外——つまり、桜花賞に出走できないまま第一戦を終えた。だがもしもこの違和感を見逃して走っていたら? 考えただけでも恐ろしい。

 蒼司はこの出来事に調教師として——かなり負い目を感じているのか、ことオラリオンには神経質な一面を見せていた。それは以前から理解していたし、今では一人の騎手が最初から最後まで乗り続けるのではなく、必要に応じて騎手を変える方が主流なのだから、何も間違った選択ではない。

「にゃ、うにゃ〜〜」
「うおっ」

 足元に毛の長い大きな猫が擦り寄っている。黒っぽい、光の反射によっては若干紫がかったような色合いにも見える不思議な毛色をしていた。どうやら厩舎猫らしい。

「煮干しもちゅーるも持ってねえよ」
「ふにゃ」 猫は俺から興味を失ったのか去っていき、ジェームズの膝へ飛び乗った。「な〜、にゃ〜〜。うにゃ〜〜」
「よく喋る猫だなあ……」 俺は独りごつ。そのつぶやきを拾った蒼司は、
「そうでしょ? おしゃべりだよね、カレンちゃん」
「だな。それで、蒼司。オークスだが——

 俺はなんとなく言い淀む。彼の決断を疑うようなことはあまりしたくなかった。そもそも異業種からここへやってきて、数年のうちにGⅠへ気軽に殴り込めること自体異常なのだ。心労極まるだろう彼に、これ以上悩みの種を増やすことは憚られるだろう。

 そして、何よりも。
 競走馬へ深く感情移入しない。それは俺が、あの日から強く意識していることだった。
 しかし残念なことに、俺はすっかりオラリオンのことを特別な一頭であると確信していた。
 いつだって現実は凍てつくように冷たく、俺が自分の手で終わらせない限り連綿と続いていく。


「あのさ。いや、あの……わかっては、いるんだが。オークス勝ったら、考え直してくれねえか」
——何を?」

 蒼司はわざとらしく、悪戯っぽい微笑みを口元へ浮かべた。そして俺はこの時「やられた!」と漸く気づいた——彼は最初から乗り替わりなんてする気はさらさらなかったのだ。俺の口からこれを言わせるためだけに、あんなことを言った。

「お前……そういうところ、本ッ当に昔から変わんねえよなあ!」
「え〜? そうかな? 良嗣が意地張ってるのが悪いんじゃない。僕は何もしてないよ」
「あーあーうるせえうるせえ! このインテリヤクザ、分かったよ、俺が悪うございました! オークス勝ったら考え直せ! あのじゃじゃ馬娘が俺以外の言うことを聞くと思うなら、美浦でも外国人でもどこからでも屋根騎手引っ張ってこいよな……
「思わないよ。ただまあ、海外レースを視野に入れるなら、少し考えないといけないね」

 俺は思わずその言葉に押し黙った。
 海外。——海の、向こう側。
 頭の中で反響する歓声と、それに反して冷め切っていく手指の感覚。
 気づいた時にはすでに何もかもが手遅れだった。
 あの日の後悔が、今も焼きついて離れない。
 
「ごめん、良嗣——」 蒼司が顔を顰めて呟いた。「軽率だった。今はオークスだけを考えよう。話は全てそれからだ」
「そうだな」

 掠れた声が唇の間から零れ落ちる。意志の薄れたそれに、答えるものは誰もいなかった。